002 日常の終わり
学校の玄関に入ると、一年生と二年生では下駄箱の場所が違うため、四人はいったん別れることになった。朝雄と卓也は左側、桜と梅は右側に並ぶ下駄箱へと向かう。
上履きに履き替えた朝雄が廊下へ出ると、何気なく二年生の下駄箱がある方を覗き込んだ。
ちょうど桜が、自分の下駄箱から何通かの封筒を取り出しているところだった。
「またか……」
女子生徒の下駄箱に入っている手紙といえば、だいたい相場は決まっている。少なくとも、果たし状ではないだろう。
桜は手にした封筒を一瞥し、いかにも嫌そうな顔をすると、そのまま近くのゴミ箱へ放り込んだ。
「あぁ……」
「今日も駄目だったか……」
「読んですらもらえないのかよ……」
廊下のあちこちから男子生徒たちのうめき声が聞こえてくるが、桜はまったく気にした様子を見せない。
一方の梅も、下駄箱から何通かの手紙を取り出していた。こちらは少し困ったような顔をしたものの、捨てずに鞄へ入れる。
その様子を遠巻きに見ていた何人かの男子生徒から、
「よし!」
という小さな声が上がった。
「……」
「……」
朝雄と卓也は顔を見合わせ、二人揃ってなんとも言えない表情になる。
桜がこの手の手紙を読まずに捨てることは、同じ中学校の出身者なら知らない者はいない。高校へ進学してからも変わっていないと聞いている。
それでも挑戦したということは、おそらく今年、別の中学校から入学してきた一年生なのだろう。
「知らなかったんだな……」
「知らないって幸せだよな……」
卓也が遠い目をする。
ちなみに梅は、その場で捨てたりはせず、きちんと家まで持ち帰る。ただし、家に帰ってから読まずに捨てるので、結果としては桜とほとんど変わらなかった。
もっとも、梅も最初からそうだったわけではない。
以前は手紙をきちんと読み、返事をしたり、直接会って断ったりしていた。だが中には、丁寧に断ったことを好意があると勘違いする者や逆上する者、その場で泣き出す者、何度断ってもしつこく付きまとう者までいた。
そういった経験を何度かした結果、梅も真面目に取り合うことをやめてしまったのである。
朝雄たちにとっては、それも珍しい出来事ではない。特に話題にすることもなく四人は再び合流し、階段へ向かった。
一年生の教室は三階、二年生の教室は二階にある。
二階へ着いたところで、桜と梅が足を止めた。
「それじゃあ、また後でね」
「うん」
そのまま別れようとしたところで、桜が何かを思い出したように朝雄を呼び止める。
「朝雄」
「なに、桜姉?」
「今日は私も梅ちゃんも、授業が終わったらすぐに帰れるから、久しぶりに一緒に帰りましょう」
「あ、いいね」
桜には生徒会の仕事があり、梅も委員会の仕事が入ることが多い。学年も違うため授業の時間割にも多少の差があり、四人揃って帰れる日は意外と少なかった。
「四人で帰るの久しぶりだね。じゃあ玄関で待ち合わせでいいかな?」
朝雄がそう言った瞬間、桜と梅が同時にきょとんとした顔をした。
「「四人?」」
「おい!」
卓也の声が廊下に響いた。
「ナチュラルに俺をハブにするな! 俺も一緒に帰るぞ!」
「ああ……」
桜が納得したように頷く。
「卓也もいたわね」
「今、完全に忘れてたよな!?」
「そんなわけないでしょう」
桜は涼しい顔だ。
「卓也を忘れるわけないわ。四人で帰りましょう?」
「今の間はなんだよ!」
卓也が桜へ抗議すると、今度は梅が笑顔で口を開いた。
「もう、卓也ったら。お姉ちゃんが可愛い……弟を忘れるわけないじゃない」
「ねーちゃん」
「なに?」
「今の『可愛い』が疑問形だった気がする」
「気のせいだよ?」
「絶対気のせいじゃねえ……」
卓也はジト目で実の姉を見る。
桜と梅はそんな卓也を軽く流すと、
「それじゃあ、放課後に玄関ね」
「また後でね、朝雄ちゃん」
そう言って二年生の教室へ向かっていった。
朝雄と卓也も軽く手を上げ、三階へ続く階段を上っていく。
朝雄にとっての一日は、今日もいつもと変わらず始まった。
◇ ◇ ◇
放課後。
朝雄と卓也は帰り支度を終えると、親しいクラスメイトたちに挨拶をして教室を出た。玄関へ向かうと、すでに桜と梅が待っている。
四人で靴を履き替え、学校を出た。
