048 桜サイド 朝雄の婚約者②
エミリーから朝雄の婚約者の名前を告げられると、それまで比較的冷静に話を聞いていたスミレも驚きを隠せなかった。
目を見開き、僅かに口を開けたまま母親を見る。
「お、王女様……?」
桜と梅に至っては、朝雄に婚約者がいるという衝撃から立ち直る前に、さらに「魔王国の第一王女」という情報まで加わったことで、完全に思考が追いついていなかった。
「さ、さすがに魔王国の王女様だとは思いませんでした……」
最初に立ち直ったのはスミレだった。
「ですが、サーシャ王女はガルドール魔王国の次期女王と伺っています。お兄様と結婚するとなると、お兄様が魔王国へ婿入りするということになるのですか?」
「……うん。その通りだよ」
エミリーが気まずそうに頷く。
「この婚約は、将来サザーラント王家の男子をサーシャ様の婿としてガルドール魔王国へ迎える、という条件で結ばれたものなの」
「そんな……」
スミレが困惑するのも当然だった。
朝雄はサザーラント王家にとっても、極めて重要な存在だ。
しかも本人は、自分が王族の血を引いていることすら知らない。
そんな朝雄を他国の王女の婿にする話が、なぜ本人の知らないところで成立したのか。
「普通なら、そんな条件を簡単に受け入れるはずがないんだけど……それには事情があって……」
エミリーはそこで言葉を濁し、恐る恐る桜と梅へ視線を向けた。
「その事情とは?」
桜が静かに尋ねる。
「……」
梅は笑っている。
だが、目はまったく笑っていなかった。
桜に至っては完全な無表情になっている。
『怖い……!』
エミリーの額から、だらだらと冷や汗が流れ始めた。
昨夜ターニャに言われた、
『まず梅様に殴られて、その後で桜様に斬られるかもしれませんね』
という言葉が頭をよぎる。
「えっとね、その……」
エミリーがなかなか話し始めないのを見て、ターニャは小さく溜息をついた。
「エミリーからは話しづらいでしょうから、私が説明いたします」
「ターニャ……!」
エミリーは、まるで救世主を見るかのような目でターニャを見つめる。
ターニャはそんなエミリーを完全に無視し、桜たちへ向き直った。
◇ ◇ ◇
「エミリーが皆様のいた世界へ転移した後、私はすぐに国王陛下と王妃様へ報告しました。当然、お二人とも大変驚かれました」
一人娘が異世界へ消えてしまったのだ。
驚かない方がおかしい。
桜と梅も、朝雄が異世界へ転移したと聞かされた時のことを思い出していた。
「その後、エミリーが異世界へ逃亡――」
「ターニャ?」
「……失礼しました。エミリーが転移を決意するきっかけを作った国王陛下は、王妃様から大変厳しいお叱りを受けました」
エミリーが日本へ逃げた原因は、望んでもいない婚約話だったと聞いている。
桜と梅も、自分たちが朝雄以外の相手と無理やり結婚させられることになれば、素直に従える自信はまったくなかった。
『逃げる気持ちは、ちょっと分かるわ……』
『うん……』
二人から僅かに同情の視線を向けられ、エミリーの表情が少しだけ明るくなる。
「もっとも、その婚約自体は犯罪者を捕らえるための芝居だったことが後で分かりました。そしてエミリーは、こちらの世界へ戻るための魔法陣も残していましたので、すぐに呼び戻そうとしたのですが……」
そこまで話したターニャは、深い溜息をついた。
「勇者召喚の魔法を研究していたのも、それを改造して異世界転移の魔法へ作り替えたのも、ほとんどエミリー一人だったのです」
「……」
「つまり、残された者には魔法陣の詳しい使い方が分かりませんでした」
ターニャの顔が、少しずつ怖くなっていく。
対するエミリーは、いつの間にか視線を逸らして小さくなっていた。
「そのため、すぐにエミリーを呼び戻すことはできませんでした。エミリーがいなくなった事実は、国王陛下と王妃様、それにごく一部の信頼できる者だけの秘密とし、表向きは病気療養中ということにしました」
「なるほど……」
「その間、王宮の魔法使いたちが総出で、エミリーの残した魔法陣を解析することになりました」
