歓迎
――パチパチパチ
騒動が去った酒場に小さな拍手が起きる。拍手は伝播し、建物全体を包む。皆の称賛の視線に戸惑いを浮かべながら、エルリックは船乗りの男が残した金入れを店長に届けた。
「足りますか?」
店長は金入れの口紐をほどき、中を覗き込む。
「充分。ちょっと多いくらいかしらね」
迷惑料ってことで頂いておきましょ、と言って、店長はカウンターの下に金入れをしまい込む。船乗りに絡まれていた少女がエルリックに頭を下げた。
「あの、ありがとうございました」
「いいえ、災難でしたね」
エルリックは柔らかく微笑みを返す。わずかに頬を染め、少女は首を横に振ると、アーシャに向き直って言った。
「お姉さんも。ありがとう」
「かまへんかまへん。うちが勝手に腹立てとっただけや」
アーシャは少女に近付き、腕を広げて抱きしめる。
「怖かったなぁ。でも、ちゃんと自分で逃げられたやんな。えらいなぁ」
少女の目に涙が盛り上がり、頬を流れる。少女はアーシャの胸に顔をうずめ、アーシャは少女の背を優しく叩いて「えらい、えらい」と繰り返した。
「一杯おごらせてくれ」
常連客の一人が空のグラスと酒瓶を手にエルリックに話しかける。エルリックは軽く手を上げて首を横に振った。
「いえ、大したことでは」
「まあまあ、そう言わずに。あの子らはまあ、アタシらの娘みたいなもんだからさ」
別の一人が酒瓶を差し出し、ずいっとエルリックに迫る。エルリックは気圧されたように後ろに下がり、すとんと椅子に座った。誰かが差し出したグラスに酒が注がれ、エルリックの手に握らされる。正面にいる男がグラスを高く掲げた。
「若き英雄に乾杯だ!」
掛け声に同調し、皆がグラスを掲げ、一気に酒をあおる。エルリックは手のグラスを見つめると、
「……では、遠慮なく」
そう言ってグラスの酒を飲み干した。周囲から感嘆の声が上がる。
「いい飲みっぷりじゃないか。惚れるねぇ」
中年の女性が豪快に笑い、エルリックの肩を叩く。にこやかに笑みを返し、エルリックは少し表情を改めた。
「このようなことは、よく?」
常連客達は腕を組み、視線を上げる。
「うーん、毎日あるわけじゃないが、ちょくちょくはあるね」
「だいたいアーシャがうまく捌くんだけどさ」
「今日は間が悪かったねぇ」
常連客の声を聞き、エルリックの表情が厳しいものに変わった。エルリックのグラスに新たな酒を注ぎ、客たちが笑う。
「おや、若き衛士隊長様としちゃあ許せないかい?」
「せや!」
衛士隊長、という言葉に反応したのか、アーシャが少女を抱いたまま大きな声で割り込んでくる。
「おにーさん、偉いさんやってんな。何で言うてくれんかってん。水くさい」
アーシャは不満そうにエルリックをにらむ。少し考えるような仕草をして、エルリックはゆっくりとした口調で答えた。
「衛士、という職業に、良い印象を持たない方もいらっしゃいますから」
常連客達は納得したように「あー」とうなずく。
「衛士なぁ」
「やる気ないもんな、あいつら」
「アーシャが絡むとちょっと動くけどな、あいつら」
「殴られるのが怖いからな」
「殴られるのが怖いからだな」
「ちょっと! 人聞きの悪いこと言わんといて!」
アーシャが常連客達をギロリとにらむ。客たちは慌てた様子で各々別の方向に顔を逸らせた。言い訳のように一人の男がエルリックに酒を注ぐ。中身がこぼれそうになり、エルリックは慌ててグラスに口を付けた。
「それにしても、あなたみたいないい人が衛士隊に来てくれてよかった。前の隊長が逃げ帰ってからずっと空席だったから、ようやく安心して寝られるわ」
店長が嬉しそうにエルリックを見る。常連客達はこぞって吹き出した。
「店長が、不安で寝られないって?」
「ない、ない」
無遠慮に笑う客たちに店長は不服そうな表情を浮かべる。常連の一人が笑いながら言った。
「さっきの船乗りが本当にアーシャを殴ってたら?」
「全身を粉々に砕いて桟橋から海に沈める」
店長の表情が地獄の悪魔のそれに変わる。アーシャが引きつった顔で言った。
「店長。顔がこわいこわい」
「あら、私ったらはしたない」
人間の顔に戻り、店長は気恥ずかしそうに頬に手を当てる。先ほどの凄まじい殺気と今のしおらしい態度のギャップにエルリックは目を丸くした。店長は小さく咳払いすると、表情を改めて言った。
「来てくれてよかったと思ったのは本当よ。この町はこれからどんどん変わっていくわ。そんなときに若いあなたが、この町を守る立場で来てくれた。それはとても嬉しいことなのよ」
店長は手元でグラスに酒を注ぎ、目の前に掲げた。
「ようこそ、ヘレシアへ。私たちはあなたを心から歓迎する」
「よろしくな、おにーさん」
