013 桜サイド 転移
桜は楓に手を引かれながら、自宅へ戻った。
俯いたまま一言も話さない娘を見ても、楓は何も言わなかった。家に入ると楓の手が離れ、桜はそのまま自室へ向かい、ベッドへ無造作に身体を投げ出した。
「……」
先ほど喜一郎から聞いた話を、もう一度頭の中で整理する。
朝雄が生きている。それが分かったことは、素直に嬉しかった。
だが、居場所までは分かっておらず、転移した先も日本ほど安全な世界ではないという。魔物がいて、街の外には危険がある。
今は無事でも、明日も無事だという保証はない。
そう考えると、すぐにでも向こうへ行って朝雄を探したかった。
だが。
「……」
向こうには、朝雄がずっと会いたがっていた母親がいる。
最近では表に出さなくなったが、幼い頃の朝雄は、母親がいないことを寂しがっていた。公園で母親と遊ぶ子供を見た時や、街で母親と手をつないで歩く子供を見た時、朝雄は一瞬だけ寂しそうな顔をする。
そして、すぐにいつもの笑顔へ戻っていた。
その顔を見るたび、桜の胸は締めつけられた。
喜一郎も向こうへ行く。
朝雄を見つけることができれば、ずっと望んでいた父と母との三人暮らしが叶うかもしれない。
『それなら……』
自分が向こうへ行くことは、本当に朝雄のためになるのだろうか。
「朝雄に会いたい……」
桜は枕へ顔を埋める。
「でも、私は向こうには行けない……」
どうすればいいのか分からない。
答えの出ない問いだけが、何度も頭の中を巡っていた。
◇ ◇ ◇
同じ頃。
鬼塚家では、せっせと出掛ける準備をしている梅の姿があった。
「あまり大きな物は持っていけないよね……」
小さめのバッグへ着替えなどを詰めていく。
「……」
その様子を、卓也が少し驚いた顔で見ていた。
てっきり姉は、自分の部屋でうじうじ悩んでいると思っていた。喜一郎の話を聞いて、朝雄が無事だと分かったとはいえ、すぐに帰ってこられるわけではない。場合によっては何年も会えないかもしれない。
だから卓也は、
『だったら、ねーちゃんが朝雄のところへ行けばいいじゃないか!』
くらい言って、姉の背中を押してやるつもりだった。
しかし。
「これもいるかな……」
本人は、とっくに行く気だった。
「てっきり、ねーちゃんはまたうじうじ悩んでると思ったけどな」
卓也がそう言うと、梅が振り返る。
その瞳に迷いはなかった。
「私ね」
「ん?」
「朝雄ちゃんが消えちゃった後、すごく後悔したんだ」
「後悔?」
卓也は少し驚いた。
「うん」
梅は手を止める。
「もう少し素直になってれば良かったとか、もっと朝雄ちゃんに気持ちを伝えておけば良かったとか……いっぱい考えた」
「……」
「もしあのまま朝雄ちゃんに会えなかったらって思ったら、すごく怖かった」
梅はバッグへ視線を落とす。
「もう、あんな思いをするのは嫌なんだ」
そして顔を上げた。
「だから私は行くよ」
そこにあったのは、卓也もよく知っている姉の顔だった。
普段は少し気弱なところもある。だが、本当に大事な時には誰より強い。
「桜ちゃんも連れてね」
「桜さん?」
卓也は首を傾げる。
「桜さんなら、とっくに向こうへ行く準備でもしてるんじゃないか?」
「ううん」
梅は首を横へ振った。
「たぶん桜ちゃんは今、動けなくなってると思う」
「なんでだ?」
「だって向こうには朝雄ちゃんのお母さんがいるんだよ。お父さんも向こうへ行く」
「……ああ」
「三人が会えれば、朝雄ちゃんがずっと望んでた家族三人で暮らせるかもしれない」
卓也も、ようやく姉の言いたいことを理解した。
「桜ちゃんは、自分が行くことで朝雄ちゃんの邪魔になるんじゃないかって考えると思う」
「……なるほどな」
そこまで考えた上で、それでも梅は行くと言っている。
昔から、いざという時の姉は強かった。子供の頃から何度も、自分の手を引いてくれた。
卓也は、そんな姉を少し誇らしく思っていた。
「あ、これも必要かもしれない」
梅がベッドの下へ手を伸ばし、ごそごそと何かを引っ張り出す。
「……は?」
卓也の顔が引きつった。
出てきたのは、一組の手甲だった。
剣道で使う小手に似た形をしているが、肘まですっぽりと覆う大型の物だ。拳から腕にかけての部分はチタン製で、見た目ほど重くはない。
