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私は性悪ミストレス  作者: 銀ねも
犬の章
38/44

ノライヌ3

 犬の声は上ずっている。怯えているのは火を見るより明らかだ。後ろ足に尻尾を挟みながらも、勇気を振り絞って俺にたて付いている。


 傍目から見ると、俺は冷静に見えただろう。俺の表情は心としばしば離反する。俺の腸は、煮えくりかえっていた。


 他人が知ったような口を利くのは、我慢ならない。ミケイラのことを理解出来るのは、この世界で俺だけだ。


 しかし、俺の腸は怒りを凌駕する激しい感情で凍えていた。俺の唇から、研ぎ澄まされた氷刃のような声が滑り出る。


「ミケイラと寝たのか?」


 俺は犬だった。だからだろう、勘が良い。俺は鈍い頭より、研ぎ澄まされた勘を信用している。

 その勘が告げていた。この雄犬がミケイラに入れ込むようになったのは、許されざる一線を超えたからだと。


 俺は咽頭に渇きを覚えた。胸騒ぎが実態を伴い始める。犬は声を裏返らせて、俺の猜疑心を否定した。


「そんな、まさか! 君と最初に交わした約束は、ちゃんと覚えているよ! ミケイラとは決して、男女の仲にはならない。そうだろう? 彼女のことは好きだけど、男女の愛とは違うんだ。そんなんじゃない。ただ……こんなことを言ったら、彼女は怒るだろうけれど……彼女、なんだか、かわいそうなんだ。強がっているけど、本当は弱い女の子なんだろうなって思う。……僕は友人として、君と彼女を心配しているだけだ!」


 俺は犬の言葉を聞いていなかった。俺が聞いていたのは、声調、息遣い、沈黙。それらのもつ意味を探っていた。入手したばかりの内容の乏しい情報を頭の中で撹拌して真実を抽出する。


 やがて、俺は結論を出した。犬は俺に嘘をついている。犬はミケイラの恋人になったのだ。

 俺は言った。早いピッチで、殆ど苛烈と言っていい口調だった。


「体を重ねて、情がうつったってわけか」


 犬は絶句した。


「スノー……ちが、僕は……」


 犬の言葉には何の意味もない。俺には、この男の葛藤や屈託に一切の関心がない。俺が知りたいのは、事実だけだ。この雄犬がミケイラと肉体関係をもったのか否か。そして、もう答えは出ている。


 俺は犬の苦しい言い訳を遮って、言った。


「だとしても、計画に変更はない」


 平然と言ったつもりが、喉をついて出たのは乾いた嗄れ声だった。だが、俺は取り繕う必要性をまるで感じなかった。


 このことで、犬の中に俺への恐怖心と不信感が芽生えたとしても、構わない。どうせ、この犬の正義感や倫理観といった美徳は、金の力に抗えないのだ。


 ミケイラ以外の全ての事象に無関心な俺は、他人の心の機微にはとんと疎い。だが、この犬が生き別れの妹とやらに執着していることは、わかる。

 犬は厄介な病を患った妹の、膨大な治療費を工面しようと奔走している。その為に、堅実に生きてきたこれまでのキャリアを、いや、それどころか人生そのものを棒に振る覚悟で、無茶をして荒稼ぎしていた。危うく死にかけたところ、偶然、俺と出くわした。


 二人の出会いは運命的だった。俺も犬も、ちょうど良いタイミングで、互いを必要としていた。


 犬が静かに沈黙を破った。


「君は、ミケイラを恨んでいるのか?」


 俺は小さく含み笑った。恨んでなんかいるものか。俺は世界中の誰よりも、彼女自身よりも、ミケイラを愛している。彼女を手に入れる為なら、どんな苦しみも乗り越えられる。


 性懲りもなく、俺以外の男をまた愛したミケイラを、俺はまた許すのだ。ミケイラが何度間違いを繰り返しても、俺は彼女を愛し続ける。純一無雑の愛の結晶だ。恨みなんて不純物が混入する余地はない。そうだろう?


