011 桜サイド 説明
カーテンの隙間から差し込む朝日を感じて、桜は目を覚ました。
時計を見ると、いつもの時間だった。昨日の夜、朝雄と初めて出会った日のことや、それから一緒に過ごしてきた日々を思い返しているうちに眠ってしまったらしい。
まだ少し寝不足気味ではある。
それでも桜はベッドから出ると、部屋のカーテンを開けて一階へ降りた。
「おはよう、お母さん」
「おはよう」
朝食の支度をしていた楓から、いつも通りの挨拶が返ってくる。
桜は少し考えてから、母へ話しかけた。
「お母さん、今日学校から帰ってきたら、大事な話があるの」
それを聞いても、楓は特に驚いた様子を見せなかった。
「そう。お爺様にも話しておきなさい。道場にいるから」
「分かった」
桜はそれだけ言うと、道場へ向かった。
中へ入ると、修蔵が一人、道場の中央で正座をして目を閉じている。
「おはようございます、お爺様」
「おはよう、桜」
いつもと変わらない挨拶が返ってきた。
「お爺様、今日学校から戻ったら、お話ししたいことがあります」
桜がそう伝えると、修蔵はゆっくり目を開いた。しばらく桜の目を見つめた後、何も尋ねずに一度だけ頷き、再び目を閉じる。
「……」
やはり何かを察しているのかもしれない。
だが、今ここで話し始める時間はなかった。
◇ ◇ ◇
身支度を整えた桜は、いつもより少し早い時間に家を出た。
門を出ると、いつものように隣の八神家へ向かう。玄関の前に立ち、ポケットから預かっている鍵を取り出して扉を開けた。
いつもなら、そのまま朝食の支度を始める。
だが今日は、台所へ向かわなかった。
二階へ上がり、朝雄の部屋の前に立つ。
「……」
ドアノブへ手を掛け、一瞬だけ動きを止めた。
それから、ゆっくりと扉を開ける。
部屋の中は、何も変わっていない。
見慣れた机。
見慣れた本棚。
見慣れたベッド。
ただ、そのベッドにいるはずの朝雄だけがいなかった。
「……朝雄」
当然、返事はない。
昨日までなら、まだ眠っている朝雄を起こしていた時間だ。何度呼んでも起きない時は布団を剥がし、寝ぼけた朝雄に文句を言われることもあった。
そんな当たり前だった光景が、今日はどこにもない。
「……」
誰もいない見慣れた部屋で、桜はしばらく立ち尽くした。
やがて静かに目を閉じる。
そしてもう一度開くと、身体を翻して部屋を後にした。
◇ ◇ ◇
八神家を出た桜は、一人で学校へ向かった。
いつも隣にいる人がいない。
それだけのことが、ひどく寂しかった。
いつも待ち合わせをしている交差点へ着く。時間にはまだ少し早かったが、すでに梅と卓也が来ていた。
普段なら、梅が遠くからでも分かるほど元気に手を振ってくる。しかし今日は、少し俯きながら小さく手を上げただけだった。
「おはよう、桜ちゃん」
「おはよう、梅ちゃん」
「おはよう」
三人は挨拶を交わすと、そのまま並んで歩き始めた。
桜と梅が少し俯きながら前を歩き、その後ろを卓也が一人でついていく。しばらくして、先に口を開いたのは梅だった。
「桜ちゃん、家の人には話したの?」
「ううん。今日、学校から帰ったら話すつもり。朝、そう言ってきたわ」
何のことかは、言うまでもない。
梅は小さく頷いた。
「そっか。うちも同じ。朝、お父さんに今日話があるって言ってきた」
「何か聞かれた?」
「ううん。でも……何か気づいてるみたいだった」
「うちも同じよ。お母さんもお爺様も、何も聞かなかったわ」
「そうなんだ……」
そこで会話は途切れた。
三人は再び無言になり、そのまま学校へ入ると、それぞれの教室へ向かった。
◇ ◇ ◇
卓也は教室へ入ると、親しい友人たちと挨拶を交わして自分の席へ座った。
何人かから朝雄のことを聞かれたが、
「今日は休みらしいぞ」
と曖昧に答えておく。
