私の捨てた犬
シンクレアはまた一つ、長く重い溜息をついた。話すことが苦行だと言うように、彼は辛そうに語る。
「彼は俺の嘘を信じて、必死に努力した。それまでが嘘みたいに、全てが順調だった。俺は彼を騙したが、彼を家族として愛していた事は、神に誓って嘘偽りなんかじゃない。彼は俺の二人目の息子だ。だからこそ、彼を俺の本物の息子にしたかったんだ。彼が人間になれば、俺の嘘も偽りも、彼への愛情だとわかってくれると思った。
それから五年かかって、彼は犬から人間になったんだ。そりゃあもう、嬉しかったさ。これまでの苦労が報われた。俺達が共に過ごした日々が神に認められた。これで、本物の親子になれる」
シンクレアの言葉尻に笑みが引っ掛かっている。自嘲の笑みだった。
「だが……彼は犬をやめようとしなかった。俺との五年間は、なんの意味もなかった。本当は、いつまでたってもお前に会わせようとしない俺に業を煮やしていたんだな。
俺は彼に本当のことを打ち明け、涙ながらに訴えた。もうミケイラのことは忘れて、俺と二人、親子として生きて行こうって言ったのさ」
シンクレアはけたたましく笑った。
「そうしたら、彼は眉ひとつ動かさずに、俺を殴り倒した! 彼は素手だったが、その衝撃は警棒でめったうちにされたみたいだったぜ。俺は丸三日生死の境をさまよって、なんとかこの世に踏みとどまったが……目が覚めたら、彼は忽然と姿を眩ましちまっていた」
シンクレアは沈むように沈黙する。気が触れたのかと思い、私はたじろいだ。だがシンクレアは陰鬱な調子で、話を続ける。
「彼は俺にとどめをささなかった。彼を引きとめる俺を力で退かせただけだ。……彼にとって、俺って奴は、五年間を共に過ごした父親でもなけりゃ、憎むべき仇ですらない。お前のところへ帰ろうとするのを邪魔する、ただの障害物だ。だから彼は俺を乗り越えて、お前を探し当て、会いに行ったんだ。彼にとっては、それだけのことだ」
シンクレアの話を、私はぼんやりと聞いていた。ガソリンスタンドのカメラが捉えた、シンクレアとスノーウィの様子を思い出した。呑気な顔で後部座席におさまっていたスノーウィはとても薄情な生き物に見えたものだ。あの調教師はぺてん師だと決めつけた。
ところが、そうじゃなかった。
五年にもわたって、シンクレアに無償の愛を注いで貰ったのに、スノーウィは恩を感じるどころか、シンクレアを殴り倒してまで、私のところに帰ろうとした。
息子として愛してくれるシンクレアではなく、彼をペットとしか思っていない私を選んだ。
なぜなら、スノーウィはそういう風につくられた、返品のきかない、特別製のペットなのだから。
私に捨てられたからと言って、スノーウィは私の犬をやめられなかった。スイッチを切り替えるみたいに、簡単に覆せる愛と忠誠心なら、親父が大枚をはたくわけがなかった。
不可能に思われた、二足歩行や言語の習得を可能にしたのは、シンクレアではなかった。スノーウィは唯一無二の神のもとへ帰る為に、不可能を可能にしなければならなったのだ。
五年間、一途に慕い続け、やっとの思いで見つけた私にすげなく追い返されたスノーウィは、何か思っただろうか。作り物の犬に、なにかを感じる心はあるんだろうか。あったとしたら、それは不幸なことだ。
私は壁に背を預けて額を押えた。なんだか眩暈がする。シンクレアが重い沈黙を破ってまた語り出した。
「俺はずっとスノーウィを探し続けてきた。五年前、闇医者の施術で顔を変えたってとこまでは掴んだが……それ以降の足取りは掴めなかった。ついさっきの電話で、十年ぶり彼と話したぜ。彼は別人みたいに、流暢に話せるようになってはいたが相変わらず、お前のことしか頭にねぇ。彼がお前に会って、何をどうしようとしてるのか、俺にはわからん。お前に捨てられた事を恨んでいるのか、どうなのか。……だがよ、ミケイラ。一つだけ確かなことは……彼は君が思ってる以上に、君に依存してるってこった」
私が思っている以上? 私はスノーウィの神様だ。スノーウィは私の為に生まれた、完璧で歪なペット。
私が思っている以上……神様以上の存在って、いったい何だ。わからない。わからないけど……狂信者の信仰の末路なんて、ろくなものではなさそうだ。
私たちは何も言わず、息すら殺していた。数十秒だったかもしれないし、数分間だったかもしれない。
やがて、私はシンクレアに訊いた。
「この番号はどうやって知ったの? パパと、ごく親しい友人にしか知らせてないんだけど」
「彼だ。彼が俺に教えた。誕生日おめでとうって言えってよ」
「私が喜ぶからね」
私は無理をして笑った。そうしながら考えた。
スノーウィは何処で私の携帯電話の番号を知ったのだろう。親父ではない。だとしたら、女友達かフィリップだが、疑いたくは無いけれど、女友達の線が濃厚だと思う。スノーウィは美形だから、ぽうっと見とれて骨抜きにされた娘が、一人くらいいそうだ。
……そう言えば、スノーウィは整形したって言っていた。あの綺麗な顔のどこを弄ったのだろう。弄る必要がどこに有るのだ。
そこで、私ははっとした。なぜスノーウィは整形したのだ? なぜ再会から五年経った今になって、私に会おうとする?
