012 桜サイド もうひとつの出会い
「えっ?」
喜一郎の言葉に、桜は思わず声を上げた。
どうやら他の皆も同じだったらしく、その場にいる全員がほとんど同時に同じ声を漏らしている。
『異世界人?』
言葉の意味は分かる。
だが、それが現実の話として出てきたことを、すぐには理解できなかった。
全員の反応を見て、喜一郎が説明を続ける。
「異世界人というのは、そのままの意味だ。今、俺たちがいるこの世界とは違う世界から来た人間。俺の妻であり、朝雄の母親がそうなんだ」
「……」
全員が、なんとか理解しようとその言葉を頭の中で繰り返す。
その中でも比較的早く意味を飲み込めたのは、朝雄の異世界ファンタジー好きに長年付き合ってきた桜、梅、卓也の三人だった。
「お話を続けてください、おじ様」
桜が先を促す。
梅と卓也も真剣な表情で頷いた。
「ああ」
喜一郎は一度息を吐いた。
「妻と初めて会ったのは、今から十七年前。北海道の山奥でのことだ」
◇ ◇ ◇
その日、喜一郎は北海道北部、大雪山系の山奥にいた。
山の麓を走る国道からもかなり離れた場所で、山菜採りの人間でさえ滅多に入らないような山中に一人でテントを張り、一週間ほど滞在する予定だった。
もちろん、のんびりキャンプを楽しむためではない。
この一年、仕事が忙しくて鈍った身体を鍛え直すためである。
ちなみに、喜一郎の職業は考古学者だ。
格闘家でも、武闘家でもない。
山へ入って三日目の朝。
喜一郎は食料を探すため、テントを出た。持ち込んだ食料は最低限で、山菜を採り、必要ならウサギや鹿などを狩って食料にするという、かなり野性味あふれる生活を送っていた。
しばらく歩いていると、近くに大型の野生動物らしき気配を感じる。
「……ほう」
喜一郎は笑った。
草を掻き分けながら、その気配へ近づいていく。
そこにいたのは、大きな熊だった。
二メートル近い喜一郎より、さらに大きい。
「……」
喜一郎の顔に、獰猛な笑みが浮かぶ。
だが、すぐに熊が自分ではない何かへ注意を向けていることに気づいた。
『何かいるのか?』
別の動物でもいるのだろうか。
熊の背後から近づいた喜一郎は、そこで足を止めた。
「……?」
熊の前にいたのは、少女だった。
ここが人里離れた山奥であることを、一瞬忘れてしまいそうなほど場違いな姿をしている。白いドレスを身にまとい、大きな鞄を持った少女は、両目に涙を浮かべながら地面へ座り込んでいた。
恐怖で身体が動かないのだろう。
喜一郎はその姿に違和感を覚えるより先に、熊へ向かって駆け出した。
◇ ◇ ◇
およそ一時間後。
「……ふぅ」
熊との死闘を終えた喜一郎は、その場へ座り込んで大きく息を吐いた。
少女を背後に庇いながら戦ったため、かなり無理をしてしまった。腕も脚も傷だらけで、全身から血が流れている。
『少し……やりすぎたか……』
急速に意識が遠のいていく。
喜一郎はそのまま仰向けに倒れ込んだ。
狭くなっていく視界の中、最後に見えたのは、自分の顔を覗き込みながら泣いている少女の姿だった。
◇ ◇ ◇
次に目を覚ました時、喜一郎は自分のテントの中にいた。
「……?」
身体が少し重い。
だが、動く。
起き上がって自分の身体を見ると、あれほどあったはずの傷が消えていた。
『熊に襲われていた少女を助けたのは……夢だったのか?』
そう思いながらテントの外へ出ると、すぐに夢ではなかったと理解した。
先ほど助けた少女が、焚き火の前で鍋を見ていたからだ。
「あ、気がつかれましたか?」
少女が振り返る。
「治療はしましたが、かなり血を流していましたから、もう少し休んでいた方がよろしいと思いますよ」
そう言って、柔らかく微笑んだ。
「……」
喜一郎は改めて少女を見る。
白いドレスには宝石のような装飾が施されており、物語に出てくる『お姫様』と言われた方が納得できる。
見た目だけなら中学生くらいだが、その言葉遣いや落ち着いた振る舞いには、もっと年上の女性のような印象があった。
そして何より目を引くのが、長い銀色の髪と青い瞳。
髪の間からは、先の尖った長い耳が覗いている。
「……」
喜一郎が無言で見つめていると、少女は急に慌て始めた。
「そ、そんなに見つめられると、その……」
「あ、ああ。すまない」
凝視していたことに気づき、喜一郎は慌てて目を逸らした。
