獲物の骨を集める犬1
高級住宅街から遠ざかり、ネオン煌めく猥雑な繁華街の目抜き通りを一本折れて、迷路のように入り組んだ路地に踏みこめば、そこは別世界だ。空気の色すら違う。
俺は隠れ家に向かう道すがら、銅色の闇にぼんやりと視線を彷徨わせていた。
建物と建物の峡谷。渡されたトタン板のかけ橋の下で、雨水排水のために張り巡らされた金属パイプとゴムチューブが蔓草のように絡み合う。暗渠の上を歩くと、ぎしぎしと金属板が軋む。
暗がりの奥からこちらを窺ういくつもの目玉が、夜走獣のそれのように光っている。裏社会で食いっぱぐれたゴロツキたちが、獲物を物色しているのだ。
ここへ来たばかりの頃は、俺もからまれたことがある。さもしい連中だ。しかし、奴らには学習能力がある。一度痛い目を見れば、同じ轍は踏まない。
今では、俺だとわかればぎらついた目玉は石鹸水で曇った鏡のように鈍くなり、殺気は霧散するようになった。
饐えた臭いが充満する隘路には、虫やネズミがいくらでも湧いて出る。俺は邪魔をされなければ、そちらに意識を向けることはない。ネズミが我が物顔で、俺の隣をすり抜けて行っても、一瞥もくれない。
俺は既に、熟達した狩人だ。あんなちっぽけな獲物は狙わない。
俺の隠れ家は、アウトローがとぐろを巻く、危険で不潔な界隈にある。灰色の四角い小屋だ。窓は一つも無い。シロッコファンがひとつあるが、とても小さく、十分に換気の役割を果たせていない。よって、夏はたぎるように暑く、冬は凍えるように寒い。劣悪な環境だが、快適である必要はこれっぽっちもない。
唯一の出口である扉を閉ざす、六つの施錠を解錠し、閂を引きぬく。扉の上部にはり付けたテープの状態を確認する。俺以外の誰かが出入りした形跡はない。
扉を開けると、蒸した空気にのって、汗と血と汚物の混じり合った異臭が鼻を突く。俺は息を詰めた。
夏場は特に酷い。換気扇の勤勉な稼働は、残念ながら、あまり意味を為さない。俺は扉を閉めると、長靴に履きかえた。レインコートを身にまとい、マスクとゴーグル、ゴム手袋を装着する。準備をしている最中も、汗が噴き出るが、衣服を汚さない為には必要な装備である。
どこかでゆっくりと水が滴っている。傷口から血が滴る様な水音だ。「まだ生きている」ことではなく「もう死にかけている」ことを暗喩する暗い兆し。
足元に纏わりつく冷え冷えとしたものは、死なのかもしれなかった。この狭い部屋には、いくつもの死が横たわっている。
俺の気配を察した獲物が、恐慌をきたして、身じろぎ呻いた。
俺は暗所での生活が長かったので、夜目が利く。だが、流石にここは暗過ぎる。大まかな輪郭は見えるが、細部は見えない。これから行う作業の為に、灯りをつける。裸電球がチカチカと点滅し、狭い部屋を照らし出した。
正方形のシンプルな部屋の中央にそそり立つ太い鉄の柱に、鎖で雁字搦めに拘束されているのは、けばけばしいメイクと露出の多いファッション、蓮っ葉な物言いが特徴的な若い女だった。
頭の悪さに付け込んだ不純な男どもに群がられ、自分は魅力的だと勘違いしていた。女の行きつけのクラブに出向き、女を見つめていると、女はすぐに俺に秋波を送って来た。誘えばほいほいついてきた。拉致するのは簡単だった。
俺は女を昏倒させると、猿ぐつわを嵌めて、手足の関節をずらした。空気穴を開けたずた袋を頭に被せて、顔を覆い隠した。
手足の関節をずらしたのは逃亡と抵抗を防ぐ為で、猿ぐつわと覆面は、俺の楽しみに水を差されない為の処置だ。
俺の獲物は、基本的には男である。ミケイラに害をなすのは、大方、男だからだ。