アーシャがニカッと笑い掛ける。裏のない感情に一瞬動きを止め、エルリックは皆を見渡し、頭を下げた。
「……よろしく、お願いします」
客の一人がジョッキを掲げて叫ぶ。
「乾杯だ!」
「さっきやったろ」
「いいんだよ! 乾杯は何回やっても!」
グラスを合わせる音が聞こえる。肩をバシバシと叩かれる。笑い声が響く。赤いランプの灯が揺れている。干してもすぐさま注がれる酒に、エルリックは笑った。
窓から差し込む月明かりだけを頼りに、エルリックはベッドに倒れ込む。少し飲み過ぎたらしい。この町の人々は新参者に遠慮がない。
「……ふぅ」
大きく息を吐き出す。味のする酒を飲んだのは久しぶりだ。こんなに酔ってしまうのも。王都にいたときはどれだけ飲んでも酔うことはなかった。もっとも、これだけ無遠慮に酒を勧める人間は王都にはいなかったが。任地に到着し、送っていた荷物を解いて、少し町の様子を見る――それだけだったはずの一日が、ずいぶんと変わってしまったものだ。
――これから、どう動くか
ぼんやりとした頭で明日の算段を始める。偶然とはいえ地元の住民と、それも顔の広そうな何人かと繋がりを持てたのは悪くない。衛士隊長という身分を晒したのは軽率だっただろうか。王都の閉塞感から解放され、あるいはこの港町の解放感に当てられて、少し気を緩め過ぎてしまっていたのかもしれない。思えば無防備に人々と接しすぎた。王都にいたときには考えられないほどに。
マダム・マーガレット。ひったくりに荷物を奪われかけた、下町の老婆、だが、それだけで片づけるにはいささか品が良すぎる。物腰は凛として、しかし威圧感を与えない愛嬌がある。そして何より、相当に勘がいい。エルリックが漏らした『官舎』という言葉だけでこちらの立場を察していた。衛士隊長が長期に空席だったことが周知の事実だとしても、普通は二十歳そこそこの若造と衛士隊長の地位を結び付けはしないものだ。情報を収集・分析することに長けている――あるいは、そういう訓練を受けている。どちらにしろ『下町の老婆』に似つかわしい能力ではない。
『木登り仔猫亭』の店長も、立場と能力に釣り合いが取れていない。独特の口調は置いておくとして、彼の身体の使い方は正規の軍事訓練を受けた者のそれだ。常連に「アーシャが殴られていたら」と問われたときに放った殺気は、命のやり取りを日常としていた人間に特有の乾いた質感があった。「全身を粉々に砕いて桟橋から海に沈める」という彼の言葉は無論冗談だろうが、それは『できないことを言った』のではなく、『やろうと思えばできるがやらない』ということだ。そのような戦闘力が酒場の店長に必要とは思えない。
彼らと出会ったのは本当に偶然だろうか? ひったくりが出会いを演出するための芝居だったら? マーガレットが『木登り仔猫亭』を紹介したのは、店長にエルリックを視認させるため? エルリックが『木登り仔猫亭』を気に入れば、日々の食事はそこで取ることになる。そうなれば自然に、日常的に行動を監視できる――
「……考えすぎだ」
エルリックは小さく首を振った。ここは王都ではない。常に他者を陥れようと隙を窺う亡者どもの蠢く魔窟ではないのだ。それに田舎の港町の衛士隊長という地位は、権謀術数を張り巡らせる相手としては不足している。仮にエルリックが衛士隊長の地位を追われたとして、それが誰にどんな利益をもたらすだろう。マーガレットは人生経験豊富な賢い老婆。店長は元軍人の料理人。そうだとして矛盾はない。疑い、勝手に不審に陥る必要は、このヘレシアにはないのだ。
エルリックは一人の少女の顔を思い浮かべる。アーシャという名の、この町の活気を体現したかのような赤毛の少女。彼女には、どれだけ裏読みをしようとしても陰に潜むものが見当たらない。腹が立てば怒り、楽しければ笑い、理不尽をにらみつけ、怯える少女を抱きしめる。打算という『思考』を飛ばして『感情』が行動に直結する。愚かしいほどにまっすぐで、まぶしい。
「……ああ、彼女は、あの方に少し似ている」
ほんの半月ほど前まで常に一緒にいた親友を思う。無事でいるだろうか。自分がいなくて大丈夫だろうか。何かやらかしていないだろうか。こんな東の果てでは、様子を知る術さえもない。
飲み過ぎだな、と思う。思考が取り留めなく逸れていく。考えて意味のあることと意味のないことを峻別できていない。ならば、もう寝るべきだ。明日にも朝は来て、朝が来れば動かねばならないのだから。
明日は領主に着任の挨拶をしてから、衛士隊詰め所に向かう。ヘレシアの領主に良い噂は聞かない。衛士隊も町の人々から頼られてはいないようだ。多難の始まりを想像しながら、エルリックは目を閉じた。