少し微妙な空気が流れる。
やがて少女は立ち上がると、ドレスの裾を両手でつまみ、優雅に頭を下げた。
「危ないところを助けていただき、感謝いたします。勇者様」
「勇者様?」
最後に聞き慣れない言葉が付いていた。
思わず聞き返すと、少女は顔を上げて笑顔で頷いた。
「はい」
「いや、俺は勇者と呼ばれるような者ではないよ。普通の考古学者だ」
「そうなのですか?」
少女は驚いたように目を丸くする。
「てっきり、こちらの世界の勇者様なのだと思いました」
『こちらの世界?』
喜一郎は、その言い方に引っ掛かった。
まるで『こちらではない世界』が、本当に存在するかのような言い方だ。
見た目。
場所。
そして話す内容。
あまりにも不思議なことが多すぎる。
逆に、学者としての興味が湧いてきた。
「こちらの世界ということは、君はここではない別の世界から来たとでも言うのかい?」
「はい」
少女はあっさり頷いた。
「勇者召喚魔法を改造して、この世界に来ました」
「……」
勇者。
召喚。
魔法。
そこまで聞いたところで、喜一郎の学者としての興味が一度消えた。
『これは学問の分野ではなさそうだな……』
どうやら、見た目が不思議な少女は本物の不思議少女らしい。
「そうか」
喜一郎は優しい目で少女を見る。
「とりあえず、一緒に山を下りよう。ご両親は近くのキャンプ場にでもいるのかい?」
「……?」
少女は不思議そうに首を傾げた。
喜一郎がテントを片付け、下山の準備を始めようとすると、慌てて止めに入る。
「まだ動かないでください」
「ん?」
「治癒魔法で傷は治しましたが、流れてしまった血は戻らないのです」
「……治癒魔法?」
喜一郎は、自分の身体をもう一度見回した。
確かに熊との戦いでは、かなり酷い怪我をしていた。だが今は傷跡すら残っておらず、少し身体が重い程度だ。
「君が……治してくれたのか?」
「はい!」
少女は嬉しそうに胸を張った。
「私は治癒魔法も得意なんですよ!」
「……」
魔法で治した。
とてもではないが、すぐに信じられる話ではない。
しかし、実際に傷は消えている。あれほどの怪我が短時間で跡形もなく治るとは、到底思えなかった。
『不思議少女と決めつけるのは、少し早いか……』
喜一郎はもう一度、真面目に話を聞くことにした。
「君は他の魔法も使えるのか? よければ少し見せてくれないか」
「もちろんです!」
少女の顔がぱっと明るくなる。
「私はこう見えても、王宮の魔法研究所の所長だったのですよ。魔法は得意です!」
「……王宮?」
また怪しい単語が出てきた。
だが、少女が実際に魔法を見せ始めると、喜一郎は言葉を失った。
何もない場所から炎を出す。
水を生み出す。
地面に大きな穴を開ける。
どれも手品などという規模ではない。
炎はキャンプファイヤーほどの大きさまで燃え上がり、水は大きな蛇口を全開にしたような勢いで噴き出した。さらに地面には、クレーターのような大穴まで開いている。
「……」
自分の傷のこともある。
目の前で起きたことを信じられない気持ちは残っている。それでも、信じるしかなかった。
「魔法とは……すごいものなんだな」
喜一郎が素直に感想を口にすると、少女は少し照れたように頬を赤くした。
「ありがとうございます」
「それで」
喜一郎は少女を見る。
「本当に別の世界から来たとして、これからどうするつもりなんだ?」
「……」
少女は考え込み、少しして困ったように口を開く。
「私は、この世界に一人で来ました」
「一人で?」
「はい。この世界のことは何も知りませんし、頼れる方もいません……」
そう言って俯く。
だが時折、ちらちらと喜一郎の様子を確認していた。
「……」
喜一郎は難しい顔で考え込む。
少女が異世界から来たという話は、今見た魔法を考えれば信じてもいいだろう。
問題はその後だ。
自分は独身で一人暮らし。見た目が中学生ほどの少女を、その家へ連れて帰るというのは色々と問題がある気がする。
喜一郎が悩んでいると、少女が慌てて口を開いた。
「あ、あの!」
「ん?」
「この世界のことを理解するまでの間だけでも、ご一緒させていただくわけにはいかないでしょうか?」
必死な表情だ。
「厚かましいお願いなのは分かっています。でも、他に頼れる人がいないのです」
