004 やっぱり異世界?
『朝雄、朝よ。起きなさい』
桜の声が聞こえた気がして、朝雄は目を覚ました。
「……桜姉?」
反射的に周囲を見回す。
だが、当然そこに桜の姿はない。あるのは昨日見つけた岩場と近くを流れる川、そして朝の光に照らされた森だけだった。
「……毎日の習慣ってすごいな」
苦笑しながらスマートフォンを取り出す。
時刻は午前七時。いつも桜が起こしに来る時間と、ほとんど同じだった。
「桜姉、梅姉……それに卓也も、心配してるだろうな……」
三人の顔を思い浮かべると、胸の奥に寂しさがこみ上げてくる。だが、生きていなければ、あの大切な人たちと再会することもできない。
「帰らないと……」
朝雄は小さく呟いた。
ここが本当に異世界なのかは、まだ分からない。それでも、まずはこの遭難状態から抜け出さなければならない。
そう決意を新たにしたところで。
ぐぅぅぅ……。
「……」
腹が盛大に鳴った。
「今日中に食べ物を見つけないと、本当に動けなくなるかも……」
昨日からほとんど何も食べていない。とりあえず川で顔を洗い、水を飲んで空腹をごまかす。
冷たい水で少し頭がすっきりしたところで、朝雄はこれからどうするか考え始めた。
食べ物を探すだけなら、森の中へ入った方が木の実などを見つけられる可能性は高いだろう。だが、道のない森を歩く大変さは昨日十分に思い知ったし、体力の消耗も激しい。
それに、もし熊のような野生動物に出会えば――。
「その時点で人生終了だよね……」
朝雄は少し考えた後、頷いた。
「よし。ここは『いのちをだいじに』作戦でいこう」
森の中を闇雲に歩くより、川沿いを下流へ進む。川の下流なら、いつか集落や町、あるいは道など、人の生活圏へつながっている可能性がある。
「まずは、人がいそうな場所を探そう」
朝雄はそう決め、川に沿って歩き始めた。
◇ ◇ ◇
三時間ほど歩いただろうか。
「お腹空いた……」
いくら水を飲んでも、さすがに空腹をごまかせなくなってきた。身体が重く、足を前へ出すのも少しずつ辛くなっている。
そんな時だった。
「あれ?」
川の両岸に生えていた木々が次第にまばらになり、さらに進むと一気に視界が開けた。
「森を抜けた?」
目の前には、広い草原が広がっていた。左側は少し高い丘のようになっており、その先までは見通せない。右側には、なだらかな起伏を描く草原がどこまでも続いている。
朝雄は期待しながら周囲を見回した。
「……何もない」
家も道路も電柱も柵も、そういった人工物は一つも見当たらない。
川は少し先で左へ曲がっている。
「もう少しだけ川沿いに行ってみよう」
朝雄はそのまま歩き続けた。
川が左へ大きく曲がる辺りまで来た時。
「ん?」
川辺に、何か動いているものが見えた。
まだ距離があるため、はっきりとは分からない。朝雄は足を止め、目を凝らした。
「動物……?」
慎重に近づいていく。
四足歩行で、形だけなら犬にも見える。だが、かなり大きい。
濃いグレーの毛並みに大きな口。体高も高く、朝雄と比べてもかなりの大きさがある。
「犬っていうより……狼っぽいな」
本物の狼など見たことはない。それでも、少なくとも野良犬には見えなかった。
「近づかない方がいいよね……」
気づかれれば襲われるかもしれない。
朝雄は近くの草むらへ身を隠し、様子を窺った。
すると、狼らしき動物が急に動きを止めた。
「……?」
少し頭を下げる。
まるで獲物を見つけたような姿勢だった。
そして、ゆっくりと歩き出す。
朝雄はその視線の先を追った。
「あ……!」
人がいる。
ようやく見つけた人間に、朝雄の顔へ一瞬笑みが浮かんだ。
だが、すぐにその表情が消える。
「まさか……」
狼の目的が分かった。
人影はまだ小さく、子供のように見える。その子供へ向かって、狼がじりじりと距離を詰めていた。
「危ない!」
朝雄が草むらから飛び出したのと、狼が地面を蹴ったのはほとんど同時だった。
ものすごい速度で、狼が子供へ向かって走る。
「危ない!!」
朝雄は大声で叫んだ。
その声に気づき、子供がこちらを振り返る。そして、自分へ迫ってくる狼を見た。
「……っ!」
