一話 冥界の法則は成り立たない
「うっそー、ど真ん中!」
鈴みたいな声。隣に座ったのは、さっき俺の心臓を暴走させた女子だった。
(マジか……)
ど真ん中。ヒロイン隣。最悪の配置だ。
……これはもしや、旧世界の魔導王が俺に仕掛けた、罠ではないか?
「よろしくね、草薙くん!」
名前を呼ばれ、笑顔を向けられる。その微笑みが、俺の心臓の防壁をぶち抜いた。
「よろしく。……佐藤さん」
心拍上昇。呼吸浅い。手汗あり。
試合前か?
(これはもはや確率や計略で片付く話じゃない。因果だ。特異点だ――)
「なんか顔色悪いけど、大丈夫?」
ハッと我に返る。
(いけない。動揺のあまり暗黒次元に落ちかけた)
「……オッス、問題ない」
暗黒構文を封印した俺の語彙力よ……。
佐藤さんは首を傾げた。その仕草で、ふわりと石鹸の香りが揺れる。
彼女はすぐに周囲へ笑顔を広げていく。そこだけ空気が柔らかい。
俺の中に残る中二病の残滓が、彼女のあまりの眩しさに浄化されようとしていた。
無意識に、足が半歩だけ引かれる。
(落ち着け。運命なんてない。ただの化学反応だ)
だが、俺はまだ気づいていなかった。
俺の足元、ちょうど彼女の席との境界線あたりの床が、陽炎のようにゆらりと歪んだことに。
その時だ。
机の上、教科書の下からペラリと一枚のプリントが顔を出した。
さっき配られた「学園生活のしおり」。
(風か? いや、窓は閉まっている)
プリントが、不自然に波打った。
まるで、呼吸を始めたかのように。
次の瞬間、それは俺の指先をすり抜け、床へと滑り落ちた。
「捕えろ暗黒龍!血塗られし魂の契約書を!」
かつての俺ならそう叫んでいた。
今の俺は違う。
無言。
最短距離。
腰を浮かせて重心を落とし、音もなく床へ沈み込む。
……つまり、ただしゃがんで手を伸ばした。
指が触れる、その直前。
プリントの端が、何かに咥えられたように持ち上がった。
カササッ。
横へ滑った。
(……逃げた?)
意志を持つ紙切れ。転移の魔陣。これこそが封印された左目に呼応する怪異の――
(やめろ!俺)
「えっ、動いた!? 今プリント動いたよね!?」
佐藤さんが椅子を引き、目を丸くしている。
「風だよ。バークラフト現象。流体力学的には極めて退屈な事象だ」
俺はにっこり笑った。モブの笑顔で。
「でも指を避けるみたいに……」
その間にも、プリントはするりと佐藤さんの足元へ。
「ひえええっ!? こっち来たよ!?」
(……俺の魔素を嗅ぎ取っている!そして佐藤さんという聖域に引き寄せられ――)
(――ちがう!!ポリエステルとウール混紡の摩擦による局所的電位差だ。全てはクーロンの法則に従っているだけ)
つまり!
「静電気だな」
その時。プリントの表面を、見えない何かが短く引っ掻いた。
ピン、と立った。
「縦になったよ!? 机の上に縦に立ったよ!?」
(……第一形態、解除)
(――じゃない!……そう、地学と物理の複合的な不具合だ。呪いではない!)
「春の強烈な磁気静電気が、プリントを垂直ベクトルで固定したんだ」
「絶対ないよ!!! そんなこと一生に一度もないよ!!!」
(……知ってる)
(俺も、知ってるんだ佐藤さん)
俺は椅子の背を踏み、体を浮かせた。視線と手を一直線に。
「失礼!」
佐藤さんの肩をかすめ、指二本で空中の逃走犯を挟み込む。
止まった。
「いや絶対おかしいって!」
「……よくある自然現象だよ」
「今の取り方もおかしくない!?」
半泣きの佐藤さんと、額に汗を浮かべる俺。
だが俺は、静かに確信していた。
……勝った。
目の前で物理法則が死体蹴りされていようが、怪異がダンスを踊っていようが関係ない。俺が口にしたのは、あくまで教科書に載っている善良な科学だ。中学二年の俺が宇宙の真理と崇めた『冥界の法則』じゃない。
「科学の勝利だ」
「何が!? 言ってることめちゃくちゃだよ!?」
そんな俺たちを、教卓から冷ややかな目で見ている男がいた。
担任教師は眼鏡の奥で憐れみの光を宿し、小さく息をついた。
(……やはり、今年も始まったか)
教卓の上のチョークが、一本だけ消えていた。
代わりに、白い粉が床に点々と続いている。小さな足跡のように。
一年三組のど真ん中。数年ごとに特異点となる場所。そこに座った生徒は、卒業する頃には精神を病むか、あるいは――。
「おい、そこ。プリント一枚で騒ぐな」
一拍。
「……まあ、その席なら仕方ないがな」
その呟きは、「春の磁気静電気説」を必死に唱え続ける俺の耳には、届かなかった。
キーンコーン、カーンコーン。
ホームルーム終了のチャイムが、処刑の合図のように響いた。
俺は『超図解:現代物理学の基礎』――一般人を装うための盾――を開き、平静を装った。だが指先がわずかに震えている。廊下では佐藤さんの友人たちが、教室のど真ん中の俺をガン見していた。
「ねえこころ!隣の席、当たりじゃない?」
「ダイエット頑張って本当に良かったね!何あのイケメン」
(ダイエット?)
かつての俺なら「魂を削って美しき器を錬成したか」と嘯いていただろう。今の俺にはわかる。脂肪燃焼のメカニズムは、いつだって冷徹な数式の上に成り立っている。
佐藤さんの横顔が視界に入った。
彼女は自分のお腹周りを隠すように、制服の裾をそっと引いた。
「もー、大きな声で言わないでよ……恥ずかしいんだから」
俺の両手が、机の上で硬く握られた。
(彼女に死ぬ気でダイエットさせるほど、薄汚い言葉で汚した奴がいるのか)
伝えなければならない。今の彼女が、どれほどの価値を持つのか。熱い言葉が喉の奥までせり上がる。唇が戦慄き、酸素を吸い込んだ、その瞬間。
「でもさー、あの草薙って中学の時やばかったんでしょ? 『北辰のなんちゃら』とか自称してたって……」
「しっ! 聞こえるってば!」
氷水をぶっかけられたように、全身の血が引いた。




