私の忘れられないひと
フィリップが指定してきたのは、路地を一本折れた先にある、こじんまりとしたおんぼろホステルだった。私は外観からして不潔な建物を、半ば呆然として仰ぎ見た。
これが高級ホテルと言わずとも、せめて、こ洒落たバーのある清潔なホテルだったら、私の胸は乙女チックな期待で高鳴っていたところだ。
フロントでは、オレンジ色の前歯が四本しか残っていない老人が、下品な笑みを浮かべて階段を顎でしゃくった。もしも、この老人が本当は美しい神様だったとしても、私は家に招き入れたり出来ないと思った。
ホステルは支配人と同じく、不潔だ。フロントは手垢と埃に塗れていて、エントランスに敷かれたカーペットは汚らしい。きっとダニだらけだ。
赤く錆びた手摺に服や鞄が擦れないように注意して、階段を上る。
フィリップに指定されたのは415号室だ。階段で四階まで登るのは、予想以上に骨が折れる。今どき、エレベーターがない宿泊施設があるなんて、信じられない。
私はせいせいと肩で息をしながら、なんとか階段をのぼりきった。
こんなことになるなら、らしくも無く踵の高い靴なんて履いて来るんじゃなかったと後悔している。しかし、どんなに辛くてもミュールを脱ぐ気にはならない。このミュールも、帰ったらダストボックス行き確定だ。
息を整えた私は、黴臭さに眉を潜めつつ、廊下をゆっくりと歩き出した。左右にある扉のルームプレートに目をはしらせる。
408、409、410、411……と番号を確かめながら進んでいると、ポケットの中で携帯電話が震えた。
私は通知番号も見ずに、フィリップだと決めつけた。電話を取る、応答する声は我ながら呆れるくらいイライラしていた。
「ハロー?」
それでも、相手の応答を待たずにぺらぺらと文句を並べたてないだけの自制心が残っていた。だから、受話器越しの息遣いの違和感に気付くことが出来た。この豚みたいな息遣いは、フィリップじゃない。
私は携帯電話を耳から放してディスプレイに表示されている番号を確かめた。知らない番号だ。携帯電話ではなく、公衆電話からかかってきている。
悪戯電話だろうか。私は舌うちをした。いつもなら、未登録の番号、特に公衆電話や番号非通知からかかってきても、絶対に出ないのに。平常心を欠いていると、こういうつまらないポカをすることになる。
通話を打ち切ろうと親指を動かした時、スピーカーから漏れた聞き覚えのある音声に、私は耳を疑った。
「……ミケイラなのか?」
シンクレアの声だ。私が聞き間違える筈がない。二度と聞くことが出来ないのではないかと思っていた、大好きなダミ声だった。
私は携帯電話を両手で握り直し、耳に押し当てた。掠れた声でなんとか言葉を紡ぐ。
「あんた、シンクレアね」
「そうだ。君はミケイラだな」
「だったら、なに? 今更、何の用?」
私は努めて冷淡に言い捨てた。本当は悲喜こもごもの感情が押し寄せてきて、声が震えそうだ。
シンクレアは私を捨てた。私も結局は、シンクレアより親父のような人間になる道を選んだ。親父から受け取れるだろうものを全て捨てて、シンクレアの胸に飛びこむことだって出来たのに、しなかった。
私たちは、たがいに失望し合い、たがいを信用できなくなっている。そのことを忘れるな。冷静になれ。シンクレアが「ちょっとお前の声が聞きたくなって」なんて、電話をかけてくることはない。
行方をくらませていたシンクレアが、自ら私に連絡をしてきた。理由はひとつだ。
「……スノーウィがいなくなった」
ほら、やっぱりそうだ。
短くない沈黙が落ちる。私は携帯電話が軋むほど強く握りしめた。
わかりきっていた。スノーウィが関係しているに決まっている。大事な大事なスノーウィがいなくなって、シンクレアはもう、いてもたってもいられなくなったのだろう。もしかしたら、あの性悪ミケイラに見つかって、連れ去られたのかもしれない。
だからシンクレアは、崖から飛び降りる気持ちで、私に電話をかけたのだ。
シンクレアに、執念深い蛇みたいな女だと思われてたなんて、ショックだ。でも仕方ないか。私はそういう女の子だった。
私はあるかなしかの笑みを浮かべて言った。
「知らない。五年前に一度、学校に来たことはあったよ。でもそれだって、あっちが勝手に来たの。私が責められる筋合いはない。その後は一度も会ってないわ。あてが外れたわね、話しはそれだけ? 忙しいからもう切るよ」
私は、シンクレアの口から飛び出すだろう、私を疑う言葉を聞きたく無かった。往生際が悪いことに、私は決定的な言葉を避けているのだ。
不都合な事実には、耳をふさいでしまえばいい。だが、啖呵を切っておきながら、私は通話を遮断出来なかった。
この通話を終えてしまったら、シンクレアとの繋がりは切れてしまう。恐らくは、永遠に。私が逡巡していると、受話器の向こうでシンクレアが言った。
「おい、こら! 切るな、まだ切るなよ!」
「私はスノーウィの失踪には無関係だよ。スノーウィを探す為の力にはなれない。こんな私に、これ以上、あんたの時間を割く価値がある?」
皮肉を言うつもりが、つい、自虐的になってしまう。惚れた弱みだ。シンクレアは、もどかしそうに言った。
「探すまでもない。彼が君を探しているんだ。ミケイラ、今、ボディーガードは一緒か?」
私は眉を潜めた。
「私、今は親元を離れて、一人暮らししてるの。むさくるしい男を連れ歩いたりしない」
「……ひとりか!」
シンクレアががなりたてるので、私は携帯電話を耳から放した。いったいなんなのだ?
「ちょっと、シンクレア? 話が見えないんだけど。忙しいって言ったのは、嘘や強がりじゃないんだからね。これから約束があるの」
「……時間をくれ」
シンクレアが低く唸る。多くの言葉が殺到する唇を閉ざし、どの言葉から外に出そうか、考えあぐねているようだ。シンクレアは苛立たしげに溜息をついて、早口でまくしたてた。
「スノーウィが消えた。もう五年以上も前のことだ。ずっと音沙汰がなかったんだが、ついさっき、彼から電話があった。彼は言ったのさ。自分はバースデープレゼントだから、このふさわしい日に、ミストレスの犬に戻りたい……」
シンクレアから伝え聞いたスノーウィの言葉が、私の頭の中で、スノーウィの声で再生される。五年前に私の前に現われた時の、嬉しそうに私に駆け寄って来るイメージが浮かんだ。
シンクレアは少し声のトーンを落として続けた。
「十年前、俺は君たちを引き離した。そうすることで、君にはまっとうな人間になって欲しかった。そして彼のことは、俺がまともな人間に戻してやりたかった。どんなに苦労しても、やり遂げられると……俺は、思いあがっていたんだ」
シンクレアが長息をつく。魂まで吐き出すような、長い長い息だった。
「思いあがりも甚だしかったよ。彼が大人しかったのは最初のうちだけだった。お前と離れ離れになったと知るや否や、彼は大暴れした。誰も手に負えやしねぇ。彼を宥める為に俺は……苦し紛れの嘘を吐いちまったんだ。
『言葉を話せるようになって、二本脚で歩けるようになって、お前が人間になったら、ミケイラに会わせてやるから』
……ってな」




