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私は性悪ミストレス  作者: 銀ねも
ミストレスの章
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私の奇妙な恩人

 ガードを決めた姿勢のままで、危ういところで私を救った黒ずくめの人物を仰ぎ見る。黒い短髪の男だった。大きなサングラスで目許が隠れているのではっきりしないが、肌のつやから見て、この男も若そうである。

 理想的な綾線で形どられた唇が、特徴的な折れ曲がり方をしていた。微笑んでいるように見えたが、唇から洩れた声色は冷淡だった。


「俺の席だ。退け」


 サングラスの男が拘束する腕に力を込めると、若い男は鶏のように喚いて降参した。サングラスの男が腕を解き、若い男は厄介な荷物のように床に放り捨てた。


 若い男は捻り上げられた腕をしきりに擦った。血のめぐりが滞っていたようで、指先が白い。腰が抜けたのか、スツールの前から動けない若い男は、さっきまでの饒舌ぶりが嘘のように無言で、サングラスの男を睨んでいる。サングラスの男に爪先で軽く蹴られると、若い男は悪態も捨て台詞も置き忘れて、尻に帆を掛け逃げ出した。


 サングラスの男は何事もなかったかのように、若い男が居座っていた席、私の隣に腰を下ろした。


 唖然としていた私は、ようやく我に返った。顔をガードしていた腕をおろす。


 ……ああ、もう。学生になってから、こんなのばかりだ。こんなにしょっちゅう、バカ男に絡まれる女子大生って、私の他にいないだろう。なんだ私は。ゲス男専用のフェロモンでも出してるわけ? そのうち、本気でマズイことになるかもな。


 私は荒々しく鼻息をついて、怒りを納めた。まずは、隣の男に助けてくれた礼を言うべきだ。


「あの……」


 しかし、喉元まで出かかっていた感謝の言葉がつかえた。男は私を凝視している。感謝の言葉は別のものになり変わって、唇から滑り出る。


「なに見てんのよ」


 言ってしまってから、私は顔を顰めた。何を言っているんだ、私は。失敗した。助けてくれた恩人に、この言い草はない。

 失言のせいで二の句を紡げずにいると、男は表情を変えずに言った。


「あの男に何をされた」


 この男は、私の無礼をなんとも思っていなさそうだ。私はひそかにほっとして、スツールに腰を下ろした。ゆるゆると首を横に振る。


「お陰さまで、なにも。しつこく誘われただけ」

「……いいのか」

「なにが?」


 男はなぜか口ごもる。私が目を瞬かせると、難しいことを考えているみたいに眉間に皺を寄せていた男が、肩越しにスイングドアを振りかえって言う。


「奴を生かしておいても」


 私は目を丸くした。私が食い入るように見つめると、男は腰を浮かせかける。私は慌てて言った。


「こんなことでいちいち殺してたら、きりがないわよ」


 私は冗談めかして言った。男が笑えば、さっきの発言は冗談として流せる。なのに、男は笑わない。それどころか、少しむっとしたようだ。


「ああいう手合いは……何百何千何万いようが、一人たりとも生かしておくべきじゃない」


 男は至極当然そうに言う。私は咄嗟に、色めき立つ男のジャケットの袖を掴んだ。


「なにそれ……口説いてんの?」


 男はあからさまに怯んだ。しおしおと着席する。叱られた犬のように悄然としているようだ。


 さぁ、困ったぞ。と私は思った。この男は善意で私を助けてくれたのではなさそうだ。きっと、新手だ。しつこい男を追い払ったのを口実に、口説こうとしているに違いない。


 私のつけつけとした視線に、サングラスの男は気付いたようだった。ちらりとこちらを見たような気がする。サングラスの男は、唇をほとんど動かさずに言った。


「……俺が隣にいるのが嫌なら、席を移動するんだな。ここは俺の席だ」


 私は面食らった。バー・カウンターの内側で、バーテンダーが含み笑う。私と目があうと、バーテンダーは微笑んで言った。


「ええ、そうですよ、ミス。そちらのミスターは、いつもその席をご利用になるんです。その席で、ノン・アルコールのカクテルを一杯飲んでいかれます」


 そう言って、バーテンダーは男にグラスを差し出した。オレンジ色の液体は、オレンジジュースと何かが混ざった、子どもでも飲める甘ったるい飲料なのだろう。男はストライプ模様のストローで、こどものようにそれを呑んでいる。


