出来損ないの犬もどき2
体がだんだん重くなってきた。視界が虫に喰われていく。
もうすぐ、夢も終わるのだ。だったら、最後に少しだけ、だいそれた妄想で新しい夢をつくってもいいだろう。
ミストレスを俺だけのものに出来る夢の世界を目指して、俺は瞼をおろしていく。
ところが、俺の意識は乱暴に現実に引っ張りあげられた。豚が俺の横面をぶよぶよした拳で殴りつけたのだ。
豚はほぼ脂肪で出来た体を揺すって、赤ら顔をさらに真っ赤にした。
「いい加減にしろ! もう、たくさんだ! 犬のふりをして逃げるのは、もうやめろ!」
豚は俺の襟首をつかみ、引き絞る。俺の額に額を打ち付けて、凄まじい形相でがなりたてた。
「お前のどこが犬だ!? お前は、忠良で無欲な犬じゃない。欲深い人間だ! お前は心の底から、ミケイラを愛している。それは間違いないだろうさ。だが、お前の愛は犬みたいに純粋無垢じゃねぇ。お前の愛は見返りを求めてる。おまけに独りよがりで、突き詰めれば、自己憐憫と自己陶酔の汚物に塗れてる!」
豚がまくしたてた言葉の刃が、俺の心の弱いところに突き刺さる。横面を殴られた以上の衝撃を受けた。
俺は顔色を無くした。俺の反論は悲鳴みたいだった。
「違う、スノーウィは良い犬だ。ミストレスを、主人としてちゃんと愛してる!」
豚の目玉には、ひどく狼狽して取り乱す男がうつっている。これが本当に俺なのか?
俺から目をそらさずに、豚は唇の端を折り曲げた。厭味ったらしくほくそ笑んで、豚は俺の全てを嘲る。
「そうか? なら、俺がかわりにミケイラの犬になったとしても、それで良いんだな。ええ? お前が捨てられて、俺がお前の後釜にすわる。それでミケイラが喜べば、お前は大満足だ。そういうことだな?」
突沸した怒りは、それだけで満身創痍の俺を突き動かした。俺は豚に掴みかかり、不利な体勢をひっくり返す。豚の腹に馬乗りになると、豚の首を絞め上げた。俺は絶叫していた。
「ミストレスの犬は、スノーウィだ!」
豚は目を血走らせる。唇の端を引き裂けそうなくらいに耳に引き付けて、そらみたことか、と哄笑した。
「なぜ怒る? お前は犬で、無償の愛を主人のミケイラに捧げてるんだろ? つまり、結ばれなくても、報われなくても、いいってことだろうが!? お利口な犬が、俺に腹を立てる筋合いはねぇんだよ!」
「違う! お前なんかに、お前なんかに彼女は渡さない! お前なんか、彼女のことを愛していない癖に! 俺は彼女に全てを捧げた、全てを賭して彼女に尽くしてきた、彼女を愛する為に俺は生れたんだ! 俺はこれ以上ないってくらい、彼女を愛している。俺はこの世界で一番、彼女を愛しているんだ! お前なんかに、彼女を渡して堪るか! 彼女を一番愛しているのは、俺だ。他の誰でもない、この俺!」
俺は豚を殴りつけた。拳はふにゃりと解けて、力は殆どこめられていない。それでも、何度も何度も殴りつける。その度に、俺を縛めていた首輪が緩んでいく。俺を犬にしていた首輪が外れてしまう。
ああ、もう、なんてことをしてくれるんだ。全部、豚のせいだ。豚が俺を中途半端に人間に戻そうとするからだ。俺は犬でいなければいけなかったのに!
そうさ。そうさ、本当は、そうなんだ。
「嘘、嘘、嘘! 全部、嘘だ! 傍に居られるだけで良いなんて、彼女が幸せならそれで幸せなんて、嘘っぱちだよ! 本当は彼女を独り占めしたいんだ! 他の生き物に、彼女の存在を知られるのすら嫌だ! 彼女が俺じゃない他の誰かに目を向けただけで、嫉妬で気が狂いそうになる! 彼女の体に触れた奴は皆、八つ裂きにしてやりたい! 誰とも顔を合わせて欲しくないし、話して欲しくないし、誰の事も考えて欲しくない! 俺は彼女だけを愛しているんだ。彼女の為に生まれてから、今でもずっと! 彼女さえいれば、他に何もいらない! 彼女が必要としてくれるなら、犬でもなんでも良かったっ……!」
父さんは俺を要らない子だと罵倒して足蹴にした。兄さんも姉さんも、役立たずの俺が嫌いだった。どこにも居場所がなかった。だれにも必要とされなかったからだ。
調教師の言う事は正しかった。俺はゴミ屑人間だ。調教師は、俺を犬にしてくれた。俺は今度こそ、誰かに必要とされる為に、必死になって人間の俺を殺した。
目玉が燃えるように熱い。視界が滲んでいる。目玉が融けたみたいだ。喉元にも熱いものがせり上がって来る。飲み込もうとしたけれど、喉から滑り出てしまう。
誰にも言わなかった、俺の秘密が。涙をともなって、堰を切って溢れだす。
「俺だって、人間でいたかったさ! でも……犬になるしかなかった。俺みたいなゴミ屑でも、犬になれば……あんな、素晴らしい女神みたいな女の子に、望まれる筈だったんだ。ゴミ屑でいるくらいなら、犬にでもなんでも、なってやろうって……思ったのが……そんなに悪いことなのか……?」
俺は我慢が得意だ。物心つく前から、我慢してきた。我慢強いことだけが、俺の取り柄だった。
だから、これからも我慢出来ると思っていた。ミストレスが俺を便利な道具としか思っていなくても、傍にいられれば、それだけで良いと、自分を納得させられる筈だった。俺は、我慢だけは得意だから。
俺の体は極寒の海に叩き落とされたみたく、がたがたと震えていた。惨めな嗚咽をとめられない。俺はずっと統制してきた感情を、ここにきて初めて、もて余していた。
だから、この豚は嫌いなんだ。
この豚といると、我慢が出来なくなりそうだった。我慢しなくて良いんだと、ありのまま、心が感じるままに、自由になって良いんだと、この豚はずっと俺を誘惑してきた。
俺が何をしても許し、受け入れる。この豚といると、俺は自分がダメになるとわかっていた。だから、そうなる前に離れたかったのに。
豚はこの時も、俺を受け入れた。俺を分厚い胸に抱きしめて、赤ん坊をあやすみたく、背をたたいて宥めた。宥めながら、豚も泣いていた。俺に張り合うみたく、おいおいと声をあげて泣いた。
「君がこんなに愛しているんだ、ミケイラだって……君を愛するべきじゃないか! 神は人の上に人をつくらない。君と彼女は同じ人間だ。君の愛が、ないがしろにされて良いわけがない!」
豚は俺をきつく抱きしめて、耳元で熱心に言い聞かせた。豚の言葉がまるで暗示みたいに、俺の心に染み込んでいく。
俺とミストレスが、同じ人間。俺の愛が、ないがしろにされて良いわけがない。
そんな都合の良いことが、あり得るのか? いや、あり得なくても良い。あるべき形を捻じ曲げてでも、俺はミストレスに愛されたい。
いつのまにか泣き止んでいた豚が、俺の肩を押して、体を放す。俺と豚は目睫の距離で見つめあう。豚は重々しく頷いて、言った。
「スノー。俺が手を貸す。ミケイラを、手に入れろ」
豚の目玉にうつった俺の顔が、豚そっくりに見えた。




