三話 黄泉の這い跡、あるいは
五時限目、古文。
昼食後の眠気と、呪文のような助動詞の活用が教室を満たしていた。
だが、俺の席だけは違った。
机の「下」で起きている事象を網膜の端で捉えながら、俺は必死に教科書の一点を見つめていた。
古語の響きは、古の契約を呼び覚ます呪詛。この老教師、前世では高位の魔導師だったのだろう。封印された暗黒の――
(――ただの活用だ! 集中しろ草薙駆!)
だが自分を律するたびに、視界の隅で「異常」が深度を増していく。
(気のせいだ。購買の焼きそばパンの油が眼球表面でプリズム現象を起こしているだけだ。あるいは低血糖による一過性の視覚障害。医学的にはよくあることだ)
認めるわけにはいかない。
俺の足元で、どす黒くモゾモゾとした影のような何かが床から這い出し、ローファーに絡みつこうとうごめいていることなど。
時折、その輪郭が四本足の形に近づく。だがすぐに崩れ、また黒い霧へと戻っていく。まるで、何かが足りないように。
大地より這い出る眷属。『黄泉の這い跡』か――
(――違―う! 床板から染み出した防腐剤が湿気で膨張して動いているだけ! 熱力学的な揺らぎだ!)
冷や汗が背中を伝う。隣の佐藤さんは睡魔と戦いながら、カクカクと首を揺らしていた。
(そうだ。佐藤さんが気づかなければ、これは俺の脳が見せる幻覚。すなわち非実在だ)
だが運命は非情だった。
影がスルスルと、佐藤さんの席へ伸びていった。
まるで、俺以外の誰かに助けを求めるように。
「……んぅ? なんか足元がくすぐったい……?」
佐藤さんが眠そうに足元へ目を落とした。
「………………」
時が止まった。
「ヒッ、……ひゃあああああああああっ!!!」
教室中に絶叫が響いた。古文教師のチョークが虚空を舞う。
「な、なんだ佐藤!」
「先生! 草薙くんの足元! 黒いドロドロしたのが、動いてます!!」
周囲が恐る恐る覗き込み、顔を真っ青にした。
「うわっ、マジだ!」
「影が……動いてる……?」
「……何を言っているんだ、みんな」
俺は教科書から目を離さず、心臓が口から飛び出しそうなのを必死に抑えながら、この上なくクールに告げた。
「床の防腐剤が少し変色しているだけだろ」
「な……!? 草薙くん、目ぇ腐ってるの!? 動いてるじゃん!!」
「光の屈折だ」
一刀両断。
「君、疲れてるんだよ」
「いやぁ! こっちくるぅぅぅ!!」
佐藤さんがパニックでペンケースをなぎ払った。ガシャーン。散らばった消しゴムが、黒い蠢く何かの中へ没していく。
「……やれやれ」
俺は溜息をついて、手を差し入れた。
(なんで俺がこの『防腐剤(仮)』に手を突っ込まなきゃならないんだ)
震える右手を、黒い蠢動の中へ。
ふにゃり。
生ぬるい感触が、指先を包んだ。
(俺の体温が伝導しただけだ。意思なんてない)
その時。
俺の指先に、小さく、確かな感触があった。
爪。
四本の、小さな爪。
(――っ)
バリっ。
「――ッ痛てェェェェェ!!!」
鋭い衝撃が右手に走った。
顕現せし蒼穹の捕食者、ついに牙を――
「う、うわああっ!?」
なんとか平凡な悲鳴にすり替えた。間一髪だった。
「草薙くん!?」
右手を引き抜いた。
手の甲から手首にかけて、三本の平行な引っかき傷。そこからじわりと、血が滲む。
(ささくれにしては……この、三本の平行な線は)
その瞬間、床の黒い何かが激しく波打ち、「ゴボボッ」という音と共に佐藤さんのペンケースを吐き出した。
「……ほら。言っただろう」
俺は痛みを隠して笑い、滲む血を左手で覆った。
「床の下に古い鋭利な……そう、罠でも隠されていたんだろう。ペンケースが引っかかって、俺が引き抜いたから反動で飛び出した。完璧な物理法則の連鎖だ」
「……」
佐藤さんは一言も聞いていなかった。
泣きそうな顔で、俺の腕を掴む。
「行くよ。保健室」
「えっ、いや、これは単なる凝固作用の観察に最適な――」
「うるさい。黙ってて」
一拍。
「私が、付き添うから」
彼女は俺のリアリストとしての誇りを粉砕する勢いで、廊下へ引っ張り出した。
床で蠢いていた何かが、満足したように静かに木目の奥へ消えていった。
廊下を歩く佐藤さんの背中。強く掴まれた腕から、柔らかい体温がダイレクトに伝わってくる。息が詰まる。
(これは前世において『断罪の聖心』の二つ名を持つ俺と、彼女の魂が共鳴を開始した――『運命の強制介入』に違いない)
「……違う! 有酸素運動の結果だろ!」
どんな数式を用いても。
腕に残る彼女の温もりだけは、「単なる熱伝導」という言葉では片付けられなかった。
保健室は、消毒液と午後の陽だまりが混じり合った、奇妙に落ち着く空間だった。
「……あーあ。結構深くいっちゃってるわね」
若い保健の先生が、のんきな声を上げた。
「大丈夫だよ草薙くん、私ついてるから。先生、これって学校にある罠のせいですよね?」
佐藤さんが俺の袖をぎゅっと掴んだまま、先生を見上げる。
「罠? うふふ、そんな物騒なものないわよ」
先生はガーゼを固定しながら、悪戯っぽく目を細めた。
「あの席ね。昔から、ちょっといたずら好きな『何か』が棲み着いてるの。……寂しがり屋の妖怪さんか何かじゃないかしら」
(妖怪……? この教師、まさか現世と常世の境界を守護する『語り部』か。あるいは俺の深淵に触れ、概念を置き換えて自己防衛しているのか)
「……先生。冗談はやめてください。床のササクレに引っかかっただけです」
「待って、さっきは『罠』って言ってなかった?」
「ササクレで三本並んだ綺麗な爪跡がねぇ?」
先生がクスクスと笑う。
「現実に起きていることは、理屈じゃなくて心で受け入れなさいな。その方が、高校生活は楽しくなるわよ?」
「……行こう、佐藤さん。次の授業が」
「あ、待ってよ」
保健室の出口で、佐藤さんが俺の手のひらに小さな包みを握らせた。
イチゴ味の飴だった。
「糖分を摂ると脳の疲れが取れるんだって。……『ササクレ』と戦うのも大変だろうから」
少し照れくさそうに笑う。
「ペンケース、取り戻してくれてありがとね」
俺は飴を口に放り込んだ。
この甘酸っぱさは、唾液による分解作用のせいだ。
絶対にそうだ。
そうに決まっている。




