星灯花
「あら、エルリックさん」
港に続く道を歩くエルリックに声が掛かる。朝のまだ柔らかい日差しが町に降り注いでいた。港はすでに目覚め、町と港を隔てる石造りの門が無数の人を吐き出し、吸い込んでいる。門の向こうから威勢の良い掛け声が響いてくる。
「おはようございます、マダム・マーガレット」
振り返り、エルリックは声の主に微笑みを返した。背筋を伸ばして立つマーガレットは年齢よりずいぶんと若く見える。マーガレットは嬉しそうな表情でエルリックに近付いた。
「おはよう。朝早くからお仕事? ご苦労さま」
「いえ。仕事半分、興味半分、と言ったところです」
ガラガラと荷車が石畳を勢いよく駆けていく。明日の繁栄を疑わない力強さがそこにある。
「この町の何に興味がおありかしら?」
荷車の背を目で追いながらマーガレットは尋ねる。そうですね、と思案げに視線を上げたエルリックに、風に乗ってかすかな花の香りが届いた。
ロズの資料を読んで理解した衛士隊の問題点は、いずれも領主ナセルを動かさない限り解決できないものだ。衛士隊士の給金を上げるには領主の承認が必要で、衛士隊の権限の明確化は政令の改定に印をもらう必要がある。使途不明金については、そもそもナセルが犯人である可能性もあるのだ。地方領主は国に対して毎年、領地収入を報告して税を納める義務を負う。経費の中抜きが不正蓄財の常套手段だということは、中央官吏の共通認識となっている。
そして、隊士の給金を上げろと迫っても、衛士隊の権限を明確に規定しろと声を上げても、不正蓄財は許されないと叫んでも、ナセルは指の一本も動かさない。ナセル、あるいは貴族という生き物を動かすのは、『受け入れたほうが得だ』という打算と、『受け入れなければ終わる』という危機感だけだ。
だからエルリックはこの町を知らねばならない。ナセルを動かし、操るための手札を集めるのだ。確実に追い詰め、一撃で仕留める銀の短剣を、エルリックは必要としていた。
「この香り」
エルリックは中空を指して言った。
「領主の館を出たとき、同じ香りがしました。何の香りかご存じですか?」
マーガレットは目を閉じて鼻から風を吸い込むと、「ああ」と言って目を開いた。
「これは『星灯花』ね」
「星灯花?」
心当たりのない様子のエルリックに、マーガレットは小さく微笑む。
「若い方はご存じないかしらね。昔、少しだけ都でもてはやされた花よ」
星灯花は、今から五十年ほど前にヘレシア周辺で発見された花だという。楚々とした白、あるいは薄い蒼の花弁を持ち、ほのかに甘く香る。それだけでも充分に美しいが、この花には他にないもう一つの特徴がある。
「夜になるとね、淡く光るの。夜空でひっそりと光る星のように」
一等星のようなまぶしい輝きではない、他の星を引き立てるように儚く光る星。星灯花はそんな控えめな姿で暗闇に佇む。
「時の王妃がその清楚な美しさをたいそう気に入ってね。都の貴族たちは王妃の歓心を買おうとこぞって星灯花を求めた。当時からヘレシアを治めていたグレイホーン家は星灯花の採集栽培を禁じ、星灯花を自家の専売としたの。星灯花は高額で取引され、グレイホーン家はかつてなく潤ったそうよ。まるで過去の栄光を取り戻したみたいに」
星灯花を通じて王妃の知遇を得たグレイホーン家は、悲願である中央政界への返り咲きまであと一歩、というところまでたどり着いていたという。しかし、その夢はあえなく潰える。王妃の急逝という思いがけない出来事によって。
「王は王妃を無数の星灯花で覆い、天に送った。それはこの世のものとは思えないほど美しい光景だったそうよ。それ以来、星灯花は死者を悼む花になった」
死のイメージをまとう星灯花の需要は急減し、王妃という後ろ盾を失ったグレイホーン家も中央への政治的影響力を断たれた。だが、グレイホーン家は未だに星灯花を自家の管理下に置き、自家以外の収集栽培を禁じている。
「星灯花はきっと、グレイホーン家にとっての夢の残り火。届くはずだった未来の面影なのだわ」
マーガレットは遠く思いを馳せるように空を見上げる。そして少し寂しげに微笑んだ。
「不思議なものね。花はただ咲いているのに、人はそこに勝手な想いを重ねる。美しさに心動かされたことも、死者への想いも、栄光の夢も、その花の美しさとは何の関係もないというのにね」
マーガレットのつぶやくような言葉に、エルリックは答えられぬまま彼女を見る。マーガレットは軽く息を吸い、声を明るくして言った。
「あなたの疑問の答えになっていたかしら?」
「充分です。ありがとうございます」
胸に手を当てて謝意を示すエルリックに、
「お役に立てたようでよかったわ」
