帰りたい犬と帰したくない豚2
スノーウィは、息を殺してじっとしていた。水滴が床を叩く音が、響いている。豚の体から、ほかほかと湯気が立ち上った。冬に腹を割ると、溢れだした中身から、これと同じような湯気がたつ。
昔見た光景を思い出しながら、スノーウィは、ぽつりと呟きを落とした。
「スノーウィは、幸せになる、権利が、ある?」
豚がぱっと顔をあげる。スノーウィの頬を両手で挟んで、がくがくと頷く。
「そうだ、そうだよ、スノー! もう、ミケイラの犬として、自分を殺して生きなくて良い!」
スノーウィは、のっそりと上体を起こした。豚の肩を掴む。
「スノーウィは、幸せになりたい」
豚の表情が、だらしない腹の肉みたいに、弛緩した。スノーウィの手は、するりと、顎に埋まった太い首に巻きつく。弛んだ顔面に、音を立てて亀裂がはしった。
スノーウィはにっこり、微笑んだ。ずっと鏡の前で練習していた笑顔だ。ミストレスに会った時に、一番、素敵に見えるように、こっそり、練習していた。
こんな醜く腐れ爛れた豚に、練習の成果を、披露するつもりはなかった。けど、笑顔はごくごく自然に、冷たくて固い顔の上に浮かんでいた。
「お前が邪魔だ」
スノーウィは豚の首を両手で絞め上げた。本物の、屠殺される豚みたいな苦鳴が上がる。実際、豚の断末魔は、人間のそれに酷似している。
豚の顔が土気色になっていた。豚は手足をばたつかせる。水しぶきが上がる。
豚の手は、わなわなと震えているが、スノーウィには触らない。無駄な足掻きだけど普通なら、スノーウィの手を引っ掻いたり、叩いたりして、抵抗を試みるものなのに。
スノーウィは豚の顔を覗き込んだ。豚の血走った目は、スノーウィを見つめている。いつもと同じ、生温かい眼差し。大嫌いだ。虫唾が走る。
首を掴んで、豚の巨体を引きあげた。バスルームの壁に叩きつける。豚の顔面は平坦だけど、叩きつけてみると、それなりに凹凸があったことが、わかる。豚の額は割れて、鼻は折れて、口を開くと、血塊と白い歯が飛びだした。
歯がころころと転がるのを目でおう。スノーウィは、豚からぱっと手を放した。崩れ落ちていく豚の背中を一蹴して、追い打ちをかける。豚は血と空気の塊を吐きだして、糸が切れた人形みたく、床に倒れた。流水が、血の赤を、薄める。水たまりは、みるみるうちに、赤く染まる。
スノーウィは、ボディーソープを手にとって、泡立てた。豚に触ったところ、触られたところ、豚臭い。洗い直す。
シャワーで泡を綺麗に流し終えると、さっぱりした。シャワーのカランを捻って、水流をとめる。排水溝に、白い歯が引っ掛かっていた。詰まった髪の毛を取り除いてバスルームを出る決まりだけれど、豚の歯に触りたくないので、後始末をしないで、そのまま出る。
バスタオルで髪と体の水分を拭き取る。裸はミストレスが嫌がるから、下着を身に付けて、服を着る。てきぱきと、身支度を整える。一刻も早く、ここを出て行きたい。
豚のことは、大嫌いだった。ついさっき、とうとう、嫌いを飛び越した。
すべて、許せない。スノーウィを騙して、五年間も閉じ込めた。それより何より、許せなかったのは、豚がミストレスを嫌っていたこと。憎んでいたことだ。
豚はミストレスの愛に報いることなく、事もあろうに、ミストレスの愛を裏切っていた。スノーウィの女神を、最悪な方法で侮辱した。
ミストレスに会いたい。ミストレスの傍にいたい。すべての嫌なことから、ミストレスを守りたい。
スノーウィが、人間みたいになるまで、五年もかけた。この間に、スノーウィは人間らしい知恵も、つけていた。
スノーウィは豚の部屋にいった。鍵がかかっていて、入るなと言われている。良い子にしていないと、ミストレスに会わせられないと言われて、言う事を聞いてきた。でももう、言いなりになる謂われはない。
スノーウィは扉を蹴り破った。豚の部屋、物色する。携帯電話もパソコンもチェックする。ミストレスとの繋がりを探した。
豚はミストレスとの連絡を、一切絶っていた。住所も、電話番号も残していない。わからない。豚め、いつか、スノーウィがこうすると、予測していたのか?
豚はまだ生きていた筈だ。痛めつけて、吐かせようか。だが、知らないなら時間の無駄だ。ミストレスに繋がらないなら、豚の為に一秒も時間を、裂きたくない。
スノーウィは、怒って、目に付くものを、片端から破壊して回る。そうしていたら、偶然、見つけた。衣装箪笥の抽斗の奥に隠された、古い型の、携帯電話。充電器引っ掴んで、ソケットに突っ込む。調べてみると、ビンゴ! ミストレスの連絡先が残っていた。
ミストレスは、やっぱり、女神さまだ。スノーウィを助けてくれる。いつも、いつだって!
震える手で、ミストレスの電話番号に、電話をかけた。
三回、呼び出し音を鳴らすと、電話が通じた。スノーウィは心ときめいた。ミストレスの声が聞ける。五年ぶりのミストレスの声だ!
ところが、聞こえてきたのは、耳障りなダミ声だった。
「ハロー? 久しぶりだねぇ、ミスター・シンクレア」
スノーウィは目を剥いた。声の主はミストレスではない。ミストレスの父親の、ガマガエルだ。
ガマガエル、とぼけた声でハローを繰り返す。一呼吸分の沈黙を挟んで、けたたましく哄笑した。
「……いや、違うな。お前、スノーウィだろ!」
邪悪なガマガエルはすべてお見通しだった。スノーウィは警戒して、黙りこむ。ガマガエルはぺらぺらと一人で喋った。
「んん? 自分からかけておいて、だんまりは無いんじゃないか? ははは、お前は相変わらず、無口だなぁ。まぁ、いいさ。お前は声も出ないんだ。当てが外れて、がっかりしてさ。かわいそうなスノーウィ、ミケイラに会いたいか? 俺におねだりしてみな。そうすりゃ、あの娘の居場所を教えてやるぞ?」
スノーウィは考えるより先に、プリーズと言っていた。今のスノーウィの心の中にある、希望はただひとつだけ。ミストレスに会いたい。
ガマガエルは邪悪な悪魔の王様かもしれない。でも、だからなんだ? ミストレスに会えるなら、スノーウィはなんでもする。恐れるものは、ミストレスと離れ離れでいること。それ以外には、何もない。