恐怖で身体が固まったのだろう。
動かない。
逃げようとすらしない。
狼は大きな口を開き、その子供へ飛びかかった。
『助けないと!』
朝雄が強くそう思った瞬間、身体の中でまた『何か』が大きく動いた。
「っ!?」
次の瞬間。
朝雄は、狼と子供の間に立っていた。
「え――」
どうやって移動したのか。そんなことを考える暇すらない。
目の前には、大きく口を開いた狼が迫っている。
朝雄は反射的に左腕を上げ、顔を庇った。
「ぐっ!」
狼の牙が左腕へ食い込む。
「ぐああああっ!!」
激しい痛みとともに血が飛び散った。
狼は噛みついたまま、凄まじい力で朝雄を振り回す。
「うぁっ……!」
ゴキリ。
左腕から、嫌な音がした。
「っ……!」
折れた。
そう理解した瞬間、痛みで意識が遠のきかける。
『駄目だ……』
ここで意識を失えば、後ろにいる子供が襲われる。
『助けないと……!』
ただその思いだけで、朝雄は意識をつなぎ止めた。
狼に左腕を噛まれたまま、右腕を振りかぶる。だが、身体を振り回されている状態では力など入らない。
必死に右手を狼の身体へ叩きつけた。
実際には殴ったというより、ただ触れただけに近かった。
その瞬間。
「っ!?」
右手が熱くなった。
そこから何かが、一気に飛び出していく。
ドンッ!
鈍い衝撃音。
次の瞬間。
「……え?」
狼の身体に、大きな穴が開いた。
血と肉片が飛び散り、狼は力を失ってその場へ崩れ落ちた。左腕を噛まれたままだった朝雄も、引っ張られるように倒れ込む。
「……っ」
身体が動かない。左腕が焼けるように熱く、激しい痛みとともに大量の血が流れているのが自分でも分かった。
「……」
視界が狭くなっていく。
その時、助けた子供が朝雄の顔を覗き込んだ。
「――――!」
何かを叫んでいる。
だが、もうよく聞こえない。
狭くなっていく視界の中、朝雄は泣いている子供の顔を見た。そして、その頭の上でぴこぴこと動いている、動物の耳のようなものを見つけた。
「……ケモ耳……」
朝雄の口元が僅かに緩む。
「いい……」
それだけ呟くと、朝雄の意識は途切れた。
◇ ◇ ◇
気がつくと、また周囲は真っ白だった。
「……またここか」
朝雄は、自分の左腕を見る。
「ない……」
狼に噛まれたはずの傷がない。腕も普通に動く。
「かなり血が出てたし……今度こそ死んだのかな」
そう呟く。
だが、これが死ぬ間際に見る夢ではないことは、なんとなく分かっていた。
「たぶん……また出てくるよね」
朝雄の予想通り、しばらくすると白い空間の中に人影が浮かび上がった。
「あ、やっぱり」
銀色の長い髪。
尖った耳。
あの少女だった。
三回目ともなれば、朝雄もさすがに驚かない。ただ黙って、その少女を見つめる。
「……」
何かが、頭の奥に引っ掛かっている。
「なんだろう……」
この少女を知っているか。
そう聞かれれば、朝雄は間違いなく知らないと答える。持っていた漫画にも、見ていたアニメにも、読んだ小説にも、こんな人物はいなかった。
「でも……」
どうして、こんなにも懐かしいような気がするのだろう。
「誰なんだろう……君」
当然、少女から返事はない。
やがて銀髪の少女の姿が、ゆっくりと薄れていく。
「あ……」
完全に消えると、白かった空間も暗闇へ変わった。
そして、朝雄の意識は再び途切れた。
◇ ◇ ◇
次に朝雄が目を覚ました時、最初に目に入ったのは木材を組み合わせて作られた天井だった。
「……?」
背中には柔らかな感触がある。
朝雄はゆっくり首を動かした。
「ベッド……?」
どうやら木製のベッドの上で、布団を掛けられて寝ているらしい。
「ここ……家の中?」
部屋を見回す。
床も壁も天井も、ほとんどが木材で作られていた。ベッドの近くには窓、反対側には扉があり、部屋の中には木製のタンスや椅子、テーブル、そして籠が置かれている。
「あ」
籠の中には、朝雄が着ていた制服が入っていた。その横には、靴も綺麗に揃えて置かれている。
「……」
自分の身体を見る。
上半身は裸だった。
「ズボンは……」
足へ手を伸ばす。
「穿いてる……よかった」
朝雄は少し安心した。
