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六話 草薙と天叢雲

 実家の道場に、いつの間にか出入りしていたのが、四角い顔の雄猫。


『俺が草薙(の姓を持つ者)なら、お前は天叢雲だ』


 勝手にそう名付け、俺はこいつを「聖剣」として扱い始めた。

 父さんの厳しい稽古で体中がアザだらけになっても、道場の片隅で四角い顔をして丸まっているこいつがいれば、不思議と頑張れた。


 そのうち、こいつは勝手に俺の部屋にまで上がり込んでくるようになった。

 俺はこいつを膝に乗せ、ブラッシングをしてやりながら、当時の色々な……今となっては死ぬほど恥ずかしい妄想設定を、すべて話して聞かせたんだ。


『いいかムラクモ。来週の試合、俺は左目の封印を解く。お前は、俺の背後で霊的なバリアを展開するんだ』


 猫は「ナァ」と低く鳴くだけだったが、俺にはそれが「御意」という誓いに聞こえた。

 だがある日、こいつはいきなり来なくなった。どこを探しても見つからず、風のように消えてしまった。

 俺の「中二病」は、そこで死んだ。


「嘘を吐くな、カケル。ワシは流行のアニメが変わるたびに設定を上書きされて忙しかったぞ。『漆黒の執行者』の時期は流石に正気を疑ったがな」

「やめろォ! 黒歴史を開示するのはやめろォ!」


「そんなことより、俺はお前に帰ってきてほしかっ……」

 喉が詰まる。天叢雲は静かに俺を見上げた。


「ワシはもう帰って来れないんだ」


「なんで?」

 猫は答えない。俺も、とっくに答えを知っていたと思う。

「神様はなんでも叶えてくれる。年に一度、全猫の中から抽選で一匹だけ」

「……ここは、『此岸』と『彼岸』の接点だ。ワシはカケルに会えて嬉しい」


 それは、科学でも五冊にわたる設定ノートでも説明のつかない、唯一の事実だった。


「……俺も、会いたかった。たとえ幻でも」


 俺は溢れそうな涙を現実主義者としての笑顔で隠した。

「……ふ。幻と思いたいなら、そう思っておけばいい」

 実体が光の粒子へと還り始める。


「……元気でな。そして佐藤さん。カケルを、頼んだぞ」

 天叢雲は最後に俺の脛に「ピシッ」と見えない尻尾を叩きつけ、完全に消失した。


「……痛い。」


 再び夕暮れのオレンジ色が戻り、いつの間にか教室のドアは開いていた。


 静寂の中で、佐藤さんは動かなかった。

 さっきまで撫でていた手のひらを、胸の前で静かに握りしめたまま。


「……佐藤さん」


 返事がない。

 俺は恐る恐る、横顔を覗き込んだ。

 彼女は泣いていた。声も出さずに、ただ涙だけが、ポロポロとこぼれていた。


「……っ、わり。見せたくないものを」

「ちがう」

 即座に、遮られた。

 佐藤さんは袖で目元を拭い、俺を真っ直ぐ見た。


「ムラクモって、草薙くんの猫だったんだね」


「……量子力学的な共――」

「草薙くん」

 静かな声だった。

 それだけで、俺の言い訳が止まった。


「会えて、よかったね」


 俺は答えられなかった。

 答える代わりに、視線を窓の外へ逃がした。

 そのとき、佐藤さんが小さく笑った気がした。

 笑ったのか、泣いたのか、俺には判別できなかった。


 夕陽が眩しかった。眩しすぎて、目が滲んだ。

 滲んだのは、夕陽のせいだ。

 乾燥した空気と、斜光による角膜への刺激が原因だ。

 絶対に、そうだ。




 翌日。担任が俺を廊下に呼び出した。

「草薙。昨日の放課後、教室に残ったか」

 俺は答えなかった。担任は眼鏡の奥で、値踏みするような目をした。


「あの席はな、草薙。三年に一度、必ず『始まる』んだ」


 担任は廊下の窓から、校庭を見下ろした。


「……あの席に座った生徒はな、必ず『選択』を迫られる」

「何の選択ですか」

「見えているものを、認めるか否かだ」


 一拍。


「あの席に座り続ける気があるか?もし無理なら――」

「いえ。俺はあの席がいいです」

 俺は担任の答えを待たず、教室へ戻っていった。


(……見えているものを認めるか、だと?)


 俺は少しだけ考えた。

 関わるのは非合理だと思ったのに、佐藤さんを見て足が動いた。

 佐藤さんは言った。「会えて、よかったね」。

 ムラクモ。お前は、俺がちゃんとやれてるか確かめに来たんだろ。

 そして過去の俺。昨日は、少しだけ楽しかったよ。

 一番恥ずかしい自分を、自分で選んだんだ。


 ふと気づく。

 まさか。

 あの無愛想で、授業を最短で終わらせる合理主義の担任が。

(……あの人も、かつて『ノート五冊分』の何かを抱えていた……!?)


 はっと、顔をあげる。

 隣の席には、朝日に照らされて、昨日よりも少し晴れやかな佐藤さんがいた。




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