風売り
女の子は肉を食べ終え、満足そうに息を吐く。アーシャは手拭いを取り出し、膝を突いて女の子の脂まみれの口元を拭いた。女の子は肉を刺していた竹串を握りしめている。その顔はなぜか自慢げだ。
「迷子、ですか?」
エルリックが確認するように言った。泣くでも怖がるでもなく肉を食う姿と『迷子』という単語が結びつかない。アーシャは「うーん」と悩ましい様子で答えた。
「……たぶん」
口を拭いてもらい、女の子は「むふー」と大きく息を吐く。ご機嫌、なのだろうか? アーシャは小さく笑って女の子の頭を撫でた。
「気ぃついたらここにおってん。でも親御さんの姿はないし、待ち合わせいう歳でもないやん? ほっといて攫われても困るし、『お腹すいた?』て聞いたらうなずいたさかい、ここで串買うて食べとってん」
港町は人攫いにとって都合の良い条件が揃っている。人の出入りが激しく、見覚えのない顔がいても注目を集めづらい。誘拐した人間を荷物に紛れて運びやすい。海上に出てしまえば逃げられることもないし、陸の衛士も手が出せない。調達、移送、逃走が極めて容易なのだ。子供が一人で座っていれば、人攫いの恰好の標的になる。
「どこの子でしょう?」
「んー、見覚えない顔やし、よそから来た子や思うで」
アーシャは女の子と視線の高さを合わせた。
「自分、どっから来てん」
女の子は無言のまま、人差し指を立てて突き出す。エルリックは示された方向を振り返った。彼女の指は境海門に向けられている。
「さっき定期船が着いとったみたいやから、それに乗っとったんかもなぁ」
ふむ、とエルリックは腕を組んだ。定期船から降りた人の波はすでに落ち着き、今は荷揚げ荷下ろしの人夫が忙しそうに行き交っている。この子の親もすでに町に向かったと考えれば、捜索は町で行うべき、ということになるが――
「よっしゃ、ほんなら港を捜してみよか」
アーシャは立ち上がり、女の子と手を繋いだ。女の子はアーシャを見上げる。アーシャは優しく微笑み、小さく繋いだ手を揺らした。エルリックは同意するようにうなずく。今捜索すべきは、町ではなく港だ。
もし女の子の親がすでに町に向かっていたとしたら、自分の娘とはぐれたことを未だに気付いていないことになる。気付けば慌てて戻ってくるだろうし、子供を捜す親の姿は目立つはずだ。だが少なくともエルリックの見える範囲にそのような人間はいない。ならば彼女の親は何らかの理由で港に足止めされている可能性を考えるべきだろう。娘の不在に気付けないほど切迫している、または気付いても追いかけられない状態にある。エルリックはわずかに表情を引き締めた。
「行くで。お姉ちゃんと港を大冒険や」
女の子はこくんとうなずく。二人は腕を振りながら港へと歩き始めた。エルリックは二人の背中をじっと見つめる。
――あるいは、娘を捜す気がないか
小さく首を横に振り、エルリックは二人の後を追った。
町と港の境界には『境海門』と呼ばれる門がある。税を払わぬ物品の流入を防ぎ、戦時には敵の侵攻を阻止する、重要な防衛施設だ。門は幅、高さとも大型の馬車が一台通れるほどの大きさしかなく、両脇では門番が目を光らせていた。門の左右には石造りの防壁が伸び、町と港は完全に隔離される。港は町の一部であり、同時に異界なのだ。
女の子が顔を上げ、釣られてエルリックも上を見る。アーチ状の門は威圧感を伴ってエルリックを見下ろしていた。昼は開放されている門に足を踏み入れる。頭上にはぽっかりと開いた穴――殺戮孔がある。この穴から熱湯や油、石を落として侵入者を阻むのだ。数秒の暗がりを抜け、三人は港へと入った。
「今日も威勢がええなぁ」
