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私は性悪ミストレス  作者: 銀ねも
ミストレスの章
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私の不運

 

「楽しんでるかい?」


 荒々しい波のように大げさな抑揚がついた声だ。耳元で喋るには大きすぎる声量である。私は男を瞥見して、その下心を正確に汲み取った。


 なんてことだ。せっかくの楽しい日が台無しじゃないか。


 私はグラスの縁を伝う水滴を指で拭う。男が素直に引き下がってくれる、少ない望みにかけて、素っ気なく言った。


「ええ。恋人を待ちわびる時間って、結構楽しいものよ」

「そうは見えないけどな」


 牽制したつもりだが、男は意に介さない。バカなのか? 男の笑いかたは、そんなつもりはなかったとしても、人をバカにした笑い方だ。バカはお前だ。お呼びじゃないって言ってんだよ。とっとと失せろ。


 男を見ないでいると、私の肩を掴んで、男は自分に私を向き合わせようとした。不意をつかれてどきりとするのではなく、不意をつかれてむっとする。礼儀も力加減も知らないバカを睨むために、つい、振り返ってしまった。


 若い男だった。日に焼けた顔にあどけなさの名残がある。上唇が蜂に刺されて腫れあがったように分厚い。セクシーなのか短所なのか、紙一重だ。長髪はあまりにあっていないが、鳩胸にはりついたタンクトップから、荒々しく胸毛が溢れだしているあたり、見るひとが見れば生唾がわくのかもしれない。

 しかし残念なことに、私は吐き気がする。本気で吐きそうだ。体を固くする私を見て、何を勘違いしたのか、男はますます調子に乗った。


「そいつとはもう終わりだな。あんたみたいな美人を待たせたら、男が寄ってくるのなんて、わかりきったことだろ。あんたの恋人はそれでも良いと思ってるのさ」


 どういう理屈だ。私は鼻白んだ。フィリップが私のことをどうでもいいなんて、思うわけがない。

 私はまた男に背を向けようとしたが、強引に肘を掴まれる。頭の中に火花が散る。男の腕をすげなく振り払った。


 男の下半身が視界に入る。レザーパンツが若い男の脚にぴたりと張り付けている。上半身は逞しいのに、下半身は腰から紐をぶらさげたように細い。あらぬところが膨らんでいるのを見て、私は総毛だった。


 汚らわしいブツをこれ以上見ないように、カウンターの正面に向き直る。目頭を揉んで、頭を振った。


「心配して頂かなくて結構。私たち、将来を誓い合った仲だから」


 私が勝手に決めたのだけど。でも、もしかしたら今日、プロポーズされるかもしれないし。

 若い男が怒りだすかもしれないと思った。しかし、若い男は図体だけのトロールのように、頭が鈍い。脈があると誤解したまま、私の肩を抱き、耳に唇を寄せてきた。


「ちんたらした駆け引きはもう止めだ。いくらだ、ええ? 金ならあるぜ」


 耳殻の些細なうぶ毛に唇が触れて、私は辟易した。どうやら、この男は私を客待ちの娼婦だと勘違いしている。ここはそういうバーなのか。


 私はカウンター・テーブルに倒れこむようにして毛深い腕から逃れた。

 若い男が当惑する気配がする。私はちらりとバーテンダーを窺い見た。バーテンダーは素知らぬ顔でグラスを磨いている。私が待ち合わせをしていると知っている癖に、助け舟を出す気はないらしい。やはりここは、そういうバーなのか。


 私は歯噛みした。フィリップのリサーチ不足とセンスの悪さを恨む。今後、教えてやらなければならないだろう。


 私は穏やかにあしらうことを諦めて、噛みつくように言った。


「お生憎様。私はプロじゃないし、金には不自由してない。だからいくら金を積まれたところで、趣味じゃない男と寝たりしないの。時間の無駄だから、他をあたれば?」


 すんなりと唇をついて出た言葉のあとを追った呼気が、グラスの水面に波紋を広げる。それは若い男の心の凪をもざわめかせたらしい。


「気取ってんじゃねぇ」


 若い男は声を荒げた。恐るべきものは何もないと言う顔だ。その顔が、不愉快なことをされて、我慢する謂われはないと言っている。

 男は唾を吐き捨てた。店を痰壺程度にしか思っていない。

 バーテンダーが少し顔を顰めた。それでも、私の視線には気付かぬふりだ。助けは期待できない。


 男はヒートアップしている。


「客を選り好みたぁ、思いあがったもんだぜ。お前程度の女はな、ちょっと良い店に行きゃあ、いくらだっているんだ。いや、もっと肉付きも愛想もいいオンナがいる。おら、立てよ、阿婆擦れ。店のかわりに躾け直してやらぁ」


 言っている間に、三度も唾を吐き散らかしている。汚ない。これだから、男って嫌だ。


 私は肘でカウンター・テーブルを這い進んだ。後ろ脚で立ち上がるグリズリーのような若い男を見る。アッパーカットのような藪睨みになった。若い男の揺れる瞳に引っ張り上げられるように、口角が吊り上がっていく。


「あんたの鼻っ柱に一発パンチさせてくれるなら、私が金を払ってもいいけど?」


 それか、特製のヘアピンで、三つ目の鼻の孔を開けてやろうか。

 

 若い男の頬骨に、黒い赤身がさしていた。分厚い唇がぶるぶる震える。拳が音叉のように共鳴している。私はカクテルグラスを手に取り、かたむけた。酒を舐めとり、突き刺す辛味に舌を焼かれ、眉根にぎゅっと皺が寄る。薄っぺらな笑顔はキープしておいた。


「イイ店を知ってるなら、そっちに行きなさい。こんなとこで安く済ませようとするから、不愉快な思いをする羽目になるのよ」


 若い男は拳をカウンター・テーブルに叩きつけた。酒が跳ね、ブラウスの袖に飛ぶ。じわじわと沁み込む雫が落ちた場所を、私はまじまじと見詰めた。真っ白な生地の汚らしい染み。むかっ腹が立つ。

 臭い。汗とヤニとアルコールの臭い。不潔な男の臭いだ。私は溜息をついて、吐き捨てるように言った。


「あんたは生意気な阿婆擦れが嫌い。私は臭いバカが嫌い。私たち、相性最悪ね。お互いの為に、とっとと消えて」


 若い男の胸が風船のように膨らんだ。拳が上段に振り上がる。肘はしっかりひかれ、腰には捻りがくわわっている。拳にはきちんと体重がのっている。無防備なまま、奴の拳が私の体の、どこかしかに突き刺されば、或いは叩き込まれたら、私は吹き飛ぶだろう。


 靴裏で床を蹴る。スツールが反転する。踏み切った足が床を踏みしめ回転をとめた。肘を曲げ、前腕を横面に引きつける。


 ガードの姿勢を決めて若い男と向き合った。そして拍子抜けした。若い男は腕を捻り上げられ、取り押さえられていた。



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