 俺はノーと答えた。短い別れの言葉を一言添えて、通話を切る。そろそろ、限界だった。


 通話が切れた携帯電話を、ベッドの上に放る。きつく握った拳で、マットレスを乱打した。そんなことでは、もちろん腹の虫がおさまらない。俺は、目につくものを、手当たり次第に破壊していった。


 殺風景な部屋は、あっという間に残骸に埋め尽くされる。これ以上の破壊行動はいけない。ここを追い出されたら、ミケイラの傍にいられなくなる。


 落ちつけ。落ちつけ。落ち着くんだ、俺。予行練習だと思え。

 

 俺はこれから、罰を受けなければならない。俺のミケイラはこれから、ゴミ屑のような男たちに蹂躙される。あの連中に比べれば、犬の方が、幾分かマシな相手だろう。

 

 今からこのザマでどうする。来るべき本番に正体をなくして、乱入するつもりか? そんなことになったら、俺の目論みは水の泡だ。


 俺は自分自身を宥めようとした。しかし、逆効果だった。


 金で雇ったクズに、ミケイラを輪姦させる。それが俺の考えた、ミケイラの幸せな世界を破壊する手段だ。俺は彼女を地獄に叩き落とし、俺が彼女を救いあげる。


 クズに触れられることは、ミケイラにとって、不幸だ。しかしそんな不幸は、俺の胸いっぱいの愛で消し去ってやれる。


 しかし、あの犬との触れあいは違う。


 奴はミケイラに恋愛感情はないと豪語していた。しかし、ミケイラの方がどうだ? 実父に傷つけられたミケイラが、男に体を許した。ミケイラが、愛してもいない男に安々と体を許すなんてことは、あり得ない。


 俺は激怒していた。


 迂闊だった。俺は楽観的過ぎた。油断していた。

 俺があの犬をミケイラへ差し向けたのは、俺と体格が似ていて、瞳の色が同じだったから。それだけが理由ではない。

 

 あの犬は妹だけを愛している。妹の為なら、他の物事は犠牲に出来る。躊躇いや葛藤はあるかもしれないが、結果的には切り捨てられる。


 犬には妹への執着しかない。欲望をもたない。俺がミケイラの為に殺して来た男どもとは違う。ミケイラの溢れる魔性の魅力に、あの犬ならば抗える。男の方から襲いかからない限り、肉体関係が結ばれることはない。


 俺はそう、高をくくっていた。


 なぜ、もっと慎重にならなかったのだろう。熟考すれば、その危険性に気付けた筈だ。俺はミケイラのことを誰よりも理解しているのだから。


 そう。俺はミケイラを愛している。世界中の誰よりも愛している。俺以外の奴に、ミケイラに愛される資格はない。愛されてはいけない。間違っている。

 

 ああ、殺したい。あの犬畜生を殺して、無かったことにしたい。


 いや、それはダメだ。あの犬には利用価値がある。申し分ない手駒だ。まだ、捨てられない。


 ……こう考えるんだ。あの男はスノーウィとして死ぬ。あの男はスノーウィなのだ。ミケイラを抱いたのはスノーウィだ。

 そう言い聞かせると、少しずつ心が落ちついた。


 そうだ。あの男はスノーウィだ。俺の計画通りにことが運べば、ミケイラはあの男をスノーウィだと思いこむ。今現在、あの犬が不当に得たミケイラの愛情は、スノーウィのものになる。


 ミケイラはスノーウィを愛していたと思いこむ。ミケイラは、スノーウィを忘れられない。


 スノーウィは頑丈な殻だった。弱い俺を守ってくれていた。スノーウィは俺だ。スノーウィにも、ミケイラに愛される権利がある。


 俺は拳をゆっくりと解いた。壊れたシェルフを踏み越えて、ベッドの上の定位置に戻る。ミケイラの暗い部屋を見つめる。


 耐えろ。耐えるんだ。これは過去と決別し、幸福な未来を手に入れる為の試練だ。大丈夫さ。俺なら出来る。我慢強いことだけが取り柄なんだ。


 俺は弾かれたように起きあがった。手早く外出の支度をする。一刻も早くガス抜きをしなければ、今にも爆発してしまいそうだ。




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