ポケットの感触に気づき、スマートフォンを取り出す。
「まだある」
画面を確認すると、日付はさらに一日進んでいた。
「朝八時くらいか……」
かなり長い時間、意識を失っていたらしい。
スマートフォンをポケットへ戻し、朝雄は布団へ手をついて身体を起こそうとした。
「うっ……」
力が入らない。
「なんで……」
腕にも足にも、ほとんど力が入らなかった。
それでも何とか起きようと、布団の中でもぞもぞ動いていると。
ガチャリ。
部屋の扉が開いた。
「良かった。気がつかれたんですね」
「え?」
笑顔でそう言いながら、一人の女性が部屋へ入ってきた。
身長は百六十センチほど。長い茶色の髪に、瞳も髪と同じ茶色。
年齢は朝雄より少し上に見える。穏やかな笑顔と柔らかな雰囲気から、優しいお姉さんという印象を受けた。
女性はベッドの近くまで来ると、朝雄の顔を覗き込んだ。
「っ」
突然、綺麗な女性の顔が近づき、朝雄は少し驚く。
しかし女性は気にした様子もなく、朝雄の顔色を確かめていた。
「まだ顔色がよくありませんね」
優しい口調で続ける。
「だいぶ血が出ていましたから、もう少し横になっていてください」
「血……」
そこで朝雄は、狼に左腕を噛まれたことを思い出した。
「あっ!」
慌てて布団から左腕を出し、目の前へ掲げる。
「……治ってる?」
傷がない。
牙が深く食い込んだはずなのに、痕すら見えない。
腕を曲げてみる。
「痛くない……」
狼に振り回された時、確かに骨が折れた音も聞いた。だが、骨折している様子もない。
朝雄が不思議そうに腕を見つめていると、女性が説明してくれた。
「噛まれた傷と折れた腕は、治癒魔法で治療しました」
「……」
「でも、流れてしまった血までは戻せません。しばらくは安静にしていないと駄目ですよ」
「……治癒……魔法?」
朝雄は目を見開いた。
「はい」
女性は何でもないことのように頷いた。
「魔法……」
朝雄の頭の中で、その言葉が何度も繰り返される。
嘘を言っているようには見えないし、そもそもこんな嘘をつく理由もない。そして何より、狼に食いちぎられそうなほど深く噛まれ、骨まで折れていたはずの腕が、今は完全に元通りになっている。
現代の医療でも、一晩で傷跡すら残さず元通りにするなど不可能だ。
『治癒魔法……』
朝雄は、昨日起きた出来事も思い出す。
狼の身体に開いた大穴。
人間とは思えない速度で移動した自分。
獣の耳を持った子供。
そして、この女性の口から出た『魔法』という言葉。
「……」
どうやら、本当に。
「異世界……なのかな」
小さく呟いた。
その時。
ぐぅぅぅぅぅ……。
「……」
静かな部屋に、朝雄の腹の音が盛大に響いた。
「……っ!」
朝雄の顔が一気に赤くなる。
女性は少しだけ目を丸くした後、
「ふふっ」
楽しそうに笑った。
「食べる物を用意してきますね。少し待っていてください」
「す、すみません……」
女性がベッドから離れ、扉へ向かおうとして。
「あ」
何かを思い出したように振り返った。
「そういえば、まだ自己紹介をしていませんでしたね」
女性は柔らかく微笑む。
「私はアリアです。あなたのお名前を聞いてもいいですか?」
「あ……」
そういえば、こちらも何も名乗っていなかった。
「八神朝雄です」
「ヤガミアサオさんですね」
アリアは頷いた。
「食事を持ってきますから、もう少し待っていてくださいね」
「はい」
アリアはそう言うと、扉へ向かって歩き始めた。
朝雄はその細い背中を、何気なく見送る。
「……」
そして、視線を少し上へ向けた。
「……ん?」
アリアの後頭部。
正確には、その頭の上で。
ぴこ。
ぴこぴこ。
機嫌よさそうに動いている。
犬のような耳。
「……」
朝雄の視線が、ゆっくり下へ移動する。
腰の辺り。
そこでは。
ふり。
ふりふり。
同じく楽しそうに、尻尾が揺れていた。
「……」
朝雄は無言でそれを見つめる。
そして。
「やっぱり異世界だ……」
小さく、しかし今度は確信を持って、そう呟いた。
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