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私は性悪ミストレス  作者: 銀ねも
ミストレスの章
19/44

私の膝を抱える夜

 ***


 目を覚ますと、415号室には誰もいなかった。


 しかし、痕跡は残っている。肌のあちこちに刻まれた爪痕のように。シーツに飛び散る赤と白のまだらの染み。黴臭い部屋に充満した、青臭い性の臭気。


 体中がきりきりとした痛みに締めつけられていた。とくに腰の奥にわだかまる痛みは深刻だ。起きあがろうと少し力んだだけで、悶絶するほどに鋭く疼く。私は寝台につっぷした。


「クソ……」


 拳でベッドを叩く。その振動すら、体の芯がぐらつく体には堪えた。

 悪態をつきながら、苦労して上体を起こす。シーツを捲り、私は思わず息を呑んだ。


 下腹部に卑猥な言葉が刻まれている。傷は浅いが、放っておいたら化膿するかもしれない。それに、痕が残ったら……そんなの絶対に嫌だ。


 私は部屋を見回した。ベッドの傍らに衣類が散乱している。私は這いずるようにして、ベッドから抜け出した。衣類を一枚一枚、拾い集める。


 病院に行かないと。傷の手当てをして、緊急避妊ピルを処方して貰って、性病の検査をしなければ。あの暴漢どもはだらしがなさそうで、性病の巣窟のように思われる。


 私はかき集めた衣類の中から、着られそうなものをピックアップする作業を始めた。ブラウスはもうどうにもならないので、体を拭くのに使う。


 一枚一枚衣服を身に付けながら、私は自分に言い聞かせた。


 そんなに深刻になる必要はない。レイプは暴力だ。傷が癒えれば痛みは消える。


 大丈夫。物心ついたばかりの小さな私でも、大丈夫だった。大人になった今の私なら、大丈夫。何の心配も要らない。


 大丈夫、大丈夫。犬に噛まれたと思って……私の場合は、比喩ではなくそのままの意味だが……忘れてしまえ。


 涙が出るのは、悲しいからじゃない。殴られたり蹴られたりしたら、腹が立つのは当然だ。別に悲しくはない。悲しむ理由はない。あのバカ犬の掌で転がされていたと思うと、腸が煮えくりかえる。それだけのことだ。


 私はてきぱきと行動した。一度帰宅し、シャワーを浴びて着替える。その後すぐに病院へ向かった。処置の為に、医師には必要最低限の範囲で事情を話す。被害者に訴える意志がないなら、レイプは事件にならない。


 傷の手当てを終えて、薬の処方箋を書いて貰う。副作用の強い薬だそうで、通院を余儀なくされたが、仕方がない。ゲス野郎の子どもを妊娠する羽目になるよりはマシだ。性病の検査も受けた。やるべきことをやり終え、私は帰宅した。自分でも意外なくらい、私は落ちついていた。


 落ちついていると思ったのだ。でもそれは、心が麻痺していただけだった。


 性病の検査の結果は全て陰性だった。傷も癒えたので、私は大学に行くことにした。


 ところが、扉の前に立った時に気が付いた。腰が抜けて、その場にへたりこんでしまう。酷い動悸、息切れ、眩暈に襲われる。水を被ったみたいに、汗をかいていた。


「ちょっと……冗談でしょ……」


 残念ながら、冗談ではなかった。私は一切、外出する事が出来なくなってしまった。


 私は専門家ではないが、この迷惑極まりない症状が、心的外傷による弊害だということくらい予測がつく。


 私は頭を抱えた。扉を開けて、外に出る。そんな簡単なことがどうして出来ない? 道行く男の大半は、良識ある一般人だ。性に対する歪んだ欲望を隠しもっているのかもしれないが、少なくとも、リスクを背負ってまで実行に移すバカは少数派だろう。


 わかっているのに、出られない。体が拒否反応を起こす。食糧や日用品の調達を頼んでいるマンションコンシェルジュと、顔を合わせて話すことすら難しい。


 友人たちは私を心配して連絡をくれた。メールには返信して、電話にも応答した。しかし、会うのは無理だ。体調を崩したのだと嘘をつく私を気遣って、色々と看病に必要なものを買い込んで訪ねてくれた友人には、心苦しいと思いながら、お引き取り願うしかなかった。


 男とか女とか、もう関係ない。いや、男より女の方が断然良いのだが。とにかく、私は誰とも会いたくない。


 そんな生活が一カ月にも及んでいる。回復の兆しは見えず、私は部屋に引き籠っていた。


 レイプされて以来、私はベッドで眠ることが出来なくなった。部屋の片隅で膝を抱えて夜を過ごしている。

 ぐっすり眠ることが出来る調子の良い夜もあったが、たいていは悪夢を見て跳ね起きてしまい、よく眠れない。もとから小食な方だったが、最近では全然食欲がなくなった。ゼリーやサプリメントを口に放り込んで、無理やり飲み下して、なんとか生きのびている。