解析には半年近い時間を要した。
そしてようやく転移魔法の仕組みが分かったところで、新たな問題が発覚した。
「エミリーをこちらへ呼び戻すには、途方もない量の魔力が必要だったのです。試算では、サザーラント王国全体でおよそ三年かけて消費する量に匹敵する魔石が必要でした」
「三年分……?」
梅が目を丸くする。
「はい」
ターニャは静かに頷いた。
「そして最大の問題は――その大量の魔石を、エミリーが日本へ転移する際にすでに使ってしまっていたことです」
「……」
桜と梅、そしてスミレの視線が、一斉にエミリーへ向かう。
「てへっ」
エミリーが自分の頭を軽く叩く。
「……」
「……」
「……」
三人の視線がさらに冷たくなった。
「エミリー」
ターニャの額に青筋が浮かぶ。
「ご、ごめんなさい!」
エミリーは即座に姿勢を正した。
◇ ◇ ◇
「まずは国内で必要となる魔石の備蓄を回復させなければならず、王妃様と……なぜか私まで中心になって、魔石の節約と備蓄に奔走することになりました」
「ターニャさんもですか?」
梅が同情するように尋ねる。
「はい。なぜか私もです」
ターニャは遠い目をした。
その表情だけで、当時どれほど苦労したのかが分かる。
「一応、国に必要な分は残してきたつもりだったんだけど……ちょっと計算が甘かったかな?」
「……」
「ごめんなさい。黙ります」
ターニャから向けられた視線に耐えられず、エミリーは自分の口を両手で塞いだ。
「どれほど節約しても、エミリーを呼び戻せるだけの魔石を用意するには五年以上かかると見積もられました。しかし、国内の状況がそれほど長く待つことを許してくれませんでした」
桜たちは黙って続きを待つ。
「エミリーが病気療養中と発表されてから一年ほどすると、さすがに療養期間が長すぎるのではないかと、貴族たちの間で疑念が広まり始めました」
「……」
「やがて『すでに亡くなっているのではないか』『城を出て駆け落ちしたのではないか』など、様々な噂まで流れるようになったのです」
魔石の節約と確保。
転移魔法の解析。
さらに王女失踪の噂まで揉み消さなければならない。
桜と梅だけでなく、スミレまでターニャへ同情するような視線を向けた。
「そんな生活で心身ともに疲れ切っていた頃、帰還用の魔法陣にエミリーからの手紙が届いていることが分かりました」
「お母様から?」
「はい。私も王妃様も、エミリーが無事でいることを心から喜びました」
ターニャが一度言葉を切る。
「手紙を開くまでは」
「……」
室内の空気が変わった。
エミリーはすでに小刻みに震えている。
「そ、その手紙には何が……?」
梅がおそるおそる尋ねた。
ターニャは無表情のまま、十年以上前に届いた手紙の内容を読み上げ始めた。
「『ターニャへ。結婚しました! 私は今、幸せの最高潮です! お相手は喜一郎様と言って、私の理想を形にしたような素敵な方です! 頻繁には送れないけど、また手紙を書きます』」
「……」
ここまではまだいい。
「『ターニャもいい歳なんだから、そろそろ結婚を考えないと駄目だぞ! あなたの親友エミリーより、はぁと』」
「……」
恐ろしいほど正確に覚えている。
しかも途中から、わざわざ当時のエミリーの口調まで真似していた。
「分かりますか?」
ターニャの声が低くなる。
「私が国中を走り回って魔石を節約し、王女失踪の噂まで揉み消していた時に、その元凶から届いた手紙がこれです」
「ひぃっ……」
「人の苦労も知らずに幸せ報告をした挙句、私に結婚しろとまで書いてきたのです!」
エミリーだけでなく、桜と梅まで身体を震わせる。
スミレに至っては、僅かに涙目になっていた。
それに気づいたターニャは、はっとして表情を戻す。
「……失礼しました。当時のことを思い出して、少々取り乱しました」
「い、いえ……」
「大丈夫です……」
桜と梅は同時に思った。
『ターニャさんだけは、本気で怒らせないようにしよう』
と。
◇ ◇ ◇
「その後も、私と王妃様は噂を抑え続けました。しかし肝心のエミリー本人が姿を見せない以上、噂を完全に消すことはできません」