しばらく歩いたところで、朝雄は今朝、桜へ言い忘れていたことを思い出す。
「あ、そうだ。桜姉」
「なに?」
「言い忘れてたんだけど、今週末に父さんが帰ってくるんだ。土曜日にこっちに着くって言ってた」
「えっ、おじ様が?」
桜は少し驚いた後、何かを考えるような表情になった。
「そうだ」
やがて、ぱっと顔を明るくする。
「朝雄が高校に入学した時、おじ様は仕事で帰って来られなかったでしょう?」
「うん」
「だったら、改めて朝雄の入学祝いをしない?」
「え?」
「今度はおじ様も一緒に。せっかくだから、みんなでやりましょうよ」
朝雄が高校へ入学した時、父親は仕事で海外にいて、帰国することができなかった。代わりに桜を筆頭に九条家の人たちが、かなり盛大な入学祝いを開いてくれている。
「でも、二回も入学祝いしてもらうわけには……」
「それ、いいね!」
朝雄が遠慮しようとした言葉を、梅が遮った。
「私もお父さんとお母さんに話してみるよ! お父さんは絶対行くって言うと思う!」
「じゃあ決まりね」
「いや、僕まだ――」
「お料理、何にしようか?」
「お肉は絶対あった方がいいよね」
「おじ様も来るなら、かなり多めに用意しないと駄目ね」
「そうだね。普通の人の何人分だろう?」
「……」
すでに朝雄の意見を聞く段階は終了していた。
桜と梅は二人で楽しそうに、週末の相談を始めてしまう。
最初は遠慮しようと思っていた朝雄だったが、二人が自分のために楽しそうに相談している姿を見て、それ以上は何も言わないことにした。
「ありがとう」
小さく口にすると、桜と梅が同時に振り返る。
「何か言った?」
「ううん、なんでもない」
朝雄は笑った。
その少し後ろから、ぼそりと声が聞こえてくる。
「俺も一緒に高校へ入学したんですけど……」
誰にも拾われなかった。
「俺の入学祝いは……?」
やはり誰にも拾われない。
「……もういいよ」
卓也は一人、静かに肩を落とした。
桜と梅は、朝雄たちの少し前を歩いている。週末は何を作るか、誰を呼ぶか、買い物はいつ行くか。二人は楽しそうに話していた。
その後ろ姿を眺めながら、朝雄は少し照れくさい気持ちになると同時に、胸の奥が温かくなるような幸福感を覚えた。
母親はいないし、父親も仕事で家を空けることが多い。それでも、自分は決して一人ではなかった。
桜がいる。
梅がいる。
卓也もいる。
父親だって、もうすぐ帰ってくる。
今週末は、きっと賑やかになるだろう。
そんなことを考えながら、朝雄は前を歩く二人を見つめていた。
だから、その異変に気づくのが一瞬遅れた。
いつもなら、桜か梅のどちらかが先に気づいていただろう。だが今は、二人とも週末の話に夢中になっている。
最初に異変を感じたのは朝雄だった。
「……え?」
対向車線を走っていた青いトラックが、ゆっくりとセンターラインを越えてくる。
最初は右折でもするのかと思った。
だが、違う。
速度を落とす気配がない。
運転席が見えた。
運転手は頭を下げたまま、前を見ていない。
居眠りなのか、それとも何かの発作でも起こしたのか。
そんなことを考えている暇はなかった。
トラックはまっすぐ歩道へ向かっている。
その先には――。
「っ!」
桜と梅がいた。
「桜姉! 梅姉! 危ない!」
朝雄が叫んだ。
「え?」
「朝雄ちゃん?」
二人が振り返る。
だが、遅い。
すでにトラックは数メートル先まで迫っていた。
このままでは間に合わない。
間に合わない――はずだった。
『絶対に二人を助ける!』
その瞬間、朝雄の頭からそれ以外のことがすべて消えた。
自分が危ないとか、怖いとか、逃げなければとか。そんなことは一切考えなかった。
ただ、桜と梅を助けなければ。
その思いだけがあった。
胸元が、突然熱を持った。
「っ……!」
制服の下。
今朝もいつものように首へ掛けたお守りが、一瞬だけ強い熱を放ったような気がした。
同時に、身体の奥深くで何かが大きく動いた。
次の瞬間。
「え……?」
朝雄は、桜と梅の前に立っていた。
どうやってそこまで移動したのか、自分でも分からない。
目の前いっぱいに、青いトラックが迫っている。
朝雄は反射的に両手を前へ突き出した。
ドン!