港の様子を見て、アーシャは嬉しそうにつぶやいた。故郷がまさに発展の最中にあることを喜んでいるのだろう。魚市場では陸に揚げられた魚が並び、漁師と仲買が駆け引きを繰り広げている。荷下ろし場ではリズムの良い掛け声と共に荷が荷車に乗せられる一方で、船長らしき男と町の商人の使いが契約の下交渉をしていた。計量場に荷車が列を作り、「早くしろ」と怒号が飛ぶ。船員が小遣い稼ぎにちょっとした小物を道端に広げ、訪れた人々に声を掛けていた。女の子はきょろきょろと周囲を見回す。両親を捜しているのか、物珍しいだけなのか、表情からは判別できない。
「風はいらんかー」
不意に聞こえた声にエルリックは振り返った。アーシャと女の子が足を止める。
「どしたん?」
「いえ、今、不思議な声が――」
言いながらエルリックは周囲を見渡す。大小入り混じる大量の袋を積んだ荷車を引く中年の男が目に入った。
「風はいらんかねー」
中年の男はそう言いながらゆっくりと進んでいる。アーシャは小さく首を傾げた。
「ただの風売りやん」
「風売り?」
不思議そうにつぶやくエルリックをアーシャは不思議そうに見つめる。
「風売り。知らん?」
エルリックは素直にうなずく。「そうなんや」と納得したようにうなずき、
「ほな、買うたるわ」
そう言うと、アーシャは風売りに向かって大きく手を振った。
「おっちゃん、一個ちょうだい!」
風売りは軽く手を上げて応え、小走りに近付いてくる。荷車の車輪がガラガラと石畳に跳ねた。
「まいど。どれにします?」
「いっちゃん小さいんでええわ」
風売りは荷車から手のひらに載るほどの大きさの袋を選び、アーシャに渡した。袋は口が赤い紐で縛られ、丸く膨らんでいる。アーシャは懐から金入れを取り出し、鉄銭を六枚渡した。エルリックは不可解そうに言った。
「これが、風、ですか?」
風売りが少し驚いた顔をする。
「おや、御存じない」
「そやねん」
アーシャと風売りは顔を見合わせ、にやりと笑い合った。不吉な予感にエルリックが眉を寄せる。アーシャはエルリックの顔の前に袋を持ってくると、口紐の端を強く引っ張った。
――ビョウ!
鋭い音と共に袋から強い風が吹き出し、エルリックの顔を打つ。黒髪が風に乱され、眼鏡がずれる。エルリックは呆然とアーシャの持つ袋を見つめた。中身を失った袋が手の上で萎んでいる。
「どや?」
「……確かに、風、ですね」
エルリックが何度も瞬きをする。女の子がアーシャの服を引っ張った。アーシャは笑って女の子の頭を撫でると、袋をくるりと回して風を詰め、器用に口紐を結び直して、女の子の顔に袋の口を向けた。
「いくで?」
アーシャが口紐を解く。風は先ほどより幾分威力を弱め、女の子の髪を躍らせた。女の子は「ほー」と目を丸くする。アーシャは満足そうにうなずいた。
「これは『風袋』と言って、船乗りたちにとっての縁起物なんだよ」
船乗りたちにとっての恐怖の一つは、完全な凪によって広大な海の真ん中で身動きが取れなくなること。凪に遭遇しても船が動きますように、という祈りを込めて、出航する際に家族が船乗り本人に風袋を送る、というのが、ヘレシア周辺に昔から伝わる風習なのだと風売りは言った。眼鏡を直し、エルリックは驚いたように身を乗り出す。
「この袋で船が動くのですか?」
「まさか、動かないよ」
風売りはハハハと笑う。エルリックはやや気恥ずかしそうに身を引いた。あくまでお守り、悪く言えば気休めだと言い、風売りは視線を空に向けた。
「昔は本当に船を動かすような風袋を作る魔法使いもいたと聞くけどね。今はせいぜいそよ風を生み出すくらいさ」
エルリックは風売りの視線を追う。魚を狙っているのだろうか、海鳥が空で輪を描いていた。風売りは「おっと、無駄話しちまった」とつぶやくと、
「ありがとう。またごひいきに」
と言って荷車を引き、去っていった。エルリックはアーシャの手にある風袋を見る。エルリックのどこか夢か幻を見るような表情に、アーシャは楽しそうに笑った。




