010 桜サイド 梅の想い
梅視点のお話です。
「じゃあ、また明日ね」
「ええ。また明日」
桜に見送られながら、梅は卓也と並んで鬼塚家へ向かった。
少し歩いてから振り返ると、もう桜の姿は見えない。
「……朝雄ちゃん」
それまでどうにか保っていた梅の表情が、ゆっくりと歪んだ。
心配でたまらなかった。
最後に見た朝雄の姿。
白い光に包まれ、銀色に変わった髪。そして最後に残した、
『ありがとう』
という言葉。
思い出しただけで、涙が溢れそうになる。
それでも梅は制服の袖で目元を強く拭うと、隣を歩く卓也へ向き直った。
「そうだよ。朝雄ちゃんが桜ちゃんを置いて、いなくなるわけないんだよ」
わざと明るい声を出す。
「桜ちゃんは、朝雄ちゃんのヒロインなんだもんね!」
まるで、自分自身へ言い聞かせるような言葉だった。
「……」
それを聞いた卓也は、先ほど自分が口にした言葉を少し後悔した。
姉の気持ちは、とっくに知っている。
本人から聞いたわけではない。だが、長年そばで見ていれば嫌でも分かった。
桜と朝雄が楽しそうにしている時、少し離れた場所で二人を見ながら笑っている梅。その笑顔が、どこか寂しそうに見えたことは一度や二度ではない。
「……まだエンディングを迎えたわけじゃねえだろ」
「え?」
「頑張ってみればいいんじゃね?」
なるべく感情を出さないように、卓也はぶっきらぼうに言った。
一瞬きょとんとした梅だったが、すぐに弟が何を言いたいのか気づき、少しだけ困ったように笑う。
そして、首を横へ振った。
「私はね、桜ちゃんも朝雄ちゃんも、二人とも大好きなんだよ」
「……そっか」
「うん」
それ以上、卓也は何も言わなかった。
梅も何も言わず、二人はそのまま並んで家へ向かって歩き続けた。
◇ ◇ ◇
家へ入る前に、梅と卓也は今日の出来事を両親にはまだ話さないことに決めた。
朝雄が突然消えたなど、自分たちにも何が起きたのか理解できていない。今の状態で説明したところで、余計に混乱させてしまうだけだろう。
明日、改めて桜と相談した上で両親にも事情を話し、喜一郎が帰国したら一緒に詳しい説明を聞くことにした。
鬼塚家と八神家、九条家は古くから付き合いがある。もちろん梅の両親も朝雄のことはよく知っており、特に梅の父親は桜の祖父である修蔵や喜一郎とは非常に仲が良い。
朝雄に何かあったと知れば、絶対に自分も説明を聞きに行くと言うだろう。
家へ帰ると、梅と卓也はできるだけ普段通りに過ごした。
夕食の間、いつもとは違う二人の雰囲気に父親も気づいていたようで、何度か何かを言いたそうな顔をしていた。それでも、結局は何も聞いてこなかった。
母親は仕事でしばらく家を空けているため、今夜家にいるのは三人だけだった。
夕食を終えて自分の部屋へ戻ると、梅は着替え、のろのろとベッドへ潜り込んだ。
一人になった途端、押し込めていたものが胸の奥から再び湧き上がってくる。
朝雄が消えた時、何もできなかった自分。
最後に朝雄から声を掛けられたのに、何も返せなかった自分。
そして、朝雄がいなくなり、悲しそうな顔をしていた桜。
どれを思い出しても、胸が苦しくなる。
梅は布団を握りしめ、ぎゅっと目を閉じた。
すると、ずっと昔の記憶が自然と蘇ってきた。
◇ ◇ ◇
梅が桜と朝雄に初めて出会ったのは、小学三年生に上がる前の春休みだった。
父親が念願だった自分の空手道場を開くことになり、そのため一家で隣町から引っ越してきたのである。
大した距離の引っ越しではなかったが、学区は変わるため、梅は転校しなければならなかった。
当時の梅にとって、それはかなり憂鬱な出来事だった。
梅は人見知りで、友達を作るのがあまり得意ではない。仲の良かった友達と離れるのも嫌だったし、新しい学校で友達ができるのかという不安も大きかった。