女は久しぶりだ。ミケイラとは比べ物にはならないが、一応は、同じ性別の女だ。俺は少しばかり、浮ついていた。
女の足元には胴色の影が蟠っている。血だまりの色をした水面は、俺が近づくと、怯える様にさわさわと騒いだ。
発作を起こしたようにのたうつ女の前に、俺は立つ。女の後方の、素晴らしい光景に視線を向ける。
俺の美しいミケイラの写真が、壁一面を埋め尽くしている。大半は窓から、時には物影から、俺が撮影したものだ。おはようからおやすみまで、俺はミケイラを見守っている。ミケイラだけにレンズを向け、ミケイラだけをファインダーから凝視し、ミケイラだけの為にシャッターを切っている。
愛しいミケイラのありとあらゆる姿は瞼の裏に焼き付いているが、こうして、写真として残しておくのも良いものだ。ミケイラはどの瞬間を切り取っても美しく、愛らしい。そして、目を開けていてもこうして、ミケイラを見ることが出来る。実に良いものだ。
俺は想像力をフルに働かせて、目の前の女にミケイラを投影する。いくら顔を隠していても、ミケイラと比較すればムシケラのような女だ。作業は困難を極めたが、時間をかければ、なんとかうまくいった。俺の想像は加速していく。
世界で一番美しいミケイラ。気高い孤高の女神。高慢で残酷な支配者。俺を地獄の肥溜めから救い上げ、天国に連れて行ってくれた。俺は彼女の魅力にあてられ、くらくらと酩酊し、幸せの絶頂に達したところで、気まぐれに突き放され、地獄に落とされた。
愛しい。愛しい、愛しい、愛しい、ミケイラ。でも憎らしい。俺はこんなにも愛しているのに、俺を捨てた。ミケイラが憎い。俺を愛さずに、他のクズみたいな男を愛するミケイラが憎くて、憎くて、堪らない。胸が焼け焦げるほど憎い。
俺はとうとうミケイラを捕らえた。ミケイラを俺だけのものにした。ミケイラはもう逃げられない。あの誇り高い小さなミストレスが、俺の手の中で小鳥のように震えている。俺の上に君臨していたミストレスが、俺の支配下にある。倒錯した悦びが俺の箍を外していった。
俺は欲情してかたくなっていた。尤も、あまりに強く惹かれているので、ミケイラの姿を一目見れば猛烈に興奮してしまうのだが。
俺はミケイラの頬にそっと触れる。ミケイラの体が電流を流されたみたいに跳ねた。不用意な動きによって、ずれた関節が痛んだのだろう、悲痛なうめき声を上げる。
俺はミケイラの痛みに心を痛めると同時に、どうしようもなく高ぶった。
ミケイラの矮躯を抱き締め、湿った頬に頬ずりをする。ミケイラの素晴らしい唇から漏れだす引き攣れた吐息はなまめかしく、俺をさらに興奮させる。
俺は陶然として、ミケイラにキスの雨を浴びせかける。そうしながら、優しく語りかけた。
「ねぇ、知っている? 恋はね、月のない夜に、船で漕ぎだすようなものなんだって。危険な船出だよ。懸命なら止めておくべきなんだ。だって、こじらせたら俺みたいになってしまう。あなたに会えず、夜も眠れずにあなたに焦がれ、この胸には火花がはしり、心臓は炎に包まれる。でも、俺は嬉しいよ。あなたがくれるなら、なんだって良い。この孤独も絶望も、あなたがくれた」
ミケイラの震えが大きくなる。俺の言葉が彼女に作用していると実感出来て、俺は暖かい幸福な気持ちに包まれた。
ああ、ミケイラ。悔いてくれる? 俺を捨てたことを。俺を愛さなかったことを。俺ではない男を愛したことを。悔い改めてくれる?
俺はミケイラを慰めるように、彼女の唇をぺろりと舐める。それだけでは飽き足らず、上唇と下唇を、繰り返し何度も啄ばんだ。猿ぐつわが邪魔をしなければ、深く口づけたかった。
「ねぇ、プレゼントがあるんだよ」




