序
「さらば、深淵を覗きすぎた過去の自分」
洗面台の鏡に告げ、俺はワックスで前髪をかき上げた。
額が出るだけで、こうも「一般人」のオーラが出せるとは。
中学までの俺は、左目の暗黒龍と会話していた。そんな三年かけて練り上げた設定は、墓場まで持っていく。
――リハビリは完遂した。
今の俺は現実主義者。"努力型の普通"として生きると決めている。背筋を伸ばし、重心を整える。準備は万全だ。
新しい教室に入り、さりげなく周囲を観察する。首の角度は十五度。距離は取りすぎず、近づきすぎず。背後は壁。死角なし。
――これが「モブ男子A」の最適解だ。
そのとき。
視線が、ひとつの点で止まった。
窓辺。春の光の中にいる女子。少しふっくらとした頬は柔らかそうで、緊張のせいかほんのり桜色に染まっている。派手さはない。なのに、そこだけ空気がやわらかい。
ふいに目が合う。
「あ……」
彼女は慌てて視線を逸らした。揺れた髪と、小さくすくめた肩。
(かわいい……ッ!!)
心臓がかつてないほどに跳ねた。これがいわゆる運命の出会……。
(違う!花粉だ。アレルギー反応だ)
(あるいはバイオフォトン。脳内ドーパミンの暴走だ)
科学的に否定しようとした、そのとき。
「よし、席替えするぞー」
運命の抽選会が始まった。ここで一学期の防衛拠点が決まる。
最後列。死角のある位置。壁を背に、全方位を観察できる場所。
左目が疼いても、誰の視界にも入らない。
(……っ、疼かねぇ!今の俺の左目に宿っているのは一.二の視力だけ!!)
(頼む……!)
だが現実は、祈りを踏み潰してつき進む。
「え……」
三度見した。
教室のど真ん中。死角ゼロ。逃げ場なし。
(終わった……俺の平穏な高校生活が……)