それでも、念願だった道場を開けることを父親が心から喜んでいるのを知っていた。
申し訳なさそうに転校の話をする父へ、
「うん、大丈夫だよ」
梅は笑って答えた。
転校したくないと言って、父親を困らせたくなかったのだ。
とはいえ、いくら親を気遣ったところで、不満や不安まで消えてくれるわけではない。
梅は自分の部屋で一人もやもやとしていたが、しばらくベッドの上で悩んだ末、不意に顔を上げた。
「こういう時は、身体を動かしてスッキリしよう!」
名案を思いついた。
梅は勢いよく自分の部屋を出ると、隣にある弟の部屋の扉を遠慮なく開け放った。
卓也はベッドへ寝転び、漫画を読んで笑っていた。突然入ってきた姉を見て、驚いたように目を丸くする。
「卓也、ねーちゃんが稽古つけたげるよ! 道場いくよ!」
「え?」
一瞬の沈黙の後、卓也の顔がみるみる青ざめていった。
「ちょ、なんで急に……」
逃げようと後ずさるが、遅かった。
梅は卓也の服の襟をむんずと掴んだ。
「はい、行くよー」
「ちょっ、待て! 俺まだ行くって言ってない!」
この頃には、すでに卓也の方が梅より背が高かった。それでも、引きずられながら卓也がどれだけ暴れても、梅の腕はびくともしない。
「イヤだーーーー!」
本気で嫌がる弟を特に気にすることもなく、梅は道場へ向かって歩いていった。
◇ ◇ ◇
「ふぅ……」
しばらく後。
梅は気持ちよさそうに息を吐いた。
身体を動かしたおかげで、先ほどまでのもやもやした気分もかなり晴れている。
「身体を動かすのって、やっぱりいいね!」
梅は一人、いい笑顔で頷いた。
その後ろでは、道場の床へ大の字になった卓也が完全に燃え尽きていた。
「いっそ……殺せ~~~……」
「何言ってるの?」
意味の分からないことを口走る弟を、梅はさっくりと無視した。
今朝から父親は、引っ越しの挨拶へ出掛けていた。なんでも近所に剣術道場があるらしく、
『これはきちんと挨拶に行かなくては!』
と、今にもスキップしそうな勢いで出掛けていった。
「この辺り、散歩でもしてこようかな」
身体を動かしたことで気分も前向きになり、梅は一度自室へ戻って着替えると、家の周辺を散歩してみることにした。
◇ ◇ ◇
特に目的もなく歩いていると、近くに小さな公園を見つけた。
入口から中を見ると、それほど大きくもない、ごく普通の公園だった。
だが、砂場で遊んでいる二人の子供に梅の目が吸い寄せられた。
一人は、長い髪をした綺麗な女の子。もう一人は梅よりも小さな男の子で、少しグレーがかった髪をしている。
男の子は楽しそうに砂で遊び、何か思いつくたびに隣の女の子へ話しかけ、そのたびに女の子が優しい笑顔を返していた。
とても仲の良い姉弟に見える。
『いいなぁ……』
梅は思わず見つめてしまった。
『うちのとは全然違う。あんな可愛い弟がいていいなぁ』
本人が聞けば全力で抗議しそうなことを考えながら、梅はいつの間にか公園の中へ入っていた。
気づけば、二人の近くまで来ている。
先に梅へ気づいたのは女の子だった。
一瞬だけ警戒するような顔をしたが、梅を見るとすぐに表情を和らげた。小柄な梅を見て、自分より年下の子供だと思ったのだろう。
「見かけない子ね。ここに来たのは初めて?」
少し年下の子へ話すような、優しい口調だった。
「う、うん。昨日引っ越してきたの。ここに来たのは初めてだよ」
綺麗な女の子から突然話しかけられ、梅は少し緊張しながら答えた。
その声で男の子も梅に気づき、女の子の服を掴むと、その後ろへ半分隠れるようにして梅を窺った。
「私は九条桜。今度、三年生になるの。あなたは?」
「えっ?」
梅は少し驚いた。
自分よりずっと大人っぽく見えたからだ。
「わ、私は鬼塚梅。私も今度三年生になるの。同じだね!」
そう言って笑う。