そして、エミリーがいなくなってから約二年。
状況はさらに深刻になった。
「貴族たちの間では、エミリーはすでに亡くなっているという噂が、半ば事実として扱われるようになりました」
「王位継承の問題ですね」
スミレが静かに口を開いた。
ターニャは頷く。
「その通りです」
サザーラント国王の子供は、エミリーただ一人。
その一人娘が死亡したとなれば、次代の王家をどう存続させるのかという問題が生じる。
「王族から分かれた公爵家をはじめ、過去に王族を嫁や婿として迎えた家など、王家と血縁のある複数の貴族家が、次代の王位を巡って水面下で争い始めました」
「……」
「まだ国王陛下はご健在でしたから、すぐ表立った争いにはなりませんでした。しかし放置できる状況でもなく、国王陛下と王妃様が直接、各家の調整に動くことになったのです」
そこでターニャが、何とも言えない顔をする。
「そのような時期に、エミリーから二通目の手紙が届きました」
「また……?」
梅の顔が引きつる。
「安心してください。今度は比較的まともな内容でした」
ターニャが少しだけ疲れた笑みを浮かべる。
「アサオ様が生まれたという報告です」
「朝雄が……」
桜の表情が僅かに柔らかくなる。
「本来なら王家に男子の孫が生まれた、大変喜ばしい知らせです。ただ、エミリーがどこにいるのかを公表できない状況でしたので、アサオ様の存在も広く公にはできませんでした」
「そうだったんですね……」
朝雄自身が自分の血筋を知らずに育った理由の一つでもある。
「それでも国王陛下と王妃様にとっては、大切な孫が無事に生まれたこと、そして王家の血を継ぐ男子が存在することが確認できたのは大きな希望でした」
だが、それだけで問題が解決したわけではない。
エミリーが帰還できなければ、朝雄の存在を正式に表へ出すことも難しい。
「時間が経つにつれて王位継承を巡る争いは激しくなり、ついにはこれ以上抑えるのが難しいと判断されました」
ターニャが一呼吸置く。
「そこで国王陛下は、ガルドール魔王国から大量の魔石を借り受け、予定を早めてエミリーを呼び戻すことを決断されたのです」
◇ ◇ ◇
「でも……そんなに大量の魔石を、簡単に貸してもらえたんですか?」
梅が疑問を口にする。
「もちろん、無条件ではありません」
ターニャが答える。
「サザーラント王国の備蓄もまだ完全には回復しておらず、エミリーを呼び戻すためには莫大な量の魔石を借りる必要がありました。それだけの支援を受ける以上、ガルドール魔王国側も相応の条件を求めました」
「それが……」
桜の表情が険しくなる。
「朝雄なのね」
「はい」
ターニャが静かに頷いた。
「両国の王家の間で、将来サザーラント王家に男子がいる場合、その男子を第一王女サーシャ様の婿として迎えるという条件が提示されました」
「……」
「そしてその時、国王陛下と王妃様はすでにアサオ様の存在を知っていました」
だからこそ、その条件が誰を意味しているのかも分かっていた。
「それでも……受け入れたんですね」
梅の声が低くなる。
「はい」
ターニャも誤魔化さなかった。
「国内の王位継承争いを抑え、エミリーを呼び戻すには、それしか方法がないと判断されたのでしょう。その結果、両王家の間で非公開の正式な合意が結ばれました」
桜の手が、膝の上で強く握られる。
「朝雄本人には何も聞かずに……」
「……はい」
エミリーが小さく答えた。
「その後、魔王国から借りた魔石を使って私はこの世界へ呼び戻されたの。それからスミレを妊娠していることが分かって……私が生きて帰ってきたことで死亡説も消えたし、朝雄がいることも王家の中では改めて確認された。いくつかの事情が重なって、王位継承を巡る争いも落ち着いていったんだよ」
スミレは黙って母親の話を聞いていた。
自分が生まれたことだけで、すべてが解決したわけではない。
エミリーが帰還したこと。
朝雄という男子の存在が確認されていたこと。
そして、その後にスミレが生まれたこと。
