四話 禁忌の王ーー暗黒龍
放課後。
夕暮れ時の教室は、オレンジ色の光と机の影が混じり合い、この世とあの世の境界線のようだった。
「……ねえ、草薙くん。この当番、終わったら一緒に帰らない?」
佐藤さんの頬が夕陽色に染まっている。黒板を拭く指先が、わずかに震えていた。
(……ククク、黄昏時、逢魔が刻。この境界線を越えて、俺と共に奈落の底まで歩もうというのか)
(――違う! これは移動手段の共有だ。精神的な契約の儀式など一ミリも含まれていない。ただの社交辞令。下校時の防犯上のリスクヘッジ。……そうだ俺は今、爽やかに『いいよ』と答えるだけの、ごく普通の男子高校生……!)
「いいよ、佐藤さん。俺もちょうど終わったところだ」
穏やかに微笑み、カバンに物理学の盾を仕舞う。
二人が教室の扉に手をかけた、その時だった。
「……あれ? 開かない」
「建付けかな。古い校舎には――」
合理的な言い訳が、途中で止まった。
扉が、壁と化している。窓も同様だ。
――静寂。
教室の空気が、ぐにゃりと歪んだ。
夕陽のオレンジが、毒々しい紫へと変色していく。
窓ガラスに、何かが映っていた。
片目を眼帯で封じ、マントをなびかせた男。
鏡面からぬるりと這い出した"過去の俺"が、床に着地し、不敵に笑った。
(……あれは、母さんに『あんた何やってんの!』と絶叫されて断念した、幻のフル装備……!)
(――幻覚だ!……だいたいマントが教室でなびくわけがない。空調は止まってるんだぞ!)
「……ククク。久しぶりだな、我が半身よ」
死にたい。
佐藤さんが俺とマント男の顔を見比べ、息を呑んだ。
「……っ?」
その震える声が、とどめを刺した。
今すぐこの眼帯野郎の喉を突いて、俺も死ぬ。
「ついに決着をつける刻が来た。偽りの平穏に身をやつした、哀れな未来の我よ」
鏡張りの無限教室。過去の俺は指先を無駄に動かしながら、独特の構えをとった。
(なんだあの構え。親指のガードが甘すぎる。突き一発で脱臼するぞ。あと物理法則を無視した演出にコストを割きすぎだ)
「奥義! 紅蓮煉獄・断罪掌!!」
大げさな溜めから、大ぶりな一撃。
踏み込んでくる重心の軌道。振りかぶった肩の角度。予備動作が全部、「ここを打ちまーす」と主張している。
右に半歩。それだけだった。
拳が、空を切る。
「隙だらけだ」
鳩尾に、正拳。腰の回転を一ミリの誤差なく拳へ。ただの質量移動。
「ガハッ――!?」
過去の俺が膝をついた。
だが次の瞬間。
教室の床が、割れた。
「ぐ……っ、認めん! 地味すぎる! 覚醒せよ、我が左目に封印されし禁忌の王――暗黒龍ッ!!」
過去の俺が眼帯を引きちぎった瞬間、教室の空間がバキバキと音を立てて拡張し、闇の中から八つの頭を持つ黒い龍が這い出してきた。
俺は、一瞬だけ目を細めた。
(……建築基準法が泣いている。質量保存の法則も死んだ。あらゆる自然科学が本日をもって終了した)
そして。
俺の口角が、わずかに上がった。
(――だが。でかい。派手だ。中二病の集大成として、これ以上ない舞台じゃないか)
もはや空手の範疇を超えている。「物理(空手)」の戦いではない。「概念(中二病)」の戦いだ。
だとしたら――
俺は背後に怯える佐藤さんへ向き直った。
「佐藤さん。今から、俺の人生で最も恥ずべき光景が展開される。……お願いだ、目をつむって耳をふさいでいてくれ」
「えっ、あ、うん……っ!」
彼女が耳をふさいだのを確認した。
俺は深く、溜息をついた。
……さらば、俺の平穏なモブ生活。
左腕を天に掲げる。全身の全細胞に働きかける。
「――来たれ、深淵を切り裂く一筋の雷」
右手に収束する、青白い光。
「真名を解放する。『アメノムラクモ』ッ!!」
顕現した黄金の聖剣を、俺は迷わず両手で構えた。
(重心バランスが悪い。めちゃくちゃ重い。だが――)
(――知ってる。俺が設計したんだから)
一番手、正面からの急降下。
「『蒼穹一閃』ッ!!(――つまり、遠心力による加速度を一点に集約した、ただの回転打撃!!)」
剣が青白い軌跡を描き、首の付け根を断ち切る。轟音。衝撃波が机を薙ぎ払った。
(なんだこの爽快感は。……いや、集中しろ。頸椎への打撃は有効だ。構造に頸部があるなら弱点は同じだ)
二番手、右側面から薙ぎ払い。
「『煉獄返し』ッ!!(これは、巨大な質量の完全弾性衝突の擬似的な再現!!)」
薙ぎ払いの軌道に乗るように横へ跳び、首の慣性を利用して三番手へ叩きつける。首同士が激突した。
(二本同時に潰せた。残り六本。……このコンボ、中学二年の夏に考えた連携技だ。まさか実戦で使う日が来るとは)
四番手、真上からの垂直落下。
「『断罪の楯』ッ!!(ただのベクトルの分解だ!!)」
聖剣を盾に転じ、落下のエネルギーを真横へ流す。首が床を滑り、壁へ激突した。」
(受け身の原理だ。力は殺すより流す方が効率がいい)




