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二話 存在確率ゼロの恐怖

 放たれようとした言葉が、肺の奥で霧散する。


(……バレている)


 隠蔽していたはずの黒歴史が、今まさにクラスの共有サーバーにアップロードされていた。

 佐藤さんも友人たちと一緒に笑っている。


(北辰の……なんだ。北辰の破邪竜か、執行者か。やめろ、思い出すな。この場で誰かが口にしたら俺の存在が物理的に消滅する)


 俺の平穏な日常は、入学当日に致命的なエラーを吐いて強制終了した。


 そのとき。

 彼女が友人たちの輪から、一歩踏み出した。


「まあ、中学の頃のことは置いといて」


 一拍。


「お互い、今更蒸し返されたくない『歴史』のひとつやふたつ、あるでしょ?」

 その言葉には、どこか切実な響きがあった。


「それよりさ、部活どうするの? 新入生歓迎会もうすぐだよ!」


 明らかに不自然な話題転換。

 それが俺をこれ以上暴かせないための防護壁だと気づいた瞬間、心臓が激しく動悸を刻んだ。顔が熱い。『現代物理学の基礎』の文字が歪んで読めなくなる。


「……このページ、重力定数の計算が甘いな」

 つい口をついて出た独り言に、戻ってきた佐藤さんが反応した。

「……草薙くん、やっぱり体調悪いんじゃない?」


 彼女の瞳に宿るものは、恋心ではなかった。

 本気の心配と、微かな哀れみ。


 夕陽がコンクリートを長く、どす黒く染めていた。

 校舎の端、生徒用の自転車置き場。波打つポリカーボネートの屋根が夕風にガタガタと鳴っている。帰宅する生徒たちの、日常的な喧騒。


 その端っこの、壁際の薄暗い片隅だけが違った。

 肩を震わせる佐藤さん。それを壁際に追い詰める影。

 彼女は俯いたまま、唇を一度だけ噛んだ。

 それだけだった。言い返さない。叫ばない。ただ小さく、肩を縮める。

 まるで、慣れているみたいに。


「おいおい、佐藤。中学の時よりずいぶんマシなツラになったな。俺に振られたのがそんなにショックでダイエットしたのかよ?」

「……やめてよ。そんなんじゃないから」


 整然と並ぶ自転車の列。談笑しながら校門へ向かう生徒たちの背中は、遠い。

 俺は葛藤していた。

 助けに行きたい。だが動けば、隠蔽してきた黒歴史が完全に露呈する。


「いけよ。お前の見せ場だぜ?」


 渋い声が聞こえた。振り返るが、誰もいない。


(幻聴なんて聞こえない。そもそもここで動くメリットはない)

 一秒。

(……だが)


「……クク、運命の歯車が狂い始めたようだな」


 かつての俺ならそう高笑いしながら登場しただろう。

 今の俺は静かに一歩を踏み出した。


「……おい。そこ、通行の邪魔だぞ」


 無意識に喉を絞る。ドスの効いた声が漏れた。


「あ? なんだお前……えっ、草薙!?」


 男たちの顔から、ニヤけ面がスッと消えた。

 無理もない。顎を引き、眼輪筋を収縮させて視界を絞る。生物学的に言えば「今からお前の頸動脈を断ち切るぞ」という明確な殺意の表明だ。


(違うんだ佐藤さん。目つきが悪いのは生まれつきで、暗殺者のロールプレイを再開したわけじゃないんだ)


「……どけ。三秒だ。それを過ぎれば、お前たちの存在確率はゼロになる」


 言っちゃったぁあああ!


 なんだよ「存在確率ゼロ」って!シュレディンガーの猫か!物理学を中二病のフレーバーテキストに使うのは俺の禁忌だったはずだろ!


「やる気か、てめえ」


 一人が俺の襟に掴みかかる。俺は動かない。


「ば、ばか、よせ! そいつ……北辰の暗黒龍だ!!」


 一人が逃げ出した。釣られて、蜘蛛の子を散らすように全員が消えた。

 ……あれ?

 威圧感だけで、解決した?


「……ふっ。賢明な判断だ」


 止まらない……。一度漏れた中二病の毒素は、長年蓄積された膿のように言葉に付着してくる。

 俺は震える手で、左目に触れた。


「……あの、草薙くん」


 佐藤さんが、潤んだ瞳で俺を見上げていた。


「助けてくれて、ありがとう」


 やばい。

 この距離。この瞳。かつての俺ならここで『礼なら、その魂で支払ってもらおうか』とか抜かしていた。


(ダメだ。恥ずかしさで脳細胞が死滅する)


 視線と沈黙が降りかかる。


「……ねえ」

 小さな声だった。

「草薙くんって、さ。……中学の時、『北辰の暗黒龍』、だったんだよね」

 心臓が止まりかけた。

「……さっきの人たちも、知ってた。だから、逃げたんだよね」


(違う。あれは俺の目つきが――物理的な威圧感を与えた結果で――)


「ねえ、それって」

 一拍。

「中学の時も、誰かのこと、助けてたの?」


 俺は答えられなかった。

 当時の俺は、何かと理由を付けては空手の技を披露していた。

 下校路の公園。

 三人の男子の前に立ち、左目を押さえ、呪文めいた何かを口走ったあの日。


 助けた相手が誰だったかより、「北辰の暗黒龍として相応しい介入だ」と本気で思っていたことの方が、今となっては死ぬほど恥ずかしい。


(あの頃の俺は、設定のために動いていた。今日の俺は――)


 今日の俺は、何のために動いたのか。


「気にするな。……ただここを、通りたかっただけだから」


 踵を返す。足音を立てない重心移動。完璧だ。


「通りたかったのに、そっちに行くんだ……」


 しまった。方向性から誤った。

 夕陽が長い影を作っていた。


 その時だった。

 佐藤さんが、小さく息を吸う音が聞こえた。

 俺には見えなかったが、振り返った時には、もうその顔に迷いがなかった。


「待って草薙くん! もしかして強いの?」


 さっきまで怯えていた顔と、同じ人間とは思えなかった。


「……量子力学的な観点から言うと、観測者がいなくなった瞬間に事象は収束する。つまりあいつらは最初から存在しなかったのと同義で――」

「あはは! 草薙くんって本当に難しいこと言うんだね!」


 笑われた。

 また心拍が上がる。


(……吊り橋効果だ。化学反応だ。セロトニンとアドレナリンの複合的な――)


「……帰ろう、佐藤さん。あいつらが戻る前に」

「うん! 帰ろ、草薙くん!」

 夕闇が迫る帰り道。


 俺の「努力型の普通」という皮が、今日一日で、音を立てて剥がれ落ちていった。




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