 鏡は見なくなって久しい。骸骨みたいにやつれた顔を見たくない。


 男の声を聞きたく無いから、テレビも見ないしラジオも聞かない。友人からの連絡だけが、私と外の世界を辛うじて繋いでいる。


 その晩も、部屋の隅っこで膝を抱えていると、携帯電話のランプが光った。私はぐずぐずと立ち上がり、カフェテーブルの上の携帯電話を取り上げる。電話の着信だ。携帯電話のディスプレイを見た私は、驚愕に目を見開いた。


 ディスプレイに表示された名前は、フィリップ。私がレイプされて以来、音信不通だったフィリップこと、スノーウィからの着信だ。


 私は体の芯から震え上がった。携帯電話を取り落としてしまう。携帯電話は床に転がっても、まだ光り続けている。


 私は恐る恐る、携帯電話を拾い上げた。着信はしつこく粘っているが、そのうち留守番電話に切り替わるだろう。


 どうするべきか、考えるまでも無く決まっていた。すっぱり縁を切って、金輪際会いたくないと思ったら、電話番号を変えている。


 私はもう一度、スノーウィと向き合わなければいけない。そうしなければ恐らく、私はこのまま立ち直れないだろう。それくらいの自己分析は出来る。


 通話ボタンを押した瞬間、体が氷になったようだった。ぎくしゃくした動作で、携帯電話を耳元に持っていく。


「……ハロー」


 私の声はみっともなく震えている。歯ががちがち鳴る音が、向こうに聞こえていなければいいのだが。相手はスノーウィだ。ペットを相手にびくびくしているのを悟られるなんて、屈辱である。虚勢を張ってでも、毅然としていたいではないか。


 耳が痛くなるような沈黙の後、スピーカーから、低い声がした。


「ミス、……ミケイラ」


 私は絶句した。フィリップの声ではない。ディスプレイをもう一度確認する。表示されている名前はフィリップだ。フィリップの電話からかけられている。


 私は悲鳴を上げて、携帯電話を投げ出してしまいたい衝動をやっと堪える。勇気を振り絞って、通話相手に訊いた。


「あんた、誰? フィリップじゃないでしょ」

「この携帯電話の持ち主は、フィリップと言うのか」


 通話相手は私の質問に答えない。だが、よくよく聞いてみると、この声に聞き覚えがある。眉根を寄せて記憶をさらう。通話相手は、打ち込み音声のような無味乾燥の声調で言った。


「フィリップは死んだ。ゴールデン・アップルの近くの路地で死んでいるのを、俺がたまたま見つけた」


 ゴールデン・アップルと聞いて思い出した。この声、ブラックだ。ゴールデン・アップルで、性質の悪い男に絡まれているところを助けてくれた、サングラスの男。


 しかしそんなことはどうでも良くなってしまった。ブラックが告げた衝撃の事実に比べたら、他の全ての事象がどうでもいい。


 フィリップが……スノーウィが死んだ?


「なんで」


 ブラックは少し間を置いてから応えた。


「俺には、自殺に思えるが」

「だから、なんでよ!」


 私は俄かに苛立ち、噛みついた。


 スノーウィが死んだだと? 何が一体どうなっているんだ? さっぱりわからない。

 私が興奮して色々と喚き散らすのを、ブラックは辛抱強く聞いていた。私が疲れて、口を閉ざすと、彼は事務的な口調で言った。


「フィリップの遺書をメールに添付して送る。一度切る」


 そう言うと、私の返事を待たずに通話を切った。唖然として立ち尽くすこと、五分間ほど。メールの着信だ。私は震える指先でメールを開いた。


 サブタイトルも本文も未入力のメールには、写真が一枚添付されている。


 見ているだけで、饐えた臭いが漂ってきそうな路地に、スノーウィが仰向けで倒れている。グリーンの双眸を見開いた彼の顔は、苦悶の表情のまま永遠に凍りつき、血の海に沈んでいた。彼自身の血だ。喉笛が縦に大きく切り裂かれている。彼は右手にナイフを握っている。


 スノーウィの遺書は、紙や物にしたためられたものではなかった。

 裸の上半身の、腹から胸にかけて、ナイフで文字が刻まれているのである。


『ミストレス、ミケイラへ。私はバカ犬です。罰を受けて消えます。あなたは私の神様です。永遠に』


 は? え? なにこれ? 遺書ってこれのこと? なんで? なんでスノーウィ……死んでるの?


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