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私は性悪ミストレス  作者: 銀ねも
犬の章
33/44

また、捨て犬

 あれ? どうしてだ? スノーウィは、何か悪さをしてしまった? 

 ああ、そうだ。人間の真似をするんだった。忘れていた。五年間も離れ離れになっていたのに、スノーウィが犬のままだから、怒ったのかもしれない。


 ミストレスの手がスノーウィの顎をとって、上向かせる。ミストレスの手は柔らかくて気持ちが良いが、ミストレスの目が怒っているから、喜べない。

 ミストレスは、押し殺した声でスノーウィに問いかけた。


「なぜ今更、私の前に現われた?」


 スノーウィは出来る限り、頭を働かせようとする。なんと答えるのが正解なのか。間違ってはいけない。


 さぁ、話せ、スノーウィ。人間のように、流暢に話して、ミストレスを喜ばせろ。出来る筈だ。出来ていただろう。さぁ、やるんだ!


 ところが、スノーウィの舌は縺れて、拙い言葉しか紡ぎだせなかった。


「ミストレス……あいたかった。スノーウィ、いぬ。ミストレスの、いぬ」


 スノーウィは自分に失望した。ミストレスも失望したのだろう。スノーウィの頬をもう一度、張り飛ばす。

 痛みはない。触れて貰えるのは嬉しい。でも、スノーウィは恐ろしい予感に震えていた。


 おかしいぞ。これは、今までとは違う。ミストレスの心は、スノーウィから遠く離れている。どんどん、遠ざかっている。


 ミストレスは、スノーウィの前髪を鷲掴みにする。触れてくれているのに、突きはなされているような気がした。


「お生憎様。お前みたいなバカ犬は、いらない。わかる? 私はお前を捨てたんだ」


 捨てる。最も恐ろしい言葉だ。スノーウィの体中に流れる血が、凍りついて、心臓をめった刺しにする。


 え? そんな、嘘だ。スノーウィは、ミストレスの犬。ずっと傍にいたい。ミストレスの為だけに生きていたい。


 でも、それが叶わないなら。スノーウィがミストレスの邪魔になるのなら。殺されたい。いらなくなったら、ミストレスが殺してくれる。なにも心配いらない。


 ミストレス……あなたが、そう言ったじゃないか。


「ミストレス……スノーウィ、いぬ……」


 スノーウィの言葉を、ミストレスは、スノーウィの顔を地面に叩きつけて、遮った。


 痛みは殆ど感じないが、この小さな痛みも、ミストレスに貰ったもの。宝物だ。

 それなのに、どうしたことだ。嬉しいと、感じないぞ。何も感じない。体が石になったみたいだ。


 ミストレスがすっくと立ち上がる。はっとして見上げると、ミストレスはスノーウィに背を向けていた。


 ミストレスはしばしば、スノーウィを置いてけぼりにした。ミストレスの背中は見慣れている。だが、これは違う。我慢すればいつか終わる寂しさではない。


「消えろ。お前は私からあの人を奪った裏切り者だ。二度とその卑しい面を見せるんじゃない」


 ミストレスは、振り返らずに歩き出す。

 行ってしまう。本当に行ってしまう。スノーウィを置き去りにして、行ってしまう。スノーウィを捨ててしまう!


 スノーウィはミストレスの足元に縋りついた。ミストレスの靴にキスをする。何度も何度も、血のキスマークを塗りたくる。


 この人の足元がスノーウィの家だ。ここはスノーウィの領地だ。スノーウィのものだ。スノーウィの居場所だ。スノーウィが生きている限り、約束された天国。


 嫌だ、ここにいたい。やっと帰って来たんだ。ずっとここにいたい。二度と離れたくない。


 見て、ミストレス。悪い男たちをやっつけたのは、スノーウィだ。スノーウィはミストレスの役に立つ。スノーウィは役立たずじゃない。この世界は危険がいっぱい。ミストレスには、スノーウィが必要だ。スノーウィはミストレスを守る。絶対に守るから。だから、お願いだから、傍に置いて、お願いします、後生ですから! 

 傍にいられるなら、なんだってするから!


「ミストレス……ください、ばつ、ばつを……ゆるして、おねがい……」


 ミストレスはスノーウィを殴らない。蹴らない。スノーウィを一瞥すらしない。


「罰はお前にとって辛いことじゃなきゃいけない。でも、いくら痛めつけても、お前には罰にならない。だから、私はお前を罰しないし、許さない」


 許さない。ミストレスの一言は、断頭台の無慈悲な刃だ。スノーウィの首をすっぱり落とした。


 スノーウィはもう、死体と変わらなかった。走り去るミストレスを追いかけることも出来ない。

 頭の中が空っぽだ。がらんどうの廃墟で、壊れた射影機が、調教の記憶をぐるぐる回して、映し出す。


『お前は犬だ。俺がお前を良い犬に仕立て、ご主人様のもとへ送り出す』

『お前は下等な人間だった。犬畜生どころか、路上のクソにも劣る。俺に任せろ。俺がお前を作り換えてやる』

『ここから逃げたところで、どうなる? クソ以下のガキのままじゃ、何処へ行っても同じことだぞ』

『ミケイラお嬢様が、お前のミストレスだ』

『良い犬になれば、お前は路上のクソじゃなくなる。ミケイラお嬢様は、お前を必要としてくださるだろう』

『お前のミストレスは、強い犬がお好きなんだ』

『信じろ、お前は良い犬だ』


 最後に見た調教師の、初めての笑顔が薄れて行く。優しい嘘つきの顔が消えていく。

 俺の目玉はなにもうつさない。涙の膜で曇っている。


 俺は跳ね起きた。周りの奴らがどよめいたかもしれない。叫んだかもしれない。俺を取り押さえようとしたかもしれない。どうなったのかはわからない。俺は知らない道を、息を切らせて走っている。


「……なんでだ……話がちがう……良い犬になったのに……強い良い犬になったのに、なんで……また、捨てられたんだ……!?」


 俺は声を出して笑った。見開いた目からとめどなく涙が溢れる。俺は泣きながら笑って、暗闇を走っていた。


 走るのをやめたのは、足が縺れて、動かなくなって、転んだからだ。俺は饐えた臭いのする、暗い場所で倒れた。散らばったゴミがクッションになって、衝撃はまったくない。俺はゴミの山に倒れ込んでいた。


 突き刺すみたく酸っぱい臭いのする空気を胸一杯に吸い込んで、俺は哄笑した。


 よりによって、辿り着いたのがこのゴミ捨て場とは! なんたる偶然、いや、必然だ! ここほど、俺にふさわしい場所はない!


「……俺は……要らないガキのままだったんだ……」


 もう駄目だ。死ぬよりももっと悲惨だ。スノーウィは、終わりだ。ミストレスの犬じゃなくなった。捨て犬だ。ゴミだ。


 俺は、ゴミ屑だ。


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