「いや、それは――」
「あっ、生活費でしたら!」
少女は脇に置いてあった大きな鞄へ手を入れ、ごそごそと中を探り始めた。
そして。
「こちらを!」
「……」
取り出した物を見て、喜一郎は固まった。
ダイヤモンドのような透明な宝石。
ただし、直径二十センチ近くある。
「……」
あまりの大きさに何も言えずにいると、少女は何か勘違いしたらしい。
「足りませんか?」
「いや――」
「では、こちらも!」
再び鞄を探る。
今度は赤と緑の巨大な宝石が出てきた。どちらも先ほどと同じくらい大きい。
「これで足りなければ、まだあります!」
「待った待った!」
喜一郎が慌てて止める。
「生活費の問題じゃないんだ」
「違うのですか?」
「ああ。俺は独身で一人暮らしなんだ。そんなところに君のような女の子を連れていくのは、さすがに――」
「……!」
一瞬。
少女の目が、きらりと光った気がした。
「それは好都合――」
「ん?」
「……ではなく!」
少女は慌てて言い直した。
「私は気にしません! 家事だってできます!」
そして最後に、
「……たぶん」
と、小さな声で付け加えた。
「……」
聞こえていたが、喜一郎はあえて何も言わなかった。
結局、この少女を山奥へ置いていくわけにもいかない。
『この世界のことが分かるまで』
という条件で、しばらく面倒を見ることにした。
そう伝えると、少女は満面の笑顔になった。その笑顔は、喜一郎が素直に美しいと思えるものだった。
「そういえば、まだ名乗っていなかったな」
喜一郎は少女へ向き直る。
「俺は八神喜一郎という。君の名前も聞いていいかい?」
「ヤガミキイチロウ様?」
「ああ。八神が名字で、喜一郎が名前だ。喜一郎と呼んでくれ」
少女は、ぽん、と小さく手を打った。
「ああ! 喜一郎様は貴族だったのですね」
「いや、違う」
「違うのですか?」
「この国には貴族はいないよ。それに、普通の人間でも名字と名前の両方を持っている」
「なるほど……」
少女は感心したように頷く。
「早速、この世界のことを一つ学びました」
喜一郎が苦笑すると、少女は改めて姿勢を正した。
「私はエミリーといいます」
そして少し頬を赤くし、笑顔を浮かべる。
「これから末永くよろしくお願いしますね、喜一郎様!」
「……ん?」
何か引っ掛かる。
だが、世界が違えば挨拶の感覚も違うのだろう。
この時の喜一郎は、それ以上深く考えなかった。
そうして二人は、一緒に山を下りた。
その後、エミリーが実はハーフエルフで、見た目とは違い喜一郎と同じくらいの年齢だと判明する。
さらに色々なことがあり、一年後に二人は結婚。
そして、その翌年。
朝雄が生まれた。
◇ ◇ ◇
「……というのが、俺とエミリーが出会った時の話だ」
そこまで語り終え、喜一郎は大きく息を吐いた。
「……」
「……」
「……」
部屋を見渡す。
六人とも、なんとも言えない表情で自分を見ていた。
『やはり、急にこんな話をされても信じられないか……』
喜一郎はそう思った。
だが、どうも違う。
皆の目は、まるで結婚詐欺にまんまと引っ掛かった男を見るようなものだった。
「……?」
喜一郎が戸惑っていると、桜が口を開いた。
「朝雄のお母様が、そのエミリーさんなのですね」
「ああ」
「初めてお名前を聞けて嬉しいです。それに、ぜひ一度お会いしたくなりました」
「そうか」
「はい」
桜は真剣な顔で頷く。
「初志貫徹して目的を達成した、その手腕はぜひ見習いたいと思います」
「……」
その場にいた何人かが、驚いた顔で桜を見た。
『今の話を聞いて、その感想なのか?』
誰も口にはしなかった。
ただ、楓だけは何やら納得したように小さく頷いている。
「でも」
桜の表情が真剣なものへ変わった。
「どうしてエミリーさんは、朝雄が物心つく前にいなくなってしまったんですか?」
「……」
「朝雄からも、おじ様からも、国へ帰ったと聞いていました。つまり……異世界へ帰ったということですよね?」
喜一郎の表情が曇る。
「あいつが異世界へ戻ったのは間違いない」
少し間を置いて続けた。
「だが、自分の意思で帰ったわけじゃない」
「え?」
「朝雄が三歳になったばかりの頃だ」
喜一郎は静かに目を伏せる。
「エミリーは突然、元いた世界へ召喚されてしまった」
