木登り仔猫亭
そのまま立ち去ることがためらわしかったのか、青年は老婆に「送りましょう」と申し出た。ひったくりにあった直後だったためだろう、老婆もその提案を素直に受け入れる。青年は老婆の荷物を抱えた。真昼のヘレシアの中央通りを、今日初めて会ったばかりの二人が並んで歩く。
「そう言えば、名前もお伝えしていなかったわ」
失礼しました、と軽く頭を下げ、老婆はマーガレットと名乗った。青年は恐縮するように首を振り、背を伸ばすと、胸に手を当てて微笑む。
「エルリックと申します、マダム・マーガレット」
まあ、と口に手を当ててマーガレットは目を丸くする。
「マダムだなんて、初めて言われたわ」
「お嫌ですか?」
エルリックは穏やかな微笑みを絶やさない。マーガレットは上機嫌に答える。
「いいえ、とても素敵な気分」
こぼれる笑顔を抑えきれないように、マーガレットは歩き始める。エルリックは彼女の横に並んだ。港から続く通りを町の中心部に向かって歩く。
通りは人が十人並んで歩いても余裕がある広さがありながら、そこを行き交う人々は左右の端に固まって歩いている。誰に指図されたわけでもないのだろうが、港を背にして右側を歩くのは港に向かう人々、左側を歩くのは港から町に向かう人々、という暗黙の了解があるようだ。荷下ろし場で異国の品を積み込んだ荷車が結構な速さで通りの中央を駆け抜けていく。つまり、この町の道の主役は『荷物』なのだろう。
「お住まいは? もう決まっていらっしゃるの?」
人々の様子を興味深そうに見ていたエルリックにマーガレットは歩きながら尋ねた。街並みの景色が少し変わり、様々な――食料品から雑貨、真贋の分からぬ宝石や美術品まで――品を扱う露店が軒を連ねる。客を呼び込む威勢の良い掛け声があちこちから聞こえた。用途の分からぬ不思議な形の壺に目を奪われながら、エルリックは答えた。
「ええ。官舎――には、もう荷物が届いているはずです」
思わず口走った言葉に一瞬だけ顔をしかめ、何事もなかったような顔に戻る。マーガレットはパチンと胸の前で両手を打ち、ふふふと笑った。
「そうなの。だったらあなたもご近所さんね。嬉しいわ。これからどうぞよろしくね」
「そうでしたか。こちらこそ、よろしくお願いします」
こんなに素敵な若い人が来てくれるなんて若返りそうだわ、とマーガレットは軽やかな足取りで弾むように歩く。露店の並ぶ通りを過ぎ、街並みが少しだけ落ち着いた雰囲気に変わった。商売の音から生活の音へ。子供を怒鳴る母親の声が聞こえる。
「困ったことがあったら何でも言ってね? きっとお役に立てるわ」
踊るようなステップを踏み、マーガレットは歌うように言った。エルリックは少し考える様な表情を浮かべ、それでは、と口を開いた。
「近くで食事のできる場所はありますか? できれば安くて美味しいところを」
マーガレットが足を止める。釣られてエルリックも足を止めた。マーガレットがじっとエルリックの顔を覗き込む。何かおかしなことを言ったかと、エルリックに戸惑いが浮かんだ。マーガレットはうん、と何かに納得したようにうなずくと、
「それならちょうどいいところがあるわ」
そう言って満面の笑みを浮かべた。
「――『木登り仔猫亭』、だったか」
マーガレットを家まで送った後、一度官舎に戻り、すでに届いていた荷物を解いたエルリックは、夕方になって再び町の通りを歩いていた。赤く染まる街並みは昼の喧騒とは違う猥雑な雰囲気に満ちている。長く伸びた影の向こうに、誘蛾灯のような妖しい光が蹲っている。無数に伸びる客引きの手を躱しながら、エルリックは一軒の酒場の前で立ち止まった。入口には木の枝にちょこんと座る子猫を象った鉄のオーナメントがぶら下がっている。
「ここ、かな」
安くて美味しい食事処としてマーガレットが推薦したのが、町の中心から少し離れたこぢんまりとしたこの酒場、『木登り仔猫亭』だった。港に近い大きな酒場は主に船乗りを相手に商売をしており、マーガレット曰く「高くてまずくて量が多い」。逆に地元の常連を相手にしている食堂は一見の客には冷たいため、その中間の、ちょうどいい雰囲気を持った店がここ、ということらしい。
「マスターがちょっと個性的だけど、いい店よ。是非、行ってみてね」