やがてチャイムが鳴り、担任が教室へ入ってきた。いつものように連絡事項を伝え始め、その途中で何気なく口にする。
「八神は家庭の事情により休学すると、昨日学校に連絡があった。外国にいる母親の所へ行くそうだ」
「……は?」
卓也は思わず声を漏らした。
担任はそれ以上詳しい説明をすることなく、いつも通り朝のホームルームを続ける。
一方のクラスメイトたちは、最初こそ理解が追いつかない様子だったが、やがて教室中がざわつき始めた。
「八神が?」
「随分急だな」
「朝雄の母ちゃん、外国人だったのか」
「そんな……朝雄きゅんに会えないなんて、これから何を楽しみに学校に来ればいいの……」
色々な声が聞こえてくる。
『休学……?』
卓也も驚いていた。
だが、少し考えてすぐに察する。
『朝雄の親父さんだな』
昨日の今日だ。ほかに手続きをする人物は考えられない。
卓也は机の下でスマートフォンを取り出すと、桜と梅へ簡単に事情を知らせた。
◇ ◇ ◇
放課後。
卓也は授業が終わると同時に教室を飛び出し、桜と梅の教室へ向かった。三人で合流し、そのまま学校を出る。
最初に口を開いたのは桜だった。
「おじ様が朝雄の休学手続きをしたということは、すぐに帰ってこられる状態ではないということね」
「……」
梅と卓也の表情が暗くなる。
だが、桜はすぐに続けた。
「でも、『休学』ということは、帰ってくることを前提にした手続きだとも思えるわ」
「……!」
今度は二人の表情が少し明るくなった。
「そうだよね。帰ってくるから休学にしたんだよね」
「そうだな。もう戻れないって分かってるなら、退学にするはずだ」
梅と卓也が、それぞれ桜の言葉に同意する。
「今、おじ様がどこまで朝雄の状況を知っているのかは分からない。でも、学校のことまで気にする程度には状況を把握しているんだと思う」
昨日、喜一郎は言っていた。
『朝雄が死んだとは思っていない』
そして、詳しいことは自分が戻ってから話すとも言っていた。
ならば。
少なくとも喜一郎には、朝雄が生きていると考えるだけの理由がある。そして、すぐには戻ってこられない可能性を考え、帰ってくることを前提に休学の手続きをした。
そう考えることもできる。
「……希望的観測かもしれないけどね」
「それでもいいよ」
梅がすぐに答えた。
「今は、朝雄ちゃんが帰ってくるって思いたい」
「俺も」
卓也も頷く。
「明日になれば親父さんから話を聞けるんだろ。今いくら考えても、それ以上は分からねえしな」
「……そうね」
三人とも、少しだけ気持ちを持ち直していた。
まずは明日、喜一郎から説明を聞く前に、それぞれの家族へ今日中に話しておかなければならない。
「うちは、お爺様とお母さんに話すわ。明日は三人でおじ様の話を聞きに行くつもり」
桜が続ける。
「お父さんは単身赴任先から急には戻れないから、あとで連絡することになると思う」
「うちは私と卓也とお父さんかな」
梅も答えた。
「お母さんは、しばらく仕事で戻ってこられないと思うから」
九条家から三人。
鬼塚家から三人。
明日は六人で喜一郎の説明を聞くことになりそうだった。
「おじ様が何時に戻ってくるか分からないから、私は明日学校を休むつもりだけど、梅ちゃんたちはどうする?」
「私たちも休むよ。少しでも早く話を聞きたいし」
「俺も行く」
今日一日、三人とも授業の内容などほとんど頭に入っていない。明日学校へ行ったところで、同じことになるだろう。
「じゃあ、明日は朝からうちに来ない?」
桜が提案する。
「おじ様が帰ってきたら、すぐに話を聞きに行けるように」
「うん。そうするね」
その後、家族へどう説明するかを簡単に確認してから、三人は別れた。
結論は同じだった。
昨日あったことを、そのまま話す。
嘘をつく必要はないし、そのつもりもない。
信じてもらえるという確信もあった。