以前、
『格闘家なら熊とも戦えなければならん!』
などと訳の分からないことを言い出した健介が、工房へ特注して作らせた物だった。
もっとも、完成品を見つけた母親が金額を知って激怒し、そのまま没収されたため、一度も実戦では使われていない。
「……なんで、ねーちゃんのベッドの下にあるんだよ」
「細かいことは気にしない」
「いや、気になるだろ」
梅はバッグへ入れようとした。
「……入らない」
「当たり前だ」
少し考えた末、梅はその手甲を両腕へ装着した。そしてバッグを背負う。
「よし!」
「……」
普段着。
小さなバッグ。
両腕には金属製の手甲。
「卓也、後のことはよろしくね」
「ちょっと待て!」
卓也は慌てた。
「その格好で外歩いたら普通に通報されるぞ!」
「大丈夫だよ」
梅は部屋を出る。
「何が大丈夫なんだよ!」
そのまま玄関へ向かい、外へ飛び出した。
「ねーちゃん!」
卓也が追いかけて玄関から叫ぶ。
すると梅は、走りながら振り返った。
「走っていくから大丈夫だよー!」
「全然大丈夫じゃねえよ!」
そのまま梅は走り去っていった。
「……」
卓也は姉の姿が見えなくなるまで見送る。
そして、小さく笑った。
「がんばれよ、ねーちゃん」
そう呟いて、玄関の扉を閉めた。
◇ ◇ ◇
ピンポーン。
九条家のインターホンが鳴った。
楓が門へ出ると、そこには普段着にバッグを背負い、なぜか両腕に手甲を装着した梅が立っていた。
「こんにちは」
「こんにちは、梅ちゃん」
「桜ちゃん、いますか?」
「部屋にいるわ。上がっていって」
「ありがとうございます」
楓は、梅の格好について何も聞かなかった。
「……?」
一瞬だけ梅は不思議に思ったが、すぐに家へ上がった。
二階へ向かい、桜の部屋の前に立つ。
コンコン。
「桜ちゃん?」
返事はない。
「入るよ」
扉を開けると、すぐにベッドの上で膝を抱えている桜の姿が目に入った。
『やっぱり……』
予想していた通りだった。
桜はいつも、朝雄のことを一番に考えて行動する。だからこそ今回は悩む。
自分が行くことが、本当に朝雄のためになるのか分からないから。
だが。
梅は知っている。
桜が本当に望んでいることを。
幼い頃から、何一つ変わっていない。
『朝雄と一緒にいたい』
ただ、それだけなのだ。
「桜ちゃん」
「……梅ちゃん?」
桜が顔を上げる。
そこで初めて梅の格好に気づき、少し目を見開いた。
「その格好……」
梅は気にせず、桜の目を真っ直ぐ見た。
「桜ちゃんは、どうするの?」
◇ ◇ ◇
「どうするって……」
突然現れた梅を、桜は戸惑いながら見つめた。
バッグを背負い、両腕にはなぜか手甲を装着している。どう見ても、これからどこかへ行く準備をしてきた格好だった。
「向こうに行けるのは、おじ様一人だけなのよ?」
つい口調が強くなる。
「私たちにできることなんて、何もないじゃない!」
「そうだね」
梅は怒ることなく頷いた。
「おじさん一人分くらいしか転移できないって言ってた」
「だったら――」
「でも」
梅が続ける。
「おじさんしか転移できないとは言ってないよ?」
「……え?」
桜の言葉が止まる。
「転移できる量に限界があって、おじさん一人分くらいって言ってたんだよ」
「……」
「おじさんって、すごく大きいよね」
「……大きいわね」
二人の頭に、二メートル近い喜一郎の姿が浮かぶ。
「それなら」
梅が自分と桜を交互に指差した。
「荷物を入れても、私たち二人ならおじさん一人より軽いと思う。身体もずっと小さいし」
「……!」
桜は目を見開いた。
そして改めて梅を見る。
バッグ。
手甲。
完全に旅支度だ。
「梅ちゃん、まさか……」
「うん」
梅は当然のことのように答えた。
「私は行くよ」
「……」
「朝雄ちゃんを探しに」
桜は言葉を失った。
だが、すぐに自分が悩んでいたことを口にする。
「でも……」
「うん」
「向こうには朝雄のお母さんがいるのよ?」
「うん」
「おじ様も行く。朝雄を見つけたら、三人で暮らせるかもしれない」
声が少しずつ弱くなる。
「それは……ずっと朝雄が望んでいたことなの」
「知ってるよ」
梅は静かに答えた。
「私も小さい頃から一緒にいたんだから」