そうした複数の要素によって、ようやくサザーラント王家は落ち着きを取り戻したのだ。
◇ ◇ ◇
「事情は……分かりました」
長い説明を聞き終え、桜が静かに口を開いた。
納得したわけではない。
ただ、なぜ朝雄に婚約者がいるのか、その経緯は理解できた。
「朝雄は、このことを知らないんですよね?」
「うん。知らない」
エミリーが答える。
「自分がサザーラント王家の血を引いていることも、サーシャ様と婚約する話が決まっていることも、何も知らないよ」
「……」
梅が腕を組んで考え込む。
「国同士で正式に決めたことなら、簡単には解消できなさそうですね」
「そうなの……」
エミリーの肩が落ちる。
「でも朝雄ちゃん本人が知らないうちに決めたことなんですよね。だったら、朝雄ちゃんが嫌だって言ったら、それで終わりにはできないんですか?」
「残念だけど、そう簡単にはいかないと思う」
「だったら……」
梅が真剣な顔になる。
「最悪の場合、朝雄ちゃんを連れて逃げるしかないのかな」
「ちょっと待って梅ちゃん!?」
エミリーの顔が引きつる。
「それより、そのサーシャ王女本人を説得した方がいいんじゃないかしら」
桜が冷静に口を開いた。
「本人が朝雄との結婚を望まなければ、婚約を解消する理由にはなるでしょう?」
「そ、そうだね。それならまだ平和的かな」
エミリーがほっと胸を撫で下ろす。
しかし。
「……」
桜の右手は、いつの間にか雪風の鞘を握っていた。
「桜ちゃん」
「何かしら?」
「説得だよね?」
「ええ」
「言葉で?」
「もちろんよ」
にっこり。
「……本当に?」
「もちろん」
エミリーは不安しか感じなかった。
◇ ◇ ◇
「それと、サーシャ様について少し調べたんだけどね」
エミリーが話を続ける。
「かなりのお転婆……というか、強い女の子みたいなの」
「強い?」
「うん。自分より弱い相手とは結婚しないって言って、これまで国内で婚約者候補になった男の子たちに決闘を申し込んで、全員倒しちゃったらしくて……」
「……」
「……」
桜と梅の表情が変わった。
「だから、もし朝雄と直接会ったら、同じように決闘を申し込まれる可能性もあると思うんだよね」
「それなら私が戦います」
桜が即答した。
「え?」
「朝雄を危険な目に遭わせるくらいなら、私が代わりにその王女様と戦います」
「私も」
梅もすぐに続く。
「そんな人に朝雄ちゃんを渡せないし、必要なら私も戦います」
「だから待って! どうして二人とも戦う方向へ行くの!?」
エミリーが慌てる。
「相手は魔王国の第一王女なんだよ? 本当に国際問題になるからね?」
「分かっています」
桜は真顔で頷く。
「必要がなければ戦いません」
「必要があったら戦う気なんだ……」
エミリーは頭を抱えた。
だが、桜と梅の気持ちは分からなくもない。
二人にとって朝雄は、それだけ大切な存在なのだ。
「とにかく!」
エミリーが話をまとめるように両手を叩いた。
「この婚約を作る原因になったのは私にも責任があるから、魔王様と直接会ったら、私からきちんと話をする」
「……」
「王家同士の正式な合意だから簡単じゃないのは分かってる。それでも、朝雄本人の意思を無視したまま話を進めるつもりはないよ」
先ほどまでとは違い、エミリーの表情は真剣だった。
「できる限り、婚約を解消できるようにお願いする」
桜と梅は互いに顔を見合わせる。
そして、静かに頷いた。
「分かりました。エミリーさんを信じます」
「私も」
「ありがとう」
エミリーが安心したように笑う。
「まずは朝雄を見つけることが第一」
そして指を一本立てる。
「その次が、サーシャ様との婚約をどうするか話し合うこと」
「はい」
「うん」
スミレも頷いた。
こうして桜たちは、朝雄を捜すだけでは済まない新たな問題を知ることになった。
朝雄本人が、その婚約相手であるサーシャとすでに出会い、しかも一緒に旅をしていることを――。
この時の桜たちは、まだ誰も知らなかった。
宜しければ評価をいただけると励みになります。
次話は明日20時に投稿します。