桜も梅も、自分たちの家族を信頼している。それに、朝雄の父親である喜一郎のことを、修蔵や梅の父親は自分たち以上に信頼しているように思えた。
◇ ◇ ◇
桜は帰宅すると、居間で待っていた修蔵と楓へ、昨日あったことを最初から話した。
学校からの帰り道、トラックが歩道へ突っ込んできたこと。
朝雄が自分と梅を助けてくれたこと。
不思議な光に包まれ、髪が銀色へ変わったこと。
そして最後には、その場から消えてしまったこと。
二人は途中で口を挟むことなく、黙って最後まで話を聞いていた。
「それで、おじ様が明日帰ってきて、全部説明してくれるって」
そこまで話すと、修蔵と楓は顔を見合わせた。
「私たちも一緒に聞きましょう」
楓が迷うことなく答える。
「うむ」
修蔵も頷いた。
予想していた通りの反応だった。
それでも桜は、つい尋ねてしまう。
「話を信じてもらえるとは思ってたけど……朝雄が光に包まれて消えたなんて、普通なら信じられない話でしょう?」
自分でも、随分訳の分からないことを言っている自覚はある。
楓は何でもないことのように答えた。
「あなたが朝雄ちゃんのことで、そんな嘘をつくはずがないでしょう」
「お母さん……」
「何年、二人を見てきたと思っているの?」
楓がそう言うと、修蔵も静かに頷いた。
「桜も、そして喜一郎殿も、朝雄のことで我らに嘘をつくような人間ではない。それだけは間違いない」
「……」
二人なら、そう言ってくれるだろうとは思っていた。
それでも実際に信じてもらえたことが、たまらなく嬉しかった。
「ありがとう、お爺様、お母さん」
桜が微笑むと、修蔵と楓も笑顔で頷いた。
その後、明日は喜一郎が何時に帰ってくるか分からないため学校を休むこと、朝から梅たちが九条家へ来ることなどを話してから、自分の部屋へ戻った。
◇ ◇ ◇
ちょうどその時、スマートフォンが着信を知らせる。
画面には梅の名前が表示されていた。
「もしもし、梅ちゃん?」
桜はすぐに通話ボタンを押した。
『桜ちゃん? 今大丈夫?』
「うん。今ちょうど、お母さんたちに話し終わったところ」
『私も!』
お互いに、家族へ朝雄のことを話したと報告し合う。
梅の父親も、修蔵たちとほとんど同じことを言ったらしい。
『私の話、全部信じてくれた』
「うん。うちも」
『……良かった』
「そうね」
電話の向こうの梅も、家族に信じてもらえたことが嬉しかったようだった。
予想通り、明日は梅と卓也、それに梅の父親も一緒に説明を聞きに来るという。
明日の予定を少し確認してから、
「じゃあ、また明日ね」
『うん。また明日』
通話を終えた。
スマートフォンを置くと、桜は一人考え込んだ。
朝雄が目の前で消えた。
いまだに何が起きたのか、まったく分からない。それでも明日になれば、少なくとも今よりは状況が分かるはずだ。
喜一郎が何を説明するつもりなのか、想像もできない。
だが、その内容がどんなものであっても、桜の想いは変わらなかった。
「朝雄は私が守る」
静かな部屋の中で、はっきりと口にする。
「朝雄が今どこにいるのか分からないけど……」
一度、言葉を止める。
そして。
「もし朝雄が戻ってこられないなら、私がそこに行けばいい」
桜にとっては、それだけのことだった。
◇ ◇ ◇
翌朝。
いつもなら学校へ向かうくらいの時間に、九条家のインターホンが鳴った。
桜が門まで迎えに出ると、そこには梅と卓也、それに二人の父親が立っていた。
梅と卓也の父、鬼塚健介。
身長は百六十センチほどと小柄だが、がっしりとした骨太な身体をしている。角刈りの髪に鋭い目つきで、一目見ただけでも、いかにも空手家らしい雰囲気を漂わせていた。
「おはようございます、鬼塚のおじ様」
「おはよう、桜ちゃん」
健介へ挨拶した後、桜は梅と卓也へ向き直る。
「二人もおはよう」
「おはよう、桜ちゃん」
「おはよう」
三人を家へ招き、客間へ案内する。