「え?」
今度は桜が驚く番だった。
どうやら桜も、梅を年下だと思っていたらしい。それでも、すぐに笑顔へ戻る。
「そうなのね。よろしくね、梅ちゃん」
「うん!」
「ほら、朝雄もちゃんと自己紹介しなさい」
桜は自分の後ろに隠れていた男の子を、梅の前へそっと押し出した。
朝雄は少し不安そうに梅を見る。梅が笑顔を向けると、安心したように口を開いた。
「八神朝雄です。今度、二年生になります」
そして、にこりと笑った。
「……」
その笑顔を見た瞬間、梅は胸のあたりがふわっと暖かくなるのを感じた。
だが、すぐに別の疑問が頭へ浮かび、そちらの方が上回った。
「え? 二年生?」
聞き間違えたのかと思い、思わず聞き返す。
「はい」
朝雄は笑顔のまま頷いた。
「……本当に?」
「うん」
梅は朝雄をまじまじと見る。
同級生や弟と比べても小さい自分より、さらに小さい。
「やっぱり朝雄は小さいから、二年生に見えないわよね」
桜が少しからかうように言ったが、その表情はとても優しい。
「そのうち、桜おねえちゃんより大きくなるんだもん」
朝雄は少し口を尖らせて言い返したものの、すぐに笑顔へ戻った。
そんな二人を見ていると、梅も自然と笑顔になる。
『いいなぁ……』
この二人と、もっと一緒にいたい。
『お友達になりたい』
そう思った瞬間には、もう言葉が口から出ていた。
「よかったら、お友達になってください!」
「……」
「……」
思っていた以上に大きな声が出た。
桜も朝雄も、少し驚いたように梅を見る。
「……あ」
言った本人が一番驚いた。
『失敗した!』
恥ずかしさで、一気に顔が熱くなる。
だが、桜はすぐに笑顔になった。
「こちらこそ、よろしくね! 梅ちゃん!」
その隣で、朝雄も少し恥ずかしそうに笑う。
「よ、よろしく。梅おねえちゃん」
「――っ!」
梅の顔に、満面の笑みが浮かんだ。
「うん!」
こうして梅は、新しい町へ引っ越してきた翌日に、二人の友達ができた。
◇ ◇ ◇
その後、三人は暗くなり始めるまで一緒に遊んだ。
朝雄は表情がころころと変わり、楽しい時には思い切り笑い、上手くできない時には悔しそうに頬を膨らませる。そんな朝雄を、桜はいつも優しい目で見ていた。
梅は二人と友達になれたことを、心から嬉しく思っていた。
そして、朝雄の笑顔を見るたびに、なぜか胸の奥が暖かくなる。
空が少しずつ赤くなり始めた頃、桜が立ち上がった。
「そろそろ帰りましょう。暗くなっちゃうわ」
「えー……」
朝雄が残念そうな声を出す。
「もっと遊びたいけど、帰らないと怒られるよ」
「……うん」
梅も残念だったが、仕方がない。楽しい時間は、あっという間に過ぎてしまった。
公園の入口まで来たところで、朝雄が少し不安そうな顔で梅を見た。
「梅おねえちゃん」
「なに?」
「明日も……遊んでくれる?」
その言葉を聞いた瞬間、また胸が暖かくなった。
「もちろんよ!」
梅が笑顔で答えると、朝雄もぱっと嬉しそうに笑った。
「「「また明日ね!」」」
三人は揃ってそう言った。
桜と朝雄は手をつなぎ、公園を出ていく。梅はその後ろ姿が見えなくなるまで、ぶんぶんと大きく手を振っていた。
二人が見えなくなると、少しだけ寂しくなる。
でも。
「また明日」
梅は小さく呟くと、笑顔で家へ帰っていった。
◇ ◇ ◇
「ただいまー」
「おお、梅! おかえり!」
家へ帰ると、父親が上機嫌で出迎えてくれた。
「……」
ただし、なぜか顔がボコボコだった。
「お父さん……顔どうしたの?」
「聞いてくれ、梅! 今日な、素晴らしい強敵ができたぞ!」
「……とも?」
「しかも二人だ!」
「……そ、そう。よかったね」
顔を腫らしながら満面の笑顔を浮かべる父親に、梅は若干の不気味さを感じた。
だが、自分にも嬉しい報告があることを思い出す。