顔を変える理由は、顔を知られていてはうまくいかないから? 時間を置く理由は、何かしらの準備が必要だったから?
もしかして……スノーウィは別人として、私の周囲に紛れこんでいるのだろうか。
私が彼を捨てたから? 私の命令は絶対だ。スノーウィは私の傍にいられない。
だから、スノーウィとしてではなく、別人として私の傍にいようと、考えたとしたら。
疑惑と一緒に私の脳裏に過ったのは、フィリップの顔だった。
私は頭痛がする頭を激しく振った。あり得ない。フィリップがスノーウィだなんて、絶対にあり得ない。だって、フィリップはフィリップだ。彼以外の何者でもない。
それはどうかな? ともう一人の私が囁く。
携帯電話の番号は、フィリップなら知ってて当然。と言うか、フィリップと親父以外に、私の番号を知ってる男はいない。
フィリップは、消極的でスポーツにも喧嘩にも無縁の、イケてない貧乏学生に相応しくない、逞しい体つきをしている。スノーウィが順当に成長していたら、あんな風になっていたのではないか。
何よりも、私だけを見つめる、あのエメラルドグリーンの瞳。彼を翳らせる、寂しさと悲しみの理由に、それで説明がつくんじゃないか?
そんなバカな、と笑い飛ばせない。痺れた頭で考えれば考えるほど、辻褄が合ってしまう。
揺らぐ私にシンクレアが追い討ちをかける。
「お前……さっき、約束があるって、いってたな。……相手とやらが男なら……そいつが彼……スノーウィかもしれんぞ」
私は呆然としていた。私はきしくも、415号室の扉のすぐ隣の壁に凭れかかっている。逃げなければと思った。しかし、逃げてはいけないとも思う。逃げたら、フィリップがスノーウィだと認めることになる。
スノーウィは……え? どういうこと? 私は……スノーウィは、私を……何をどうしたいのだ?
シンクレアの声が、水の中にいるようにくぐもって聞こえた。
「ミケイラ……彼は危険だ。彼は人を殺してる。それも、何の躊躇いも葛藤も無く殺しちまう。金に困ったり、邪魔をされそうになったら、すぐにやっちまう。整形の金はそうして貯めた。彼は獣が狩りをするのと同じ感覚で、人を殺すんだよ」
何処かで聞いたような話だ。スノーウィは危険な猛犬。絶対に捨ててはいけない。
いらないなら、殺処分だ。
シンクレアはふと、囁くように言った。
「……なぁ、ミケイラ。愛情ってやつは、時にどす黒く変質しちまうもんなんだ。愛が深けりゃ深い程、反転したときの憎しみも深くなる」
ええ、わかったわ。もう帰るわ。助けを呼ぶ。だから心配しないで。
そう言おうとしたが、かじかんだような唇は動かない。
心配、してくれている? 違わないか? シンクレアの声調は……うまく言えないけど、例えるなら、電気椅子に座った死刑囚に、最期の言葉をかける看守みたいじゃないか?
そして、私のすぐ横で扉が開いた。




