騒動
「いいじゃねぇか。こっち来てお相手してくれよ」
黄ばんだ歯をむき出しにして、船乗りの男が給仕の少女――アーシャの同僚に醜悪な笑みを向ける。腕を掴まれて逃げられない少女はお盆を胸に抱いて怯えるように震えていた。常連客が「これだから一見は」と呆れたように苦笑いを浮かべる。船乗りの男の仲間たちは酒瓶を片手にはやしたて、少女はうつむき、身を固くした。
「もーうしわけございません、お客様。うちはそういうサービスやってないんですわ」
船乗りたちの下卑た歓声を塗り替えるような大声でそう言いながら近付き、アーシャは少女を掴む船乗りの男の手を掴む。
「ここは食事とお酒を楽しむお店ですよって、きれいなおねーちゃんと飲みたいんやったら別の店にお願いしますわ」
感情を抑えた声から抑えきれぬ怒りが滲む。頭一つ分高い船乗りの顔をにらみ上げるアーシャを、船乗りの男は不快そうに見下ろした。
「あぁん? 邪魔すんじゃねぇよ。すっこんでろ」
しっしっ、と犬を追い払うように男は手を振る。頬をピクリと引きつらせてアーシャはわずかに声の高さを上げた。
「そうはいかん。この子ぉはうちの大事な妹やさかいな」
船乗りの男はあからさまに鼻を鳴らし、バカにしたように言った。
「オレたちゃこっちの彼女と楽しく遊んでんの。おめぇはお呼びじゃねぇんだよ。とっとと帰って穴が空くまで鏡でもにらんでろバーカ」
なぁ、と男は身を屈めてうつむく少女の顔を覗き込む。少女は声もなく首を横に振った。男たちが楽しげに笑う。アーシャの額に青く血管が浮かんだ。
「……よぉーわかった」
アーシャは目を伏せ、かすれた声で言った。男たちが勢いづき、
「わかったんならとっとと消えろ!」
勝ち誇った顔で怒鳴る。アーシャは男の手を掴んでいた手を離し――
「……そのスッカスカの頭でも完っ全にわかるようわかりやすーく言うたるわ」
拳を握りしめて少女を掴む男の手に思い切り振り下ろした。
「いっっってぇ!」
手の甲を痛打され、男は思わずといった様子で少女から手を離す。アーシャは少女に目配せし、少女は目に涙を浮かべたまま店長のいるカウンターへと走った。アーシャは大きく息を吸い、烈火のごとき双眸で男にまくしたてる。
「今すぐこっから出ていきさらせこのドサンピンが! ブッサイクなツラぶらさげとる分際で人間様とおんなじ空気吸えると思てんちゃうぞワレェ! 女の子の視界に入るだけで犯罪やっちゅう自覚あるんかボケカス! せめてそのザザ虫並みの脳みそで世間様に迷惑かからんと道歩く方法考えてから出直せやこのゴミムシが!!」
打たれた手の痛みを忘れたように男がぽかんと目を丸くする。少しの間の後、アーシャの言葉の意味が徐々に浸透してきたか、男の顔が紅潮し、肩がわなわなと震え始めた。男は憤怒の形相で怒鳴る。
「……てめぇ、ぶっ殺されてぇか!」
「こっちのセリフじゃボケェ! ウチの妹泣かせくさりよって、この落とし前どうつけるつもりじゃアホンダラが!」
周囲の船乗り仲間たちの雰囲気が剣呑なものに変わる。何人かが腰のカトラスに手を掛けた。まるで怯む様子のないアーシャに引っ込みがつかなくなったのだろう、男が丸太のような腕を振り上げ、
「こ、このアマ!」
ためらいもなくアーシャの顔に向かって振り下ろす。アーシャは避ける素振りもなく、ただ純粋な怒りで男を見据えた。拳がアーシャの頬を打つ――その寸前。
「そこまで」
アーシャの背後から伸びた手が男の拳を受け止めるパシンと乾いた音が響いた。
「おにーさん」
意外なものを見る目で、アーシャは拳を受け止めた手――エルリックを見る。エルリックはひどく冷めた瞳で、男とアーシャの間に割り込んだ。押し出されるようにアーシャが後ろに下がる。エルリックは静かな声音で言った。黒縁の眼鏡がランプの光を反射している。
「これ以上は、酔った勢いで大目に見る限度を超えている」
「てめぇ、邪魔してんじゃねぇぞ!」
拳を受け止められた男がアーシャの口撃にやりこめられた苛立ちをぶつけるようにエルリックをにらみ、手を振り払おうとして――ハッと目を見開く。エルリックに掴まれた拳が、ピクリとも動かない。動揺を隠すように男は歯をむき出しにして怒鳴る。
「どけ! ぶっ殺すぞ!」
男の大声に不快そうに顔をしかめ、エルリックは小さく息を吐く。
「私に敵対するような言動はお勧めしない。自分の身が可愛いなら」
「はっ!」
男は馬鹿にしたように鼻を鳴らした。
「てめぇみてぇな若造が、どこの何様だってんだ、なあ、お前ら!」
男は肩越しに仲間に呼びかける。仲間たちは一斉に「そうだ!」「ふざけんな!」と声を上げる。だが、彼らの反応はどこか及び腰だった。エルリックの冷静な態度に、知らず気圧されている。確かに私は若造だが、と前置きをして、エルリックは淡々と言った。
「これでも町の衛士を束ねる立場だ。無法者を見過ごしては信用に関わる」
「そうなんっ!?」
アーシャが驚いたように目を丸くする。常連たちも「へぇ」と値踏みするような視線を向けた。船乗りたちに動揺が走り、男は幾分裏返った声で叫ぶ。
「え、衛士が、何だってんだ! 俺たち全員相手に、何ができる!」
ふむ、と人差し指で眼鏡に触れ、エルリックは「たとえば」と答えた。
「明日の朝一番に、君たちの乗る船に臨検でも掛けようか。一週間ほどかけて、念入りにね。無論、その間は出航を許可しない。君たちが運ぶ荷は期日までに届かないかもしれないが、仕方のないことだ」
想定した回答ではなかったのか、船乗りたちが言葉を失う。まるで興味の無さそうにエルリックは言葉を続けた。
「荷主はさぞ怒るだろう。その事態を招いたのが、酒に酔った船員の愚行だと知ればなおさらだ。船乗りの流儀は詳しくないが――」
エルリックはその目にかすかな同情を浮かべた。
「このことが船長に知れたら、君たちは魚のえさになるのかな?」
船長、という言葉に、船乗りたちの顔から血の気が引く。しばしの葛藤を経て、互いに顔を見合わせぶつぶつと言葉を交わすと、船乗りたちはエルリックを一斉ににらみつけ、
「憶えてやがれ!」
そう言って一目散に逃げだした。エルリックに拳を掴まれた男も同調しようと身体をひねる。だが、エルリックは手を離さなかった。男はなぜだと言いたげにエルリックをにらむ。エルリックは幾分声を低くした。
「代金は置いて行け」
男は吠えたてる犬のように顔をしかめると、懐から金入れを取り出し、叩きつけるように机に置いた。エルリックが手を離す。男は全力で酒場の入り口まで駆けると、振り返って大声で喚く。
「二度と来るかこんな店!!」
若干涙声の捨て台詞を残し、男は『木登り仔猫亭』から逃走した。




