001 日常
このお話から本編開始です。
「朝雄、朝よ。起きなさい」
よく通る、綺麗な女性の声が聞こえてきた。
ああ、朝か。
いつも聞いている声に安心しながら、朝雄はゆっくりと瞼を開ける。最初に目に入ったのは、見慣れた女性の顔だった。
「おはよう、桜姉」
朝雄がいつもの挨拶をすると、桜姉と呼ばれた女性は穏やかに微笑んだ。
「おはよう、朝雄」
そう言って立ち上がると、部屋のカーテンを開ける。眩しい朝日が一気に差し込み、朝雄は思わず目を細めた。
八神朝雄。
十五歳の高校一年生で、身体つきは細身で華奢。身長は百五十五センチと男子高校生の平均を下回り、童顔なこともあって、実際の年齢よりかなり若く見られることが多い。
髪は黒いが色素が少し薄く、光の当たり方によっては濃いグレーにも見える。父親の話では、母親が外国人とのハーフだったため、その影響ではないかということだった。
ただし、その母親は現在この家にはいない。
朝雄自身、母親の顔もほとんど覚えていなかった。朝雄が三歳の時、母親は突然、自分の祖国へ帰ってしまったのだ。
事情があってこちらへ戻ることも、朝雄たちが向こうへ行くこともできないらしい。
幼い頃は母親について父親へ尋ねたこともあったが、その度に何か言いにくそうな顔をするため、あまり聞いてはいけないことなのだろうと子供心に察した。いつしか、母親の話題が父子の会話に上ることもなくなった。
『いつか必ず会える』
父親はそう言っていた。
しかし中学生になった頃には、朝雄なりに一つの結論へたどり着いていた。
『きっと逃げられたんだろうなぁ……。あんな父親だし』
そう納得し、それまで以上に父親へ優しく接するようになった。すると父親は、なぜかとても微妙な顔をしていた。
そして、そんな朝雄を毎朝起こしに来る女性が九条桜。
朝雄より一つ年上の十六歳で、現在は高校二年生だ。姉と呼んではいるが、本当の姉ではなく、隣の家に住む年上の幼馴染である。
身長は百六十五センチ。すらりとした細身の体型で手足も長く、まるでモデルのような容姿をしている。背中の中ほどまで伸びた黒髪はいつ見ても艶があり、さらさらとしていた。
顔立ちは可愛いというより、綺麗という言葉の方が似合う。学校でも非常に人気がある。
さらに九条家は、代々『九条流剣術』を伝える家でもあった。桜は次に流派を継ぐ者だと言われるほどの腕を持っている。
母親がおらず、父親も仕事で家を空けることが多かったため、幼い頃の朝雄はよく九条家へ預けられていた。二人はそうして、本当の姉弟のように育ったのである。
「朝ご飯ができているから、顔を洗ってリビングにいらっしゃい」
「はーい」
桜は微笑みながらそう言うと、部屋を出ていった。
朝雄は姿勢のいいその背中と、歩くたびにふわりと揺れる長い髪を寝ぼけた目で見送る。そして、のろのろとベッドから起き上がった。
制服に着替えようとして、枕元に置いてある小さなお守りが目に入る。
「あ、忘れるところだった」
朝雄は何気なく手を伸ばし、お守りを手に取った。
少しくたびれた、ごく普通のお守りだ。幼い頃からずっと身につけている物で、朝起きて首に掛けることは、もう完全に習慣になっていた。
朝雄は慣れた手つきで紐を首に掛けると、制服のシャツの下へしまい込み、それから洗面所へ向かった。
◇ ◇ ◇
顔を洗って少し頭がすっきりした朝雄がリビングへ入ると、食欲を誘ういい匂いが漂ってきた。思わず頬が緩む。
四人掛けのテーブルには、二人分の朝食が向かい合わせに用意されていた。朝雄がいつもの席に座ると、桜が二人分のご飯と味噌汁を運んでくる。
「「いただきます」」
二人揃って手を合わせ、朝食を食べ始めた。
今日の朝食は、ご飯、味噌汁、切り身の焼き魚、玉子焼き。九条家の自家製漬物と、焼き海苔も添えられている。
朝食は毎朝、欠かさず桜が作りに来てくれていた。
毎日では大変だろうし、悪いから無理をしなくてもいい。以前、朝雄がそう遠慮したこともある。
だが桜は、笑顔でその提案を却下した。
朝雄が朝はご飯派なので、いつも和食を用意してくれる。ご飯を炊き、味噌汁を作り、おかずまで用意するのだから、さすがに手間が掛かるだろう。
一度だけ朝雄がパン食を提案したことがあった。
市販のパンなら、桜の負担も減る。
そう考えてのことだった。
ところが、その日の夜。
朝雄が台所を覗くと、桜が楽しそうにパン生地をこねていた。