すぐに修蔵も顔を出し、楓がお茶を持って入ってきた。六人はお茶を飲みながら、喜一郎の帰りを待った。
◇ ◇ ◇
それから二時間ほど経った頃。
隣の八神家の前に、車が止まる音がした。
「……!」
桜はすぐに立ち上がり、スマートフォンを取り出す。
「おじ様、帰ってきたのかな……」
すぐに電話を掛けてもいいものか。
そう少し迷っていると、手の中のスマートフォンが着信を知らせた。
表示されているのは、待ち続けていた相手の名前。
桜はすぐに通話ボタンを押した。
「もしもし、おじ様?」
『桜ちゃん。今、家に戻ってきた』
「お帰りなさい」
『ありがとう。そこに、みんないるのかい?』
こちらの状況を予想していたかのような言葉に、桜は少し驚いた。
「はい。私とお爺様、お母さん。それに梅ちゃんと卓也、鬼塚のおじ様もいます」
『分かった』
喜一郎が一度息を吐く。
『すまないが、こっちの家で説明したい。みんなで来てもらえるか?』
「分かりました。すぐに伺います」
そこで通話は終了した。
桜は客間にいる全員へ内容を説明し、揃って八神家へ向かう。
家を出たところで、隣を歩いていた梅が桜の手を握ってきた。
「……」
桜も何も言わず、その手を握り返す。
二人とも不安だった。
それでも、昨日までとは違う。
もうすぐ答えを聞くことができる。
◇ ◇ ◇
八神家のインターホンを押すと、すぐに玄関の扉が開いた。
朝雄の父、喜一郎が姿を見せる。
「待たせてしまってすまない。みんな、上がってくれ」
手をつないだままの桜と梅に続き、全員が家へ入った。
案内されたのは、何度も訪れたことのある居間。だが今日は、いつもとはまるで違う場所のように感じられた。
全員が席へ着く。
喜一郎はそれを確認すると、皆の前で深く頭を下げた。
「朝雄のことで心配をかけて、本当にすまない」
「おじ様……」
顔を上げた喜一郎は、その場にいる全員を見渡した。
「朝雄の状況は、ある程度分かった」
そして。
「朝雄が無事なのは間違いない」
「……!」
桜は息を呑んだ。
隣では、梅が強く握っていた手から少しだけ力を抜く。
「良かった……」
梅が小さく呟いた。
卓也も大きく息を吐き、楓たちの表情からも緊張が僅かに消える。
昨日、喜一郎は、
『朝雄が死んだとは思っていない』
と言った。
今は違う。
『朝雄が無事なのは間違いない』
はっきりと、そう断言した。
それだけで、桜の胸を締めつけ続けていたものが少しだけ軽くなった。
「朝雄がどこにいるのか」
喜一郎は続ける。
「今、どういう状況なのか。そして、どうして消えてしまったのか」
部屋の空気が、再び張りつめていく。
「これから説明する」
喜一郎は一度言葉を止めた。
「ただ、それにはまず……朝雄の母親のことから話さなければならない」
「朝雄の……お母さん?」
桜が思わず聞き返した。
突然、朝雄の母親の話が出てきたことに、その場にいた全員が驚いた。
今まで喜一郎の妻――朝雄の母親について聞かされていたのは、外国にいるということくらいだった。朝雄自身も、それ以上のことはほとんど知らない。
十年以上、一度も姿を見せていない。
そこには何か事情があるのだろう。
皆そう思いながらも、喜一郎にも朝雄にも、あえて尋ねずにきた。
「信じてもらえるかは分からない」
喜一郎は静かに言った。
「だが、これから話すことについて、俺は真実しか語らないと誓う」
「……」
誰も口を挟まない。
喜一郎は全員の顔を見渡した後、一度目を閉じた。
そして、ゆっくりと口を開く。
「妻――朝雄の母親は……」
ほんの僅かな間。
「異世界人なんだ」
緊張して張りつめた空気の中、喜一郎はそう言った。
「「「「「「えっ?」」」」」」
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