「召喚……」
「ああ。それ以来、一度もこちらへ戻ってきていない」
部屋の空気が重くなった。
「ある日、俺が家に帰ると、朝雄が一人で泣いていた。家中を探したが、エミリーはどこにもいなかった。何が起きたのかも分からなかった」
途方に暮れていた喜一郎は、エミリーの部屋に一通の手紙が残されていることに気づいた。
「どうやらエミリーは、いつか自分が突然向こうへ戻される可能性を考えていたらしい」
手紙には、元の世界にエミリーを召喚できる魔法が残っていること。
ただし、その魔法には膨大な魔力が必要になるため、すぐに使われる可能性は低いこと。
そして、もし自分が突然いなくなったなら、その魔法によって元の世界へ戻されたのだと思ってほしい。
そういったことが書かれていた。
「エミリーがこちらへ来てから、その時点で五年ほど経っていた。向こうで必要な魔力がようやく用意できたんだろう」
「……そんな」
桜が小さく呟く。
「でも、エミリーはその可能性を考えて、こちらに色々と準備を残していた」
喜一郎が立ち上がる。
「こっちへ来てくれ」
全員が顔を見合わせ、喜一郎の後へ続いた。
◇ ◇ ◇
案内されたのは、一階にある一つの部屋だった。
桜も、その部屋があること自体は知っている。
朝雄の母親の部屋。
そう聞かされていた。
ただし、中へ入ることは禁止されていた。朝雄自身も、中を見たことはないと言っていたはずだ。
喜一郎は鍵を取り出し、鍵穴へ差し込んだ。
ガチャリ。
扉が開く。
「……!」
中を見た桜たちは、一斉に目を見開いた。
部屋の端にはテーブルが一つあり、その上には古びた大きな鞄が置かれている。他に家具らしい物はほとんどない。
だが、床一面に白いシートが敷かれ、その上には巨大な魔法陣らしきものが描かれていた。
「これが……魔法陣?」
「ああ」
喜一郎はテーブルへ近づく。
その上には紙が置かれており、床にある物とよく似た小さな魔法陣が描かれていた。
「こっちは、エミリーがこちらの世界で作った小型の魔法陣だ」
「何に使うんですか?」
「向こうの世界と、手紙のような小さくて軽い物をやり取りするためのものだ」
「……!」
「人間を移動させるような魔法とは比べものにならないほど小規模だが、それでも大量の魔力が必要らしい。だから頻繁には使えない」
「でも……連絡は取れていたんですか?」
「ああ。年に何度かはな」
桜は驚いた。
朝雄は、母親とはずっと会っていない。
だから桜も、喜一郎まで完全に連絡が取れなくなっているのだと思っていた。
「そして一昨日」
喜一郎の表情が変わる。
「この魔法陣に、突然エミリーから手紙が届いた」
「一昨日……?」
朝雄が消えた日だ。
桜の身体が僅かに強張る。
「その手紙には、朝雄が向こうの世界へ来ている可能性があると書かれていた」
「朝雄が!?」
桜と梅が同時に声を上げた。
「ああ」
喜一郎は二人を落ち着かせるように頷く。
「向こうに、朝雄がいつも身につけていたお守りが突然現れたそうだ」
「お守り……」
桜は知っている。
朝雄が幼い頃から、ずっと首に掛けていた小さなお守り。
「まさか……あれが?」
「エミリーが朝雄のために作ったものだ」
喜一郎が答える。
「詳しい仕組みまでは俺にも分からない。ただ、朝雄に危険が迫った時、あいつを守るための特殊な魔法が込められていたらしい」
「……」
桜は事故の瞬間を思い出す。
朝雄の身体を包んだ光。
青から赤。
そして白。
銀色へ変わった髪。
「じゃあ、あの時……」
「何らかの形で、お守りの魔法が働いた可能性は高い」
喜一郎は静かに答えた。
「手紙を読んだ俺は、すぐに桜ちゃんへ電話を掛けた」
「……だから」
あのタイミングだったのだ。
朝雄に何かあったのかと、いきなり聞かれた理由もようやく分かった。
「その後、向こうでも魔法を使って調べたらしい」
喜一郎は続ける。
「そして、朝雄が向こうの世界にいること自体は確認できたと連絡が来た」
「……!」
桜と梅が息を呑む。
「だから今は、朝雄が生きていることだけは間違いないと言える」
「本当に……生きてるんですね?」
桜の声が震える。
「ああ」
喜一郎は、はっきりと頷いた。
「朝雄は生きている」
「……っ」
桜は俯いた。
隣では梅が口元を押さえている。
