跋
あの日以来、俺の高校生活の「ど真ん中」には、常に一匹の不確定要素が居座るようになった。
「……あの、草薙くん。今、机の下から……むらちゃんが、ぬっと……」
「佐藤さん。床のワックスが剥がれて、光の乱反射で動物の四肢のように見えているだけだ。」
俺は膝の上の「五キログラムの重量感」と「不快なほど心地よい温もり」を完全に無視し、古文の音読を続けた。膝の上では、かつての相棒が俺の制服で念入りに爪を研いでいる。バリバリと嫌な音が響くが、俺の脳内では「繊維の摩擦による静電気の放電音」として処理されていた。
「でも今、カーテンに噛みついてぶら下がってるよ!? 完全に宙に浮いてるよ!」
「局地的なダウンバーストで、カーテンが猫の形に膨らんだだけだ。気象学的にはよくあることだろ?」
「色が全然違うけど!?」
俺だけは断固として、教科書の一点を見つめ続けた。
「……草薙くん、そのブレなさが時々怖いよ」
佐藤さんが呆れたように、でも少し笑いながらイチゴ飴を差し出してくる。俺はそれを左手で受け取り、平然と口に放り込んだ。右手は今まさに膝の上で甘噛みされているので動かせない。
(噛むな。痛い)
時折、天叢雲は俺の顔を覗き込んで「ナァ」と短く鳴く。
「そろそろ認めろよ」とでも言いたげな、エメラルド色の瞳。
俺はその視線を受け止めて――心の中でだけ、呟いた。
(おかしいだろ。お前、こっちにはもう来れないはずだったろ)
なぜここにいるのか、俺にはわからない。
わからないが。
膝の上の温もりは、どんな数式を使っても「気のせい」と処理できなかった。
「カケル。こういうの、好きだろう?」
ふとした拍子に、渋い声が聞こえた。
見えないはずの尻尾が、満足そうにパシッと腹を叩く。
俺は教科書から目を離さないまま、独り言のように呟いた。
「……まあな」
膝の上で、温もりがゴロゴロと喉を鳴らした。
草薙駆は怪異を認めない。――ただし、猫は別だ
(完)