鈍い衝撃音が響いた。
「……?」
桜は梅を庇うように抱きしめ、固く目を閉じていた。だが、いつまで待っても身体に衝撃が来ない。
恐る恐る目を開ける。
「……朝雄?」
最初に目へ入ったのは、見慣れた背中だった。
見間違えるはずがない。
朝雄だ。
朝雄が二人を庇うように立ち、両手を前へ突き出している。
そして、その身体は――。
「なに……これ……」
淡い青色の光に包まれていた。
まるで朝雄が両手でトラックを押し止めているように見える。しかし実際には、朝雄の手はトラックへ触れていない。
トラックは朝雄の手の一メートルほど手前、何もない空間で不自然に停止していた。
「桜姉! 梅姉!」
朝雄が叫ぶ。
「離れて! 早く!」
「でも朝雄が――!」
「早く!!」
その声に押されるように、桜と梅はトラックの進路から飛び退いた。
「朝雄もこっちに!」
桜が手を伸ばす。
「……」
だが、朝雄は動かなかった。
「朝雄!?」
違う。
動かないのではない。
動けない。
『身体が……』
指一本、動かすことができなかった。まるで全身が石にでも変わってしまったかのように、自分の意思を受け付けない。
そしてもう一つ。
身体の中から、何かが猛烈な勢いで抜けていく。
『なんだ……これ……』
何が起きているのか分からない。だが不思議と、一つだけ理解できることがあった。
今、身体から抜け続けている何か。
それが全部なくなった時、この奇妙な現象は終わる。
理由など分からない。
それでも朝雄は、なぜかそう確信していた。
青かった光が変化する。
「朝雄……?」
赤。
そして――白。
「なっ……」
卓也が言葉を失う。
真っ白な光に包まれた朝雄の髪が、根元から少しずつ色を変えていく。
薄い黒。
濃いグレー。
そして――。
鮮やかな銀色へ。
「朝雄ちゃん……髪が……」
梅が呆然と呟いた。
桜も何も言えない。ただ目を見開き、白い光に包まれた朝雄を見つめている。
『あ……』
朝雄は感じた。
身体の中にあった何かが、すべて抜けた。ひどく身体が重く、意識も遠くなっていく。
それでも。
『二人とも……無事だ』
桜が立っている。
梅もいる。
怪我はしていない。
それが分かっただけで、朝雄は心から安心した。
『よかった……』
そして、最後に二人へ何かを伝えなければと思った。
何を言えばいいのか考える余裕などなかった。
だから、口から出たのは一番素直な気持ちだった。
「桜姉、梅姉」
「朝雄?」
「朝雄ちゃん?」
「ありがとう」
朝雄は笑っていた。
「……え?」
次の瞬間。
「朝雄っ!!」
白い光が弾けた。
そして。
朝雄の姿は――消えた。
「……朝雄?」
桜の伸ばした手が、何もない空間を掴む。
直後。
ドガァァン!!
それまで止まっていたトラックが再び動き出し、歩道を突っ切った。そのまま道路脇の壁へ激突し、大きな音を立てて停止する。
「きゃああっ!」
「事故だ!」
「救急車!」
「誰か警察に!」
周囲は一瞬で騒然となった。人が集まり始め、叫び声、足音、スマートフォンで通報する声、クラクションと、いくつもの音が重なっていく。
だが桜と梅には、それらの音がひどく遠く聞こえていた。
「……朝雄?」
桜がもう一度名前を呼ぶ。
返事はない。
「朝雄ちゃん……?」
梅も震える声で呼びかける。
やはり、返事はなかった。
ついさっきまで、そこにいたはずなのに。
今週末には、みんなで入学祝いをするはずだった。朝雄の父親も帰ってくる。
料理を作って、みんなで笑って、いつものように過ごすはずだった。
そんな当たり前の日常は。
たった今。
何の前触れもなく、終わった。
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001のあとがきにキービジュアルを追加しました。
あくまで自分のイメージで読みたい方はスルーしてください。
次話投稿予定は明日の朝7時です。




