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私は性悪ミストレス  作者: 銀ねも
犬の章
28/44

帰りたい犬と帰したくない豚1

 ***


 スノーウィは散々な毎日を、送っている。豚の言うことを聞いて、人間の真似の練習を、している。

 もともと、出来ていた。二本足で歩くことも、スプーンやフォークを使うことも、言葉を話すことも。


 でも、もうやることはないと、思っていた。覚えていたら、却って、邪魔になる。良い犬になる、妨げになってしまう。

 だから調教で、スノーウィの体から、叩きだした。あの頃の感覚を取り戻すのは、一苦労だ。


 スノーウィはよく頑張った。人間の真似の勉強を、一生懸命にした。豚との生活、一秒でも早く終わらせて、ミストレスのところへ帰りたい。


 豚は、醜い声でよく鳴いた。スノーウィは不快な雑音として、豚の言葉の大半を、聞き流した。でも、あまりにべらべら喋るものだから、少しは、耳に入ってしまう。


 豚には息子がいた。豚の奥さんは、豚が嫌になって、家を出て行った。豚は息子を一人で育てた。けれど、息子は死んだ。ガマガエルのせいで死んだ、らしい。ちょうど、スノーウィと同じくらいの年だったと、豚は涙ぐんだ。


「俺はな、スノー。君に、俺の息子になって欲しいんだ。死んだ息子の身代わりにしようって言うんじゃない。そんなんじゃないんだ。ただ……君には親がいないんだろ? 俺にも息子がいない。俺達は二人とも、独りぼっちだ。……スノー、二人で、新しい家族にならないか。俺は君を助けたい。君を守りたいんだ」


 豚の話を聞くのは、すごく苦痛だ。豚は、独りよがりな偽善者。スノーウィのこと、助けたいなんて、真っ赤な嘘だ。心に空いた穴を埋めるのに、スノーウィが調度良いってだけ。


 急がなきゃ。急いで、人間に近づかなきゃ。そうして、ミストレスのところに、帰る。ミストレスがいない生活は、本物の地獄だ。これなら、犬になる前の暮らしの方が、まだマシだった。

 あの頃は、天国を知らなかったから、あそこが地獄だって、わからなかった。


 スノーウィはがんばった。でも、豚はスノーウィの努力を、なかなか認めようとしない。じりじりしながら、スノーウィは我慢を続ける。ミストレスと引き離されてから、五年も経っていた。


 豚はスノーウィの頭、馴れ馴れしく撫でて、猫撫で声を出す。


「まだだ、まだ完璧じゃない。完璧に仕上がるまで、もう少し、がんばろうな」


 スノーウィは、しぶしぶ、納得した。完璧に仕上げなければ、だめだと言うのは、正しい。ミストレスに、不完全なものを、あげられない。


 二本の足で立ち上がった。前に進むことも、できる。最初はよたよたしたけど、根気強く練習して、スムーズに歩けるように、なった。


 人間のように、舌を巧みに使った発声の方法も、思い出した。嫌だったけど、豚と会話のなかで、少しずつ、慣れていった。昔よりも、流暢に話せるようになった。


 豚は、スノーウィに読み書きも、教えた。本を読めるようになった。ミストレスがスノーウィに読んでくれた、ABCの本を読める。ミストレスの声を思い出して、胸が熱くなる。


 字も、書けるようになった。豚は、スノーウィに辞書を買い与えた。真っ先に、ミストレスの名前の綴りを、調べた。ミケイラはMichaylaと書く。ノートに鉛筆で、ミストレスの名前を、たくさん書いた。


 もともとは「私はバカ犬です」しか書けなかった。それで十分だと思っていたけど、ミストレスの名前が書けるようになったのは、素直に嬉しい。


 シャワーも一人で浴びられる。豚に干渉されたくないから、なんでも一人出来るようになりたくて、急いで覚えた。これで、ミストレスがいちいち、小間使いに命令する手間が、省けた。ミストレスは、面倒くさいこと嫌いだ。喜んでくれるだろう。


 スノーウィはいつも、シャワールームに針を、持ち込む。本当は、ミストレスが使っていた、コンパスが良いけど、ないから代用品で、手をうつしかない。


 スノーウィは、バスタブに腰かけて、腹にミストレスの印を、刻む。「私はバカ犬です」と、消えないように、刻む。


 豚の目を盗んで、ミストレスの印が消えないように、上書きする。ここに来たばかりの頃、豚はミストレスの印を「治療」と称して、消そうとした。スノーウィは、色々な事を我慢したけど、それだけは、許さない。


 その日も、腹に針を突き刺して、ミストレスの印を刻み直していた。この最悪な暮らしの中で、数少ない、幸せな時間。


 ところが、その日は豚が、断りなくバスルームに入って来た。ボディーソープが切れていたとか、そんな、なんでもないような理由だった。スノーウィは、夢中になっていて、気がつかなかった。迂闊だった。


 豚は、スノーウィがやっている、大事な作業を見て、発狂したみたく、喚き散らした。


「君は、まだこんなことを……よせ、やめろ! スノー、君はもう、犬じゃない! ミケイラの奴隷じゃない、俺の息子なんだ!」


 スノーウィは、顔を歪めた。この頃になると、表情をつくれるように、なっていた。


 聞き捨てならない言葉だ。スノーウィはミストレスの犬。それ以外の何者でもないし、何者にもならない。

 そう言い返すと、豚は烈火のごとく怒り猛った。肥満体が、弾丸みたいに突っ込んでくる。バスルームが狭くて避けられない。

 直撃したが、衝撃は許容範囲内だ。でも、足元が石鹸水で滑った。スノーウィは、転倒してしまう。それだけなら良かったのに、豚がスノーウィの上に倒れ込んできた。鉄球を、腹の上に落とされた時と同じ、いや、それ以上の衝撃に、スノーウィは堪らず呻いた。


 豚は、スノーウィの腹に醜い顔を押しつけている。気持ち悪くなって、豚を払い落そうとした。豚は樹にしがみつくセミみたく、スノーウィにしがみつく。恥も外聞もなく泣き喚いていた。


「スノー、目を覚ましてくれ! ミケイラはお前の女神なんかじゃねぇよ! あれは、悪魔の娘だ。呪われた狂人の血は、脈々と受け継がれる! ミケイラのことは忘れるんだ。人間を犬にするなんて、あいつら親子は狂ってる! 骨の髄まで悪党なのさ! 君は、ここにいればいい。ここで俺と一緒に、普通の幸せを生きよう!」


 スノーウィは、不覚にも、固まってしまった。決して、豚が言ってはいけない言葉が、時間を凍らせた。


 この豚は、初めから、スノーウィをミストレスに会わせるつもりなんか、なかったのだ。スノーウィとミストレスの絆を引き裂く為に、スノーウィを騙した。


 シャワーが雨みたいに、スノーウィと豚の上に降り注ぐ。豚は、スノーウィを力いっぱい抱きしめた。腕の檻に、閉じ込めようとするみたいに。


「君は人間だ! 自分の為に生きてくれ。君には幸せになる権利がある。頼む! この通りだ!」

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