「だったら……」
「それでも私は行く」
「……」
梅は一度目を閉じる。
そして、ゆっくり開いた。
「私、自分のために行くって決めたんだ」
「自分の……ため?」
「うん」
梅は少しだけ笑う。
「朝雄ちゃんに会いたい」
「……」
「朝雄ちゃんのそばにいたい」
そして、その表情が真剣なものへ変わる。
「自分勝手なのは分かってる。でも、これだけは譲れない」
桜は何も言えなかった。
「もう一度聞くね」
梅が、真っ直ぐ桜を見つめる。
「桜ちゃんは、どうしたいの?」
「私は……」
桜は自分自身へ問いかける。
朝雄のために何をするべきか。
ではなく。
自分がどうしたいのか。
答えは最初から決まっていた。
「……そうね」
桜の瞳に、少しずつ力が戻っていく。
「最初から一つしかなかった」
幼い頃から。
ずっと。
決して変わっていない。
「朝雄と一緒にいたい」
桜は顔を上げた。
「それだけだったわ」
そして梅へ笑顔を向ける。
「ありがとう、梅ちゃん」
「うん!」
梅も嬉しそうに笑った。
◇ ◇ ◇
決意はした。
問題は、どうやって異世界へ行くかだ。
「正直にお願いする?」
梅の提案に、桜は少し考えてから首を横へ振った。
「無理だと思う」
「だよね……」
「おじ様が、私たち二人を危険があるかもしれなくて、いつ帰ってこられるかも分からない世界へ行かせてくれるとは思えないわ」
「うん」
「お母さんたちだって、普通なら反対すると思う」
二人で考え込む。
「……」
「……」
しばらくして。
「いっそ、おじ様を――」
「桜ちゃん!」
梅が慌てて止めた。
「もう少し考えようよ!」
「まだ何も言ってないわよ?」
「何を言おうとしたかは分かるよ!」
「……」
「昔から朝雄ちゃんが絡むと、桜ちゃん物騒すぎるよ!」
「……はい」
桜は少ししょんぼりした。
そもそも、二人がかりでも喜一郎をどうにかできるとは思えない。
修蔵。
喜一郎。
健介。
この三人について、桜と梅は昔から同じ認識を持っていた。
『たぶん、人間の枠から少し外れている』
もちろん本人たちには言わない。
再び二人が考え込んだ、その時。
コンコン。
部屋の扉がノックされた。
「……?」
今、家にいるのは楓と修蔵だけだ。
先ほどの会話が会話だけに、桜は少し警戒しながら扉を開けた。
「お母さん?」
そこには楓が立っていた。
手には、ラップを掛けた皿を持っている。
「桜」
「はい?」
「これを喜一郎さんへ持っていってちょうだい」
差し出された皿を見る。
「肉じゃが?」
「ええ」
朝雄も喜一郎も、楓の作る肉じゃがが好物だった。
「分かった」
桜が皿を受け取ろうと手を伸ばす。
すると。
「それを食べれば、喜一郎さんは明日の朝まで目を覚ましません」
「……」
桜の手が止まった。
「……え?」
後ろにいた梅も、口を開けたまま固まっている。
「人体に悪影響はありません」
楓は何でもないことのように続けた。
「むしろ翌朝には、疲れがすっかり取れているでしょう」
「……なんでそんな物があるの?」
「九条家秘伝です」
「……」
怪しい。
ものすごく怪しい。
だが、今の二人にとって、それ以上に重要なことがある。
「お母さん……」
桜は母親を見る。
こんな物を差し出すということは、すべて分かっているのだ。
「あなたたちの考えることくらい分かります」
楓は真っ直ぐ二人を見る。
「何年あなたたちを見てきたと思っているのですか?」
「……」
そして、その表情が真剣なものへ変わった。
「これを使えば、もう後戻りはできません」
桜と梅も表情を引き締める。
「それでも行く覚悟がありますか?」
「あります」
桜は即答した。
「私もです」
梅も迷わない。
二人の答えを聞いた楓は、ふっと優しく笑った。
「そう」
肉じゃがの皿を桜へ渡す。
「では、後のことは考えなくていいから、自分たちが思うようになさい」
「……お母さん」
楓はそれ以上何も言わず、階下へ戻っていった。
桜はその背中へ深く頭を下げる。
「ありがとう、お母さん」
梅も隣で同じように頭を下げた。
◇ ◇ ◇
時計を見ると、もう午後七時近かった。
「夕食の時間としては不自然じゃないわね」
「うん」
二人は肉じゃがを持って八神家へ向かった。
