出来損ないの犬もどき1
俺はすっかり、ゴミの山にとけこんでいた。ここにあるのは、汚らしい、悪臭を放つ、邪魔なゴミばかり。要らないって捨てられた、俺の仲間だ。
俺の行きつく場所は、ここだと決まっていたのだろう。本来なら、もっと早く、ここに至る筈だった。
俺はバカだ。父さんに捨てられた俺を、女神が必要とする訳がなかった。
回り道をしたが、結果的には良かったのだと思う。良い夢を見られた。いつか、調教師が言った通り、俺は幸運だ。夢でもあんな綺麗な女の子の傍にいられた。
待てよ。もしかしたら、本当に夢だったのかもしれないな。父さんに捨てられた俺は、誰にも貰われずに、ゴミの山に埋もれた。そこで、長い夢を見ていたのかもしれない。
良い夢だった。出来ることなら、夢から醒めずに死にたかった。もう一度、瞼を下ろしたら夢の続きが見られるだろうか?
いや、やめておこう。良い夢だったけど、もう疲れてしまった。
俺が見上げる青ざめた空を、カラスが渦を巻いて飛んでいる。俺を警戒して近づいて来ない。ふとしも、一羽のカラスが、俺の傍に舞い降りて来る。好奇心旺盛な若いカラスなのだろう。
俺の傍のゴミを啄ばみながら、俺を観察している。俺が動かないとわかると、ひょこひょこと近づいてきた。
首を巡らせて、カラスと顔を突き合わせる。カラスの黒い目に、ちらちらと白い膜がかかった。
残り少ない力を振り絞って、俺は右手をそろりと持ち上げる。すると、カラスは翼をばっと広げて、けたたましく鳴いた。羽根をばさばさと羽ばたかせて、飛んで行ってしまう。
飛び去ったカラスが、仲間と合流するのを見届けて、俺は目を瞑った。
ゴミを啄ばむカラスでも、俺には触れたくないらしい。
酷いものだ。現実はこのザマだ。やっぱり、あれは夢だった。ミストレスが、あの小さな可愛い手で、俺に触れてくれるなんて、ご都合主義の妄想だ。
俺が死んだら、カラスは俺の死肉を啄ばんで食べるだろうか。死んだあとくらい、誰かに必要とされたいものだ。
そこらじゅうでゴミを漁っていたカラスが、一斉に飛びたつ。なんだか様子がおかしいと訝しんでいると、どこからか聞き覚えのある声がした。
「……スノー……スノー!」
俺は目をしばたかせた。まだ夢の続きを見ているらしい。ぶくぶく肥えた豚は、夢の中の妖精だ。現実には出て来られない筈だ。
空に視線を、カラスと一緒に遊ばせていると、がちゃがちゃとやかましい足音は、着実に近づいて来る。丸い青空を背景に、醜い豚の顔がぬっとあらわれた。
「スノー!」
俺はゆっくり瞬きをした。本当に夢から抜け出してきたのか。しつこい豚だ。とどめをさしておけば良かった。いや、夢の妖精だから、殺しても死なないのかもしれない。
豚は俺を抱き起した。俺の体はゴム人形みたいに、だらんとしている。豚は、俺の体が汚れても、気にしないらしい。残飯をあさる豚みたいに、無頓着だ。
豚は俺の顔を覗き込む。泣き腫らして真っ赤になった目を細めて、不格好な笑顔をつくって言った。
「ずいぶん、探したんだぞ。会えて良かった」
俺は瞼を下ろした。聞こえるのは豚とカラスの鳴き声だけだ。カラスの言葉はわからないので、豚の言葉だけが耳に入って来る。
「かわいそうに、こんなに弱っちまって。さぁ、俺たちの家へ帰ろう。お前の好きなスープを作ってやる」
豚が俺に肩をかして立たせようとする。
なんだ? 何処に連れて行こうって言うんだ? また、あの夢に戻るのか? 俺を捨てたミストレスがいる、あの夢に?
「殺して」
ひび割れた唇を、粘つく舌で舐める。唇の皮がささくれだって、乾いた舌に引っ掛かった。血の味がむわりと口腔にひろがる。でも、吐きだすだけの唾液がわかない。
俺は干からびている。あらゆるものが枯渇している。目玉には、瞼の裏に焼きついた、ミストレスのほっそりした後ろ姿がうつっている。俺は遠ざかる背中に呼び掛けた。
「いっそ、殺してください……あなたが要らないなら……俺はゴミ屑だ。生きているだけで邪魔だ。せめて、あなたの手で終わらせて……お願いです、どうか……ミストレス」
俺の体を引っ張り上げようと躍起になっていた豚の動きがぴたっと止まる。豚は俺の体を、馴染み深いゴミの上におろした。俺はうっすらと目を開けた。ミストレスの背中が豆粒より小さくなっていくのを、これ以上見ているのが辛かったからだ。
豚がぶくぶく膨れ上がった大きな手で、俺の両手を握っている。豚ははらはらと落涙していた。俺の切り傷だらけで、掌の皮が分厚い手を撫でさすりながら、嗚咽を漏らす。
「君は、ミケイラなしじゃ生きられないんだな? 俺じゃ、ダメなんだな? どうやっても君は、あの親娘がつくった狭い檻の中から、出られないんだな?」
俺は豚の肩の向こう側の空を見上げている。心の中でせせら笑った。
バカ言うよな。俺は外になんか出たく無かった。でも、追い出されたんだよ。狭い檻に大事に閉じ込めてくれていたら、どんなに良かったか。
豚が不意に俺の手を搾るように握り込む。俺の注意は豚に向いた。豚は円らな目を見開いている。これ以上ないくらい、真剣だった。豚は一言一言、噛みしめるように言った。
「それなら、君もそうしろ。君にだってそうする権利がある。君もミケイラも、同等の人間なんだからよ」
俺が同じようにする? 俺が、ミストレスを檻の中に閉じ込めるってことか? 豚の提案は馬鹿げている。そんなの、夢物語だ。俺は力なく失笑した。
「スノーウィは、ミストレスの犬。スノーウィは、ミストレスのもの。でも、ミストレスは……主人は犬のものにはならない」
そうは言ったが、俺も夢想したことはある。ミストレスが俺を置いて、豚に会いに行った時には、いつも想像していた。俺が人間で、ミストレスを檻に閉じ込めることが出来たら、どんなに良いだろうと。もちろん、主人への反逆は許されない。考えることもダメだ。でも、頭の中までは、調教でも完全に作り替えることは不可能だ。
俺が犬じゃなかったら。俺が犬にならなきゃいけない、下等な人間じゃなかったら。一人の人間として、対等な立場でミストレスと出会っていたら、ミストレスを俺のものに出来たのか?
出来たかどうかはわからない。だが、もしも、その力があったなら……俺は間違いなく、そうしていただろう。