二人とも、泣かないよう必死に堪えていた。
「それが確認できたから、学校には休学の手続きをした」
「そうだったんですね……」
桜はようやく納得した。
だが、喜一郎の表情は晴れない。
「問題は、ここからだ」
「え?」
「向こうの世界にいることは分かった。ただし……どこにいるのかまでは分かっていない」
「……!」
「エミリーのところに現れたのは、お守りだけだったそうだ」
「じゃあ朝雄は……」
「向こうの世界のどこかにいる。それ以上は、今のところ分からない」
桜と梅の顔から血の気が引く。
「向こうの世界って……どんなところなんですか?」
桜が焦ったように尋ねた。
「危なくないんですか?」
「文化としては、こっちのファンタジー小説に出てくるような、剣と魔法のある中世くらいの世界だと聞いている」
「剣と……魔法……」
「今は大きな戦争をしている国はないらしい。ただ、未開の土地も多いし、野生動物や魔物もいる。街の外まで安全とは言えないそうだ」
「そんな……」
桜と梅の顔色がさらに悪くなる。
「早く……」
桜が拳を握る。
「早く朝雄を助けに行かないと……!」
「向こうでも朝雄を探している」
喜一郎が桜の言葉を遮った。
「それに、俺も向こうへ行く」
「えっ?」
桜が顔を上げる。
「おじ様が?」
「ああ」
喜一郎は床一面に広がる魔法陣を見る。
「本当は、朝雄が高校を卒業した頃に二人で向こうへ行く予定だった」
「……え?」
「その頃には、俺と朝雄を二人とも転移させられるだけの魔力を用意できる予定だったんだ」
「……」
桜の思考が止まる。
『高校を卒業したら……朝雄が向こうへ行く?』
そんな話は一度も聞いたことがない。
『朝雄に……会えなくなる?』
隣を見る。
梅も同じことを考えたらしく、驚いた顔で喜一郎を見つめていた。
「ただ、状況が変わった」
喜一郎が二人を見る。
「今日の夜十一時。向こうから、この魔法陣を使って召喚魔法を発動してもらうことになっている」
「今日……」
「ああ」
床の魔法陣の中央を指差す。
「その時間にここへいれば、向こうの世界へ移動できる」
部屋の中が静まり返った。
「ただし、今回用意できた魔力で転移できる総重量には限界がある」
「限界?」
「俺一人分程度だ」
喜一郎は自分の身体を指す。
「それより軽く小さい物なら問題ないそうだが、大きく超えれば失敗する可能性がある」
「……」
その説明を聞いた瞬間。
桜の表情が変わった。
「おじ様」
「ん?」
「私も連れて行ってもらえませんか?」
「桜ちゃん……」
「お願いします」
真っ直ぐ喜一郎を見る。
隣では、梅も同じ表情をしていた。
「私も……お願いします」
「……」
喜一郎は二人を見てから、ゆっくり首を横へ振った。
「すまない」
「……」
「俺と桜ちゃんの二人では制限を超える。転移そのものが失敗する可能性が高い」
「……っ」
桜は俯き、唇を強く噛んだ。
梅が心配そうに、その横顔を見る。
「朝雄は必ず見つける」
喜一郎は二人へ向かって頭を下げた。
「必ず無事に連れて帰る。だから……待っていてほしい」
「……」
桜は答えない。
梅も何も言わなかった。
それまで黙って話を聞いていた修蔵が、静かに口を開く。
「話は分かった」
喜一郎を見る。
「喜一郎殿が向こうへ行くというのなら、朝雄のことは任せよう」
「……修蔵さん」
「朝雄が無事に戻ってくるのを、我々はここで待つとしよう」
健介も黙って頷いた。
だが。
桜だけは俯いたままだった。
表情は見えない。
梅はそんな桜を心配そうに見つめ、卓也は何かを考えるように自分の姉へ視線を向けていた。
楓もまた、無言で桜を見ている。
その瞳には、何かを考えているような色が浮かんでいた。
◇ ◇ ◇
その後、修蔵に促され、六人は八神家を後にした。
家を出ると、鬼塚家の三人は自宅へ向かう。梅は何度も桜の方を振り返っていた。
だが、桜はずっと下を向いたまま、一言も話さない。
「……」
修蔵が先に歩き始める。
楓は何も言わず、桜の手を取った。
「帰りましょう」
「……うん」
桜は小さく答えた。
そのまま手を引かれ、家へ向かって歩いていく。
最後まで。
桜は一度も、顔を上げなかった。
宜しければ評価をいただけると励みになります。
次話は明日7:00に投稿します。