玄関前でインターホンを鳴らすと、すぐに扉が開き、喜一郎が姿を見せた。
「桜ちゃん。梅ちゃんも一緒か」
「はい」
桜は持っていた皿を差し出す。
「これ、母からです。良かったら召し上がってください」
「これはありがたい」
喜一郎は嬉しそうに受け取った。
「楓さんの肉じゃがは久しぶりだ。よろしく伝えておいてくれ」
「……はい」
「伝えておきます」
笑顔の喜一郎を見て、二人の胸に罪悪感が刺さった。
それでも。
もう決めた。
「それでは」
「ああ。また後でな」
二人は頭を下げ、八神家を後にする。
九条家へ戻る前に、もう一度だけ振り返った。
「……」
「……」
二人揃って、八神家へ深く頭を下げた。
◇ ◇ ◇
夜十時。
桜は時計を確認した。
「そろそろね」
「うん」
梅も頷く。
「梅ちゃん、ちょっと待ってて」
「分かった」
桜は部屋を出ると、道場へ向かった。
誰もいない夜の道場。その奥には、二振りの刀が飾られている。
桜は迷わず、そのうちの一振りへ近づいた。
雪風。
代々九条家に伝わる刀だ。
いつ誰が打ったのかは分かっていない。刀身には、ただ『雪風』という銘だけが刻まれている。
刃長は七十八センチと一般的な日本刀より少し長いが、鍔や鞘には特別目立った装飾もない。
それでも桜と朝雄は、なぜか幼い頃からこの刀に惹かれていた。
二人で何度も手入れをした。
その鍔には、小さな鈴が一つ結ばれている。
赤い紐につけられた鈴。
昔、朝雄が縁日で買ってきた物だった。
『雪風に似合うと思う』
そう言って、朝雄自身が結びつけた。
不思議なことに、刀を振ってもその鈴はほとんど鳴らない。それなのに時折、何の前触れもなく音を響かせることがあった。
桜は雪風の前へ立つ。
「雪風」
静かに呼びかける。
「私、朝雄を助けに行くことにしたの」
もちろん、刀から返事があるはずはない。
「だから……力を貸してくれる?」
その瞬間。
チリン。
「……!」
風など吹いていない。
それでも、鍔についた小さな鈴が一度だけ鳴った。
「……ありがとう」
桜は微笑み、雪風を手に取った。
◇ ◇ ◇
午後十時を過ぎた頃。
桜と梅は再び八神家へ向かった。
玄関へ着くと、桜が預かっている鍵を使って中へ入る。
「お邪魔します……」
二人は静かに居間へ向かった。
そこには。
「……」
テーブルへ突っ伏し、眠っている喜一郎の姿があった。
「本当に効いた……」
梅が小声で呟く。
「……うん」
二人は喜一郎の前に並び、深く頭を下げた。
「ごめんなさい、おじ様」
桜が小さく言う。
「戻ったら、お叱りはいくらでも受けます」
「おじさん、ごめんなさい」
梅も続ける。
「でも、朝雄ちゃんは必ず連れて帰ります」
「必ず……朝雄を見つけてきます」
二人はもう一度深く頭を下げると、魔法陣のある部屋へ向かった。
扉を開く。
「……綺麗」
昼間に見た時とは違っていた。
床に描かれた巨大な魔法陣が、淡い青色の光を放っている。幻想的な光景だった。
「行こう、梅ちゃん」
「うん」
二人は魔法陣の中央へ進む。
そして、どちらからともなく手をつないだ。
「桜ちゃん」
「なに?」
「私ね」
梅が青く光る魔法陣を見つめながら話し始めた。
「今回のことで、色々考えたんだ」
「……うん」
「もっと早くこうしておけば良かったとか、あの時ああしてれば良かったとか」
「私もよ」
二人は顔を見合わせる。
そして少しだけ笑った。
午後十一時。
魔法陣の青い光が、ゆっくりと強くなり始めた。
「始まった……」
「うん」
二人はつないだ手に力を込める。
しばらくすると、青かった光が赤へ変わった。
そして。
二人の立っている中央部分が、少しずつ白く輝き始める。
「……桜ちゃん」
「なに?」
梅が桜を見る。
「私ね、朝雄ちゃんのことが好きなんだ」
「……」
桜は驚かなかった。
ただ、少し呆れたように笑う。
「そんなの、ずっと前から知ってるわ」
「えっ?」
「今更でしょ?」
「……」
梅の顔が一気に赤くなった。
「もう!」
「ふふっ」
「私、すごく勇気を出して言ったのに!」
「ごめんなさい」
そう言いながら、桜は楽しそうに笑っている。
梅も頬を赤くしたまま、つられて笑った。
「さあ」
桜が前を見る。
「まずは朝雄を助けに行くわよ」