「あのね、お父さん!」
「ん?」
「私も今日、友達ができたよ! 二人も!」
梅が嬉しそうに報告すると、父親も嬉しそうに笑った。
「そうか! 良かったな、梅」
大きな手で頭を撫でられる。
「うん!」
夕食の間も梅は、今日できた二人の友達について嬉しそうに父親へ話し続けた。
綺麗で大人っぽい桜ちゃん。
小さくて可愛い朝雄ちゃん。
砂場で遊んだこと。
明日も三人で遊ぶ約束をしたこと。
父親は優しい顔で話を聞いていた。
一方、向かい側では卓也が少し面白くなさそうな顔をしている。
当然ながら、当時の梅はそんな弟の微妙な心情にはまったく気づいていなかった。
◇ ◇ ◇
夕食を終え、自分の部屋へ戻った梅は、ベッドへ入ると今日できた二人の友達を思い出していた。
「桜ちゃん、綺麗だったなぁ……」
同じ年なのに、自分よりずっと大人っぽく見えた。
そして。
「朝雄ちゃん……」
名前を口にしただけで、なぜか胸が少し暖かくなる。
「……?」
理由は分からなかったが、ふと一つの疑問が浮かんだ。
「そういえば……」
桜の名字は『九条』。
朝雄の名字は『八神』。
「二人って、姉弟じゃないのかな?」
ずっと本当の姉弟だと思っていた。
だが、名字が違う。
そう気づいた時、なぜか頭へ浮かんだのは、朝雄へ向けられていた桜の優しい笑顔だった。
「……っ」
胸の奥に、ほんの少し、ちくりと痛みが走った。
「……?」
どうしてなのか、梅には分からない。
「よく分かんない……」
考えても答えは出なかった。
それより、明日も二人と遊ぶ約束をした。
そのことを考える方が、ずっと嬉しかった。
「また明日」
梅は小さく呟き、目を閉じた。
◇ ◇ ◇
梅はベッドの中で、桜と朝雄に初めて会った日のことを思い出していた。
あの頃。
『よく分かんない』
そう思っていた気持ちが何だったのか、今なら分かる。
いや、本当はもうずっと前から分かっていた。
朝雄と一緒にいると楽しい。
朝雄が笑っていると嬉しい。
朝雄に頼られると、もっと嬉しい。
そして、朝雄と桜が二人で楽しそうにしているのを見ると、少しだけ胸が痛かった。
その気持ちは時間が経つほど大きくなり、もう自分自身を誤魔化せないほどになっていた。
それでも、梅は何も言わなかった。
桜が朝雄を大切に思っていることを知っていたから。そして梅にとって桜も、朝雄と同じくらい大切な人だったから。
『私は桜ちゃんも朝雄ちゃんも、二人とも大好きなんだよ』
さっき卓也へ言った言葉は、嘘ではない。
本心だった。
だからずっと、このままでいいと思っていた。朝雄のそばに桜がいて、その隣に自分もいられれば、それだけで十分だと。
でも。
今日、朝雄が目の前から消えた。
もう二度と会えないかもしれない。
そう思った瞬間、梅の胸を襲ったのは悲しみだけではなかった。
自分の気持ちを口にしなかったことへの、どうしようもない後悔だった。
「……っ」
梅は布団を強く握りしめた。
朝雄が消える直前。
『ありがとう』
そう言ってくれた。
なのに、自分は何も返せなかった。
ありがとうも。
大好きも。
何一つ。
「……朝雄ちゃん」
今まで、一人でいる時でさえ絶対に口にしなかった言葉だった。
それを梅は初めて、声に出した。
「私、朝雄ちゃんのことが……ずっと好きだったんだ……」
言葉にした瞬間、もう抑えることができなかった。
涙が溢れ出す。
「どうしたらいいの……?」
梅は枕へ顔を埋めた。
「朝雄ちゃん……桜ちゃん……」
朝雄が好き。
桜も大好き。
どちらも、失いたくない。
だからこそ、梅にはどうすればいいのか分からなかった。
その夜、梅は声を押し殺しながら、いつまでも泣き続けていた。
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