 男はそれきり、私に見向きもしない。本当に興味がないようだ。

 さっきの言葉は、何も私の為ではなく彼の信条で、用があったのは私にではなくお気に入りの席、ということか。


 私は急に、自分がなんだか自意識過剰な小娘に成り下がった気がした。決まりが悪くて、グラスを掴み、にがみばしる口腔を洗い流す。

 席を移動しよう。腰を浮かせかけると、不意に男が唇を開いた。


「席を移るなら……カウンターの席にしてくれ。奥のテーブル席はダメだ。俺の目が行き届かない」

「なに? 心配してくれてるわけ?」


 私がたずねると、男はストローを軽く噛んだ。少ししてから、呟く。


「貴女を見ていたい」


 私は虚をつかれて黙り込む。男はそれ以上、何も言わない。

 私は結局、席に留まった。フィリップはこの席を指定していたみたいだし。それに、この控え目な信者に、少しくらい良い目を見せてやってもいいだろう。


 酒をちびちびやりながら、私は隣の男を盗み見る。綺麗な線でかたどられた横顔だ。男はストローでオレンジ色の液体を吸い上げている。ストローから唇を放して、言った。


「いいのか」


 男の言葉は独り言のようだった。私は鈍くないけど、それが私に向けられた問いかけだとは思わなかった。

 しばらくしてから、男が同じ言葉を繰り返す。顔が私に向いたので、私に言っているらしいと気が付いた。私は少し戸惑いながら、小首を傾げる。


「何が?」

「俺の隣で」


 男は殆ど吐息だけで言った。男が息を吐くと、南国の果実の爽やかな香りがする。煙草の臭いも酒の臭いも、体臭すら、この男からは嗅ぎとれない。ノンアルコールカクテルの匂いだけを纏っている。

 私は男の切り詰めた問いかけに答える気になった。肩を竦める。


「構わないわ。あんたは不潔じゃないし、臭わないし、強引じゃない。隣にいても、空気みたいで気にならない」


 男はサングラスの奥から、私を見つめている。ややしばらくしてから、男は他聞を憚るように声を落として言った。


「気にならない……邪魔にならないってことか?」


 私は目をぱちくりさせた。


「あんたは私の邪魔をしないもの。それに」


 私は一端言葉を切った。言おうか言うまいか、少し迷ったけれど、やっぱり言うことにした。酒で唇を湿らせる。


「あんたには、助けられた。……あんたが守ったのは、あんたの席なんだろうけど……ついでに、私も助かったの。その一杯は私が奢るわ。……ありがとう」


 ありがとう。感謝を伝えることに、なぜか抵抗を感じた。言う必要がないと、なぜか思ってしまう。男の眼差しや朴訥な雰囲気が、何かを彷彿とさせる。同時に身体の隅々から緊張が抜けていき、かわりに甘い感傷が広がって行くのを感じた。


 私は誤魔化すように、男に微笑みかけた。男は私から目を逸らさずに言った。


「やっと会えた……俺のミス、……」


 俺の、だと? 私はさっと体を引いた。やっぱり、私を口説くのが目的だったのか。私は男の顔を見る。驚いて、硬直した。素っ頓狂な声を上げてしまう。


「ちょっと……なによ、どうしたの?」


 男の頬に、一筋の涙が伝っている。なめされたように固く、表情の出ない顔で泣いている。初対面の女の前で突然泣きだすなんて、おかしな男だけど、軽蔑している余裕も無い。なんだか知らないけど、私が悪いのだろうか。


 男はとめどなく涙を流し続ける。私はすっかり狼狽してしまった。なによ、なんなの、どうしたっての? と同じような言葉で詰問する。


 男はさめざめと泣きながら、囁く様に言った。


「俺はこれから罰を受ける。本当に辛い。心が八つ裂きにされる」


 それ以上、男は語ろうとしなかった。弱った。情緒不安定なのだろうか。

 慰めるべきか、叱咤激励するべきかもわからない。しかし、一応は恩人なのだから、無視するのは薄情だろう。

 私がおろおろしていても、男がめそめそしていても、拉致があかない。私は何か言おうとして、言った。


「よくわからないけど……その罰、さけては通れないの?」


 男はすん、と洟を啜った。


 私は考えを巡らせていた。もっと突っ込んで事情を聞いて、相談に乗るべきだろうか? でも、相手は初対面の男だ。そこまで深入りして大丈夫か?


 初対面なのに、この奇妙な既視感はどこからくるのだろう。


 その時、ポケットの携帯が震えた。フィリップからのメールだ。約束の時間を十分回っている。

 待ち合わせの時刻と場所の変更を知らせるメールだった。私は溜息をつく。メールの文面からして、フィリップはこのメールをだいぶ前に送信したのだろう。だが、今更届いた。

 彼の携帯は化石みたいな機種で、こういう弊害がたまに稀にあるのだ。だから、大事な連絡は電話ですることにしている。ところが、何故か今日に限って、フィリップはメールにこだわるのだ。これもサプライズの一環なのか。


 私は静かに席を立つ。逡巡しながら、男に声をかけた。


「私、もう行くから」


 男は項垂れたまま、浅く頷いた。私はバーテンダーを呼びつけて、支払いを済ませる。約束通り、男の一杯目の代金も支払った。


 私は店を去ろうとした。スイングドアの手前で立ち止まり、振り返る。

 男が私を見ていた。フィリップと同じくらい大きな図体をしている癖に、捨てられた仔犬のようだ。

 私は軽く微笑んで、男に言った。


「客が絡まれても、知らんふりするこんな店には、二度と来ない。だから、もう会うこともないでしょうけど……あんた、名前は?」

「気をつけて」


 男は別れの言葉を口にした。名前を教える気はさらさらないらしい。私は苦笑した。名乗らないなら、勝手に綽名をつけてしまおう。


「私はミケイラ。で、あんたのことはブラックって呼ばせて貰うわ。この場限りのあだ名よ、構わないでしょう? さよなら、ブラック。会えてよかった」


 ブラックが鋭く息を呑んだような気がした。私は振り返らずに店を出たので、本当のところはわからない。



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