「うん!」
「他のことは、その後でゆっくり考えればいいわ」
「……うん!」
白い光が二人を包み込む。
二人は最後まで手を離さなかった。
そして。
次の瞬間。
二人の姿は、魔法陣の上から完全に消えていた。
◇ ◇ ◇
二人が消えてから、少し時間が経った頃。
「……さて」
居間で眠っていたはずの喜一郎が、ゆっくり顔を上げた。
眠そうな様子はまったくない。
そのまま立ち上がると、魔法陣のある部屋へ向かう。
「無事に行ったか……」
誰もいない魔法陣を確認し、小さく息を吐いた。
そして、あらかじめ用意していた一通の手紙を、テーブルにある小型の魔法陣へ置く。
脇に置かれた古い鞄を開け、中から淡く光る石を三つ取り出した。それを手紙の上へ並べると、魔法陣が青く光り始める。
すぐに赤へ変わる。
次の瞬間、置かれていた手紙と石が消えた。
「これでいい」
喜一郎はそれを見届けると、居間へ戻った。
ほどなくして。
ピンポーン。
インターホンが鳴る。
「来たか」
玄関を開けると、そこにいたのは修蔵、楓、健介の三人だった。
「どうぞ」
三人を居間へ通す。
席へ着く前に、修蔵が深く頭を下げた。
「喜一郎殿。本当に申し訳なかった」
楓と健介も続けて頭を下げる。
「申し訳ありません」
「すまなかった」
「頭を上げてください」
喜一郎は苦笑した。
「謝ってもらうことなんて何もありません」
「しかし……」
「息子を助けるために、娘さんたちを危険な世界へ行かせることになったんです」
逆に喜一郎が頭を下げる。
「謝らなければならないのは、俺の方ですよ」
「喜一郎殿……」
三人は顔を上げた。
「しかし」
修蔵が尋ねる。
「向こうには奥方もいるのであろう?」
「ええ」
「朝雄君を見つけたなら、親子三人で暮らすこともできたはずだ」
「……」
喜一郎は少しだけ黙った。
「確かに」
そして小さく頷く。
「そう考えたこともありました」
「では……」
「でも、もういいんです」
喜一郎は笑った。
「高校を卒業したら朝雄を連れて向こうへ行くつもりだと話した時、あの二人の顔を見ましたから」
「……」
「とてもじゃないが、あの二人から朝雄を取り上げるような真似はできないと思いました」
楓が小さく笑う。
「それに」
喜一郎は続ける。
「あの二人になら、朝雄を任せてもいいと思っています」
「……そうか」
「だから今回のことは、俺の意思でもあるんです」
修蔵と健介が喜一郎を見る。
「ただ」
喜一郎は困ったように頭を掻いた。
「さすがに俺の口から『危険な異世界へ行ってこい』とは言えませんでした」
「当然だな」
「どうしたものかと思っていたところへ、楓さんが来てくれまして」
三人の視線が楓へ向く。
「……」
楓は少しだけ微笑んだ。
桜と梅がどうするのか。
楓には、おおよその予想がついていた。だから事前に喜一郎へ相談し、二人を行かせてもらえるよう頼んでいたのだ。
「つまり」
健介が口を開く。
「あの肉じゃがは……」
「普通の肉じゃがです」
楓が即答した。
「……」
「九条家秘伝の薬など、存在しません」
「……ですよね」
喜一郎が笑う。
「俺も、少し眠ったふりをしただけです」
修蔵は額へ手を当てる。
「まったく……」
「でも」
楓が静かに続ける。
「あの子たちには、自分たちで決めて行ってほしかったのです」
「……」
「誰かに許されたからではなく、自分たちの意思で」
それを聞いた三人は、しばらく黙っていた。
やがて喜一郎が旅行用のバッグを開き、中をごそごそ探り始める。
「さて」
取り出したのは一本の酒瓶だった。
「大人は黙って、子供たちのすることを見守るとしましょう」
酒瓶を掲げる。
「旅先で見つけた酒なんですが、よければ一杯どうです?」
「そうだな」
修蔵が笑う。
「大人は子供を見守るだけでいい」
「俺もいただこう」
健介も頷いた。
「では、おつまみでも作りますね」
楓が立ち上がる。
「喜一郎さん、台所をお借りします」
「もちろん」
四人は、異世界へ旅立った子供たちの無事を祈りながら。
桜や梅、卓也、そして朝雄がまだ幼かった頃の思い出話に、夜遅くまで花を咲かせた。
宜しければ評価をいただけると励みになります。
次話は19:00に投稿します。