是非、という部分を強調されたことに違和感を覚えつつ、他に行く当てがあるわけでなし、エルリックは素直にマーガレットの言葉に従ってここに来たのだ。
オーナメントが風を受けてかすかに揺れる。木に登ることができたことを自慢するような、木から降りられないことを悟られまいと強がっているような仔猫の姿に、何かを思い出したように小さく笑って、エルリックは酒場の扉をくぐった。
――ちりん
扉に繋がる紐がベルを鳴らし、
「はーいっ! ちょっと待ってな!」
喧騒に負けぬ威勢の良い少女の声がエルリックを出迎える。聞き覚えのあるその声に、エルリックは店内を見回した。四人掛けのテーブルが五つと、二人掛けのテーブルが三つ。カウンター席は九つあり、それらすべてがすでに埋まっているようだ。カウンターの向こうには店長と思しきがっしりとした体格の厳つい男が器用に魚を捌いており、カウンター席の客はその手さばきを興味深そうにのぞき込んでいる。二人掛けの席はそれぞれ地元の常連のようで、落ち着いて食事を楽しんでいるようだ。四人掛けの五つのテーブルは全員同じ格好をしており、おそらく船乗りだろう。浴びるように酒を飲み、歌い、がなりたてている。そして、それらの客の間を縫うように、二人の少女が酒と料理を手に目まぐるしく行き来していた。
「いらっしゃ――あっ!」
料理をテーブルに置き、入り口に目を向けた少女がエルリックに目を留め、驚いた表情を浮かべる。エルリックもまた、わずかに目を見開いた。少女がパタパタと足音を立てて近付いてくる。
「おにーさんやん! どしたん?」
まるで友人に話しかける様な気安さに面食らいながら、エルリックは昼間に会ったじゃじゃ馬――もとい、アーシャという名の少女に答えた。
「マーガレットさんに安くて美味しいと勧められて。でも満席のようですね」
どの席にも料理が残り、すぐに席が空く様子はない。出直します、と踵を返そうとしたエルリックの手を、アーシャの手がバシッと掴んだ。
「待て待て。せっかく来てくれたおにーさんをすきっ腹のまま帰すわけにいかへん。うちにまかしとき」
アーシャは強引にエルリックの手を引き、カウンターまで連れていく。連れていかれたところで満席なのに、とエルリックは戸惑った様子でアーシャを見つめた。アーシャはカウンターの端に座る客に近付くと、
「はいはーい、ごめんけど、ちょーっと詰めてくださいねー」
そう声を掛け、追い立てるように肩を押す。客も慣れているのか、大人しく椅子をずらし、自分の皿を移動させていく。端の客が移動し、その隣の客も隙間を詰め、隣の隣も、と連鎖的にカウンター席の客が移動していく。皆が少しずつ移動したことで、カウンター席に十人目の席が生まれる。
「一名様、ごあんなーい」
予備の椅子を奥から運び、アーシャは自慢げに胸を張る。カウンター席の客から苦笑いともつかぬ笑い声が漏れる。エルリックは目を瞬かせ、ぽつりとつぶやいた。
「……強引」
「臨機応変!」
エルリックの評価を上書きするようにアーシャが叫ぶ。魚を捌いていた店長が顔を上げ、厳つい顔に笑みを浮かべた。
「ごめんなさいね。この子ったらいつもこうなの」
店長の口調に一瞬エルリックの動きが止まる。しかしすぐに「マスターがちょっと個性的だ」というマーガレットの言葉を思い出し、エルリックは「なるほど」とうなずきを返した。
「ご苦労なさっておられるのですね」
「分かってくれる?」
店長は包丁を置いて手を伸ばし、カウンター越しにエルリックの手を両手で握った。
「今日は私のオゴリ。何でも好きなものを食べていってね」
「い、いえ、そういうわけには」
同志を得たように感動の瞳で強く手を握る店長にエルリックは戸惑う。アーシャがカラカラと笑った。
「すごいなぁおにーさん。婆ちゃんともすぐ仲良うなっとったけど、店長ともかいな」
「あなたのせ……おかげ、です」
口を突こうとした真実を辛うじて訂正し、エルリックはアーシャを見る。アーシャは照れた様子で「それほどでも」と胸を張り――
「――きゃっ!」
不意に聞こえた、鋭く抑えた悲鳴に、アーシャは厳しい表情を作って声のした方向を振り返る。
「ごめんな、おにーさん。ゆっくりしていってな」
アーシャの視線の先には、四人掛けのテーブル席の傍で、船乗りの男に腕を掴まれた給仕の少女の姿がある。エルリックの制止より早く、アーシャはその瞳に怒りを湛えて床を蹴った。