「桜姉……何してるの?」
「明日のパンを作ってるのよ?」
「いや、市販のパンを買ってくればいいんだけど……」
「せっかくなら、焼きたてを朝雄に食べてほしいもの」
「……」
にっこり笑う桜を見て、それ以上何も言えなくなった。
以来、朝雄は朝食について口を挟まないことにしている。
朝食の時間は、比較的静かに過ぎていく。これは九条家の躾の影響だった。
食事中のテレビは禁止。軽い雑談程度なら構わないが、大声で騒いだり笑ったりするのも控える。
幼い頃から九条家で食事をすることが多かった朝雄にも、自然と同じ習慣が身についていた。そんな二人が向かい合って食事をする姿だけを見れば、本当の姉弟にしか見えないだろう。
食事が終わると、お茶を飲みながら少しのんびりとした時間を過ごす。桜が湯飲みを置き、朝雄へ話しかけた。
「高校に入学して一か月くらい経ったけど、学校はどう? 勉強で分からないところとかない?」
今は五月中旬。
四月に高校へ入学した朝雄は、まだ完全に学校へ馴染んだと言えるほどではない。
「学校はぼちぼちかな。勉強は中学に比べると急に難しくなった感じはするけど、今のところついていけないほどでもないよ」
「そう」
朝雄の答えを聞き、桜は嬉しそうに目を細める。
「分からないことがあったら、なんでも言いなさいね」
「うん。ありがとう、桜姉」
朝雄が笑顔で答えると、桜はますます笑みを深めた。
お茶の後、二人は交代で歯を磨いた。時計を見ると、ちょうど家を出る時間だった。
「はい、朝雄。お弁当よ」
「ありがとう」
桜から差し出された弁当箱を、朝雄は笑顔で受け取る。
朝食だけではない。桜は朝雄の弁当も毎日作ってくれていた。
しかも、朝食の残り物や前日の夕食の残りが入っていたことは、今まで一度もない。
弁当は桜が九条家で作ってくるため、昼に蓋を開けるまで中身は分からない。それでも、朝雄の苦手な物が入っていたこともなかった。
「今日も楽しみにしてるよ」
「ええ」
朝雄は弁当を鞄に入れ、玄関へ向かう。
先に靴を履いて外へ出ると、桜が出てくるのを待った。桜が玄関から出てくると、朝雄が家の鍵を掛ける。
「「いってきます」」
二人はいつも通り声を合わせ、学校へ向かって歩き始めた。
◇ ◇ ◇
少し歩くと住宅街を抜け、大きな道路へ出る。
信号機のある交差点で、見知った二人と落ち合うのも毎朝のことだった。
一人は背の低い女の子。左手に鞄を持ち、右手を高く上げて、ぶんぶんと振っている。
もう一人は背の高い男子。右手に持った学生鞄を肩へ掛け、左手を軽く上げていた。
近くまで歩いていくと、小柄な少女が満面の笑顔で挨拶する。
「おはよう! 桜ちゃん、朝雄ちゃん」
「おはよう、梅ちゃん。卓也も」
桜が挨拶を返す。
「おはよう、梅姉。卓也」
「うーす」
朝雄の挨拶に、梅と呼ばれた少女は嬉しそうに頷き、卓也と呼ばれた男子は軽く手を上げて応える。
二人は、この近くにある空手道場の姉弟。桜と朝雄とは、幼い頃からの共通の幼馴染である。
姉の名前は鬼塚梅。
桜と同じ高校二年生だ。身長は百五十センチと小柄で、少し癖のある髪を肩のあたりで切り揃えている。
顔立ちも童顔で、身長と顔だけなら小学生に間違われてもおかしくない。ただ、実際にはそれほど幼く見られることはなかった。
小柄な体格とは不釣り合いなほど、胸が大きいためである。
もっとも本人にとっては、低い身長も童顔も、そして胸の大きさも全てコンプレックスらしい。朝雄もそれを知っているので、本人の前で話題にすることはない。
そして、そんな外見とは裏腹に、幼い頃から父親に教え込まれた空手の腕は相当なものだった。
弟の卓也に言わせれば、
『あれはチートの類だ。本気で試合したら五秒で負ける』
とのことである。
弟の鬼塚卓也は、朝雄と同じ高校一年生。身長は百七十五センチで、筋肉質というほどではないが痩せてもいない。
短い髪は少し茶色に染めており、見た目だけなら、いかにも軽そうな男子高校生だ。だが姉の指導もあり、実際は見た目よりずっと真面目である。
少しでも悪さをしようものなら、姉から教育的指導が入るからだ。
もちろん、物理的に。
さすがに四人横一列で歩道を歩くわけにはいかない。朝雄と卓也が少し前を歩き、その後ろを桜と梅が並んで、学校へ向かって歩き始める。
自然と男子同士、女子同士で他愛もない雑談が始まった。
