私の黒い犬
私は呆然としていた。まるで、感情が漂白されたみたいに何も感じない。ただ、スノーウィの思い出が、私に纏わりつくバカ犬みたいに、ぐるぐると回っていた。
『私、サモエドの仔犬が欲しかった。裸の男の子じゃなくて!』
『要らなくなったら、殺せばいいのね。パパ』
『お前の名前はスノーウィだ。白雪姫の白い犬だから、スノーウィ。……なに、その顔。文句ある? お前も私を悪人面だって言いたいわけ? ……顔は舐めるなって言ってるでしょ!』
『お前が上手に捕ってくるから、ネズミも虫も見なくなったよ。よくやった、スノーウィ。……だから、顔はダメ! 調子に乗るなってば!』
『スノーウィ、おすわり。お前に私のバイオリンを聞かせてあげる。……ちょっと、なんで私のベッドに頭つっこんでんの? ……もしかして、聞こえないようにしてるとか? ……図星だな、こいつ……。スノーウィの癖に、私をバカにするんだ? ふぅん、良い根性してるじゃない。くんくん甘ったれたってもうムダ。で? 罰は何が良い?』
『明日は朝からシンクレアとデートだから、お前は留守番だ。メイドが餌を用意するから、ひもじいのが嫌なら食べなさい』
『なんだよ、シンクレアの奴……このバカ犬のことばっかり……私といるのに、なんで私だけを見てくれないの……ああ、もう! 鬱陶しいんだよ、バカ犬! 来い、お前なんてこうしてやる!』
『お前にぴったりの言葉を刻んであげる。私はバカ犬です……と。出来た。これは良い、よく似合う。……本当に気に入ったの? お前はマゾ? 気持ち悪い』
『お前はいかれてる。これじゃ罰にならないな。殴られても蹴られても、刺されても、食事を抜かれても、放置されても平気そう。お前がされて嫌なことってなに?』
『不都合なことはひとのせいにすればいい。それが賢いやり方。バカなお前にはわからないだろうけど』
『お生憎様。お前みたいなバカ犬はいらない。わかる? 私はお前を捨てたんだ』
『ミストレス……あいたかった。スノーウィ、いぬ。ミストレスの、いぬ』
『過去は関係ないよ。ミケイラとこうやって一緒にいられる。幸せだよ。幸せすぎて、怖いくらいだ』
少したってから、ブラックは電話をかけてきた。ハローも言わずに、彼は言った。
「見たか」
「見たわ」
私は頷きながら答えた。
「あのバカ犬、本当に死んだのね」
良い気味だ、と一言付け加えようと思ったけれど、やめた。そんな気分ではない。
「スノーウィは死んだ」
念を押すように、ブラックは言った。
「このメッセージを読んだら、なんとなく気になって、死体が握っていた携帯電話のアドレス帳を調べた。登録された女の名前はミケイラだけ。メッセージの中に出てきたのと、同じ女の名前だから連絡した。このミケイラは、あなたに違いないと思った」
「ミケイラって名前は、ありふれちゃいないにしろ、それほど珍しくもないと思うけど」
「俺にはわかる。鼻が利くんだ」
「何、それ? あんたも犬なの?」
「違う」
ブラックは大きな声で否定した。
「俺は犬じゃない」
私は黙った。そうだ、人間は犬ではない。犬になりたいとは思わない。人間は人間だから。誰もが自分の人生を、自分の為に生きたいに決まっている。
その当然の権利を剥奪された、犬に落とされた男の末路が、あれなのだ。
「この男の死を、警察はどう思うかしら」
私の口は勝手に喋っていた。
「こんな遺書を残してくれちゃって……面倒なことになりそうね」
「この死体は、俺が始末する。この町で、人が消えるのはそんなに珍しくない」
ブラックはスノーウィを人と称した。でも、人の死を扱うにしては、ブラックはやけに淡々としている。車に跳ねられた野良犬の死体を片づける清掃員みたいだ。
そして、ブラックは流れ作業のように話題を変えた。
「フィリップの携帯電話に、気になるメールが届いている。そちらも転送する。一度切る」
また、一方的に通話を着る。今度は三分とかからずに、メールが来た。今度のメールには、サブタイトルも本文も、添付もある。サブタイトルは『ミケイラちゃん』。嫌な予感がする。
『良く撮れてるだろ、ミスタースノー? 約束通り、動画と画像はこっちの好きなように使わせて貰う』
添付の写真は見ずにメールを閉じた。胃がむかむかする。写真を見たら、たぶん吐く。
ブラックがまた電話をかけてきた。彼は開口一番、こう言った。
「あなたは、この差出人に困らされているのか」
「だったら、なんなの」
私は鼻先で笑った。
困らされている? そうだ、まさしくその通り。近い未来に、このゲスどもから私宛に手紙が届くだろう。私をレイプした時に撮った写真で私をゆするつもりだ。
私は腹の底からふつふつと込み上げるままに嗤った。
これだから、男は嫌だ。どいつもこいつも、自分の気持ちのいい事ばかり優先しやがる。親父もこのゲスどもも、私のバカ犬も、みんなそう。私がどうなろうが、知ったことじゃない。ああもう、皆、死んじゃえば良いのに。
「俺がこの男たちを殺す」
私はぴたりと嗤うのをやめた。
口に出してはいなかった。ブラックは私の心をよんだのか? エスパーなのか?
非科学的な疑念を打ち払おうとして、私はせせら笑った。
「あんた、バカ? 寝言は寝て言いなさいよ」
「俺は起きている。寝言じゃない」
「だったら尚更、性質が悪いわね。ふざけないで。私にとっては、深刻な問題なの。事と次第によっては、本当に人が死ぬかもね」
「俺は大真面目だ。あなたの力になりたい。あなたの敵を殺したい。俺はあなたを愛しているんだ」
ブラックは大真面目で言っているらしかった。理解出来ない。どうして、一度顔を合わせただけの私を愛しているなんて言える?
「いかれてる」
私が吐き捨てても、ブラックは食い下がった。
「そうだ。俺はあなたにいかれてる。待っていてくれ。あなたに必ず良い知らせを届ける」
ブラックは必死だった。理解不能だが、本気で私の力になりたいのだろう。
「何が望み?」
「あなたを愛している。あなたのものになりたい」
私の為ならなんだってする、私の犬になりたいの? 私の犬がどんな末路をたどるのか、あんた、今さっきその目で見たばかりでしょ? それに私、犬はもうこりごり。私は誰の神様にもなりたくない。もう二度と、こんな目に会いたくない。
……でも、そう言えば。スノーウィが私の傍にいた時、私は男に不愉快な目に会わせられることはなかった。
私は私が何者なのか、忘れてはいけなかったのだ。私には、愛も恋も必要ない。私は完璧にうまれついた。私には敵が多い。だから、私には私を守ってくれる犬が必要なのだ。
ぐるぐるぐるぐる。渦巻く思考が流砂みたいに渦をまいてくだっていく。だけど、いくら考えても落ち込むだけだ。
「……とってこいが出来たら、考えてあげてもいいわ」
ブラックがぱあっと笑顔になるのが、目に見えるようだった。
騙し利用し唆し、脅し拷し殺す。踏みつけられるくらいなら、踏み潰してやる。
一本調子に腐っている。それが私の人生だ。これが性に合っている。世の中には、清流でしか生きられない魚がいるように、汚れた水でしか生きられない魚もいる。
私は心の中に芽生えた小さな何かを摘み取って、握りつぶして、ダストボックスに放り込んだ。