マーガレットは美しく笑った。
マーガレットと別れ、エルリックは再び港に向かって歩き出した。太陽は高さを増し、生温い海風が肌にまとわりつく。町と港を分かつ『境海門』に出入りする男たちはほとんど半裸と言っていい姿で行き来している。苛酷な労働に耐えるための荷運び歌が遠く聞こえた。
「……アーシャさん?」
見知った後姿を見つけ、エルリックは声を掛ける。「むぐっ」と奇妙な声で唸ってビクリと背を伸ばし、アーシャは苦しそうに自分の胸を叩いた。何かを飲み下し、アーシャは荒い息を吐いて振り返る。口元が油でテカテカと光っていた。
「なんや、おにーさんか。急に声かけるからびっくりしたわ」
少し恨みがましい目でアーシャはエルリックを見る。アーシャの手には大きなバスケットがあった。港で働く人夫たちに朝食を届けに来た、といったところだろう。エルリックはじっとアーシャを見つめた。
「出前の品を勝手に食べるのはいかがなものかと」
「なんでそうなんねん!? してへんわそないなこと!」
アーシャは勢いよく後ろを指さす。そこには美味しそうな匂いを振りまく串焼きの屋台があった。取り調べでじっくりと犯人を追い詰めるように、エルリックはゆったりとした口調で言った。
「ならばどうして、私が声を掛けたときにあれほど動揺したのですか?」
「そ、それは……」
アーシャが目を逸らし、言葉の続きを失う。エルリックは優しい眼差しをアーシャに向けた。
「……出前の品を、食べたんですね?」
「……はい。私がやりました――ってちゃうわ! あっぶな! 危うく無実の罪で人生棒に振るとこや! 料理はもう届け終わってます! 今はその帰り道です!」
アーシャの必死の主張を、エルリックはふっと笑っていなした。
「動揺し、その後饒舌になり、大声でまくしたてる。典型的な犯人の行動です」
「ほんまや」
目を丸くして感心したようにアーシャはうなずく。エルリックは深い慈悲を瞳に湛えた。
「認めますね?」
「認めるかいっ! やってへんゆうてるやろ!」
「自分が苦しくなるばかりですよ」
「くぁあ、なにその強固な疑心!? どう言うたら分かってくれんの!?」
アーシャは頭を抱えてしゃがみ込む。しばらく悩んだ末、アーシャはしゃがんだまま上目遣いで、小さく掠れた声で言った。
「……おにーさんは、うちのこと信じられへんの?」
エルリックは胸に手を当て、痛みに耐えるように目を閉じる。
「個人の感情で真実を歪めてはならない」
「情に流されぬ優秀な衛士っぷり! でもその優秀さをここで発揮せんといて方向性間違うてるから!」
ぬがぁ、と雄たけびを上げ、アーシャは勢いよく立ち上がる。
「とにかく! うちはやましいことは何もしとらん!」
「ならば最初に動揺した理由を説明してください」
エルリックに正面から見つめられ、アーシャは「うっ」と言葉に詰まる。目を逸らし、足を交差し、手を腰の後ろに回して、アーシャは尖らせた口からぼそぼそと答えを吐き出した。
「……買い食いしとったの、見られたん、恥ずかしなー、って」
エルリックは不可解そうに眉を寄せる。
「恥ずかしい、ですか?」
「恥ずかしいな」
ふーむ、と小さく唸り、ハッと何かを思いついたようにエルリックは口を開く。
「お金を払っていないとか?」
「いや、そういう『人として恥ずかしい』感じちゃうねん」
うーん、と再び唸り、エルリックは首を傾げる。
「そういう、ものですか」
「そういうもんなんです」
なる、ほど、とつぶやき、エルリックは葛藤をその顔に浮かべる。やがて自分の中の折り合いがついたのか、エルリックは姿勢を正し、アーシャに頭を下げた。
「申し訳ありません。私の誤解だったようです」
「うむ。分かってくれたらそれでええわ」
顔を上げ、エルリックは真摯な眼差しでアーシャを見る。
「あなたならやりかねないと、つい」
「一言多いわ。胸に秘めときその言葉」
二人の視線がぶつかり、しばし。アーシャは耐えかねたように吹き出した。
「朝から何やっとんねんな、うちら」
「失礼しました」
エルリックは柔らかく微笑む。ひとしきり笑って、アーシャは切り替えるように言った。
「おにーさんは? こんなとこで何してん?」
「朝の巡回を」
アーシャは意外そうに軽く目を見張る。
「隊長さんやのに?」
「人手不足ですから」
そら大変やねぇ、と答え、すぐにアーシャはニカッと笑った。
「でも、ちょうどよかった」
アーシャは自分の足元に視線を向ける。
「この子の親御さん、捜すの手伝ってくれへん?」
彼女の足元には、どこかふてぶてしさをまとって串肉にかぶりつく、五歳くらいの女の子の姿があった。