「そういえば朝雄。お前が面白いって勧めてきたWEB小説、読んでみたぞ」
「あ、『スライムに転生した俺強すぎ』? 面白かったでしょ?」
自分が勧めた小説を友人が読んでくれたことが嬉しくて、朝雄は笑顔になった。
だが、卓也の反応は朝雄が期待していたものではなかった。
「なんだよ、あれ!」
「え?」
「交通事故で死んだサラリーマンが異世界でスライムに転生! まあ、そこまではいい!」
「うん」
「でも異世界に行った後、人型の登場人物が全然いないってどういうことだよ!」
「ああ、斬新だよねー」
朝雄は屈託なく笑う。
「斬新すぎるだろ!」
卓也は朝雄へ詰め寄った。
「最後はスライムで最強になってスライム王国を建国! 国王になって、ヒロインスライムとハーレムメンバースライムに囲まれて幸せに暮らしましたって、なんだよそれ!」
「面白いでしょ」
「登場するのがスライムばっかりで、名前すらなくて色だけで区別してるんだぞ! 俺はどこに興奮すればいいんだよ!」
一息で言い切り、卓也は肩で息をする。
「そこがいいんだけどなぁ」
しかし朝雄は、やはり笑顔のままだった。
「はぁ……もういい」
卓也は疲れたように肩を落とす。
「お前みたいに普段から贅沢してると、ああいうトリッキーなジャンルも楽しめるようになるんだな」
「?」
朝雄の頭に疑問符が浮かぶ。
異世界物はハーレム展開こそ正義。
そう公言している卓也にぴったりだと思って勧めたのだが、どうやら気に入らなかったらしい。
「それにしても、朝雄は本当に異世界物が好きだよな」
「うん」
朝雄がファンタジー作品、とりわけ異世界を題材にした物語が好きなのは、幼馴染たち全員が知っている。
「地球から異世界へ行って冒険するとか、憧れるよね!」
朝雄が目を輝かせる。
それを見た卓也は、呆れたようにため息をついた。
「残念だが朝雄。お前は異世界物の主人公にはなれない!」
「そりゃ、現実にはそんなこと起こらないっていうのは、さすがに分かってるよ。妄想するくらいいいじゃん」
朝雄は不満そうに言い返す。
だが卓也は、朝雄へ人差し指を突きつけた。
「違う!」
「何が?」
「お前には無理だ! ジャンルが違う!」
「ジャンル?」
「そうだ!」
卓也は力強く頷いた。
「お前はギャルゲーの主人公だからだ!」
「……?」
朝雄の頭に、また疑問符が浮かんだ。
卓也はそんな朝雄を完全に無視して続ける。
「そうなると俺は、クラスでヒロインの好感度を主人公に教える友人ポジションなんだろうけど――」
「何の話?」
「お前には必要ないな」
「だから何が?」
「メインヒロインはすでに好感度MAX。サブヒロインも攻略条件はクリアしてるっぽいし、あとは主人公が選択するだけだ」
「???」
朝雄の疑問符が増えていく。
「まあ、メインヒロインとサブヒロインが結託して、他のヒロインのフラグを裏で片っ端から破壊してるのが、ちょっとクソゲー臭いけどな」
卓也は楽しそうに笑った。
その直後、両肩へぽんと手が置かれる。
「……ん?」
振り返った卓也の笑顔が固まった。
右肩には桜。
左肩には梅。
二人とも笑顔だった。
ただし、目だけは笑っていない。
「ねえ、卓也」
桜が、凍りつきそうなほど冷たい声で話しかける。
「ずいぶん面白い話をしているわね。私にも聞かせてくれないかしら?」
「卓也」
梅もにっこり笑った。
「お姉ちゃん、久しぶりに卓也に稽古つけてあげるね。今日、帰ったら道場ね?」
「……」
卓也の顔から血の気が引いた。
すぐに二人へ向き直り、必死に言い訳を始める。
「や、やだなぁ桜さん、ねーちゃん! 冗談っすよ、冗談……」
「……」
「……」
二人はしばらく、じっと卓也を見つめていた。
やがて卓也の額から冷や汗がだらだら流れ始めると、そこでようやく二人は視線を外し、朝雄へ向き直った。
「朝雄」
「なに、桜姉?」
「卓也は冗談が服を着て歩いているような人間なんだから、本気にしちゃ駄目よ?」
「朝雄ちゃん」
「なに、梅姉?」
「卓也の話すことに真実なんて一つもないんだから、真に受けちゃ駄目だよ?」
「う、うん……」
桜と梅が真剣な顔で卓也を切り捨てる。
卓也はがっくりと肩を落とした。
「ねーちゃん、桜さん……酷い……」
「?」
朝雄だけが、最後まで何の話だったのか分からず首を傾げていた。
そんなやり取りをしているうちに、四人はいつもの学校の正門をくぐっていった。




