仕事
「こ、これは……」
再び『木登り仔猫亭』に戻ったエルリックは、目の前の光景に言葉を失った。アーシャは神妙な顔でうなずく。
「な、これは大事件や」
店長はカウンターの中で腕を組んで唸り、マーガレットは厳しい顔である一点を凝視している。そして、皆の視線の中心には――
「あ、あの……そろそろ――」
居心地の悪そうなクレリアの姿があった。彼女の足元ではリリが誇らしげに胸を張っている。アーシャは震える声で言った。
「クレリアさん、ほぼ女神やで」
「やめてください!」
わずかに頬を赤くしてクレリアが叫ぶ。エルリックは呆然とつぶやいた。
「いえ、確かに、美しい」
「エルリックさんまで!?」
胸の前で手を握り、クレリアは悲鳴のような声を上げた。白い肌に浮かぶ朱が色を増す。アクアブルーのチュニックは胸元を広く取り、白のレースが縁取る。袖口は白地に銀糸の刺繍が施され、やや濃い青の腰帯でシルエットを引き締めている。髪は結い上げられて、華美な飾りのない銀の髪飾りで留められていた。そして、控えめに紅を差した唇――その姿はアーシャの言う通り、絵画から海の女神が抜け出したかと見紛うほどに美しかった。
「困ったわねぇ。これじゃ、余計な虫がいくらでも湧いてきそう」
店長は頬に手を当ててため息を吐く。クレリアのこの姿が人目に触れれば、好ましからざる客が群がってきておかしくはない。アーシャは深くうなずき、強く拳を握った。
「そやねん! こないな美人、野放しにしとったら世界が滅ぶきっかけになんで!」
「いいえ、まだよ!」
アーシャの言葉を遮り、マーガレットは硬い表情で言った。
「あなたの可能性はこんなものではないわ。もっと食べて、体のラインにもう少し丸みが加わればもっと広がる。足りないのは栄養よ。今回はお化粧でごまかしているけれど、あなたの年齢なら本来そんな小細工はいらないはずだわ」
マーガレットは店長に顔を向け、鋭い瞳で射抜くようににらみつける。
「二週間で彼女を健康的に太らせなさい。できなければ罰金」
「期限が短く!?」
店長が「ひぃっ」と悲鳴を上げる。クレリアは困ったような、どこか泣きそうな声で「マーガレットさぁん」とつぶやいた。ハッと我に返り、エルリックは隣にいるアーシャに尋ねる。
「ところで、これの何が『緊急事態』なのですか?」
「ん? ああ、それな」
アーシャは腕を組み、眉間にシワを寄せる。
「もともとは、クレリアさんの働き口をどうしよっちゅー話でな。ばあちゃんがクレリアさん連れ出してもうたさかい、どこがええかーいうて店長と考えとってん」
近所の八百屋か魚屋か、あるいはどこかの商家の下働きか、知り合いに当たってみようか、でも本人の希望は? 働いている間にリリの面倒はどうする? 給金はどれくらい? 近いほうがいい、遅くまで働くのはダメ――午後の仕込みをしながら、あーでもないこーでもないと話しているうちに、マーガレットが戻ってきたのだ。ほぼ女神となったクレリアを連れて。
「これだけ美人やと、働く場所がむつかしいねん」
アーシャは眉間にシワを寄せる。エルリックは不可解そうな表情を浮かべた。
「難しい?」
「美人を武器にできるひとやったら、ええんやけど」
美人であるということは、『自分が美人であることに価値を見出している』のでなければ、辛いことのほうが多いのだとアーシャは言った。知らない男に言い寄られ、望まぬ贔屓をされ、やっかまれ、勝手な妄想を流布される。成果を上げても『美人だから』で片付けられ、努力や工夫は評価されない。『美人だから普段から得をしているはずだ』という根拠のない推測を基に理不尽を押し付けられたりもする。『美人』は『人間』ではないとでも言うように、心を持っていることが理解されない。何を言っても傷付かないと思っているかのように。
「美人さんの知り合い、何人かいてるけどな。みんな地味に目立たんようにて気ぃ張っとる。もったいないことやで。けど現実、美人が美人のままいられる仕事場てあんまないねん」
なるほど、とエルリックはうなずく。それは確かに緊急事態、なのかもしれない。リリを抱えたクレリアにとって、仕事を見つけることは急務だろう。だがアーシャの言う通りなら、何でもいいというわけにいかなくなる。
「ありがとう、アーシャさん。でも、私が美人に見えるのだとしたら、きっとお化粧とこの服のせいだわ。普段の格好に戻れば、きっと誰も気に留めないでしょう」
過剰な心配だ、と言わんばかりにクレリアは笑った。エルリックは軽く目を見開く。クレリアは自分の容姿に関して自覚がないようだ。アーシャは小さく息を吐き、首を横に振る。
「これやから天然美人は。今までも苦労しとんちゃうの? 変な男につきまとわれたりとか」
ややムッとした表情でクレリアは答えた。
「ありません、そんなこと。そもそも美人なんて初めて言われたわ」
「ホンマに!? ノーザランの男どもは揃いも揃って節穴かいな」
アーシャが口をあんぐりと開ける。店長がああ、と何かを思い出したように言った。
「ノーザランは男女の交流を厳しく制限しているんじゃなかったかしら?」
そういえば、とエルリックはかつて読んだ北方教会の経典を思い出した。王都で北方教会の使者を迎える際に、戒律には一通り目を通したのだ。
「北方教会では八歳を超える家族以外の男女の接触を原則禁止していますね」
クレリアは「よくご存じですね」とうなずくと、
「それに私は既婚者です。既婚者に不埒な目を向ける男性などいませんでしょう?」
はっきりと言いきった。アーシャはまぶしそうに目を細め、顔の前に手をかざす。
「は、箱入りが、伝説の箱入りがここにおる――!」
アーシャの過剰なリアクションにクレリアは不満そうに顔をしかめた。着地点に困ったように店長は首を傾げる。
「本当に、きれいとか美人とか言われたことがないの?」
クレリアは不満顔のままうなずきを返した。
「両親には『お前が世界で一番かわいい』と言われましたが……それは誰でも言うことでしょう? 私もリリが世界で一番かわいいもの」
クレリアは足元のリリに顔を向ける。リリはクレリアを見上げた。柔らかく微笑み、クレリアはリリの頭を撫でる。リリは気持ちのよさそうに目をつむった。
「それに、容姿など些末なことです。そんなものより羊の毛を刈ったり糸を染めたり機を織る手のほうが、よほど価値がある」
どこか挑むような視線で、クレリアはアーシャを見つめる。その瞳に射抜かれ、アーシャはよろよろと一歩下がった。
「……世界遺産や」
「世界遺産ね」
「世界遺産だわ」
同調するように、真面目くさった顔で店長とマーガレットが復唱する。
「もう、なんなの!?」
憤懣やるかたない様子でクレリアは拳を握った。
「あの」
一向に終点の見えない、むしろ果てしなく逸れていく議論に、エルリックは軽く右手を挙げて発言を求める。アーシャはエルリックを指さした。
「はい、おにーさん」
発言を認められ、エルリックは口を開く。皆の視線がエルリックに集まった。
「クレリアさんの容姿を変えることはできません。そこはいったん脇に置いて、クレリアさんの適性から職種を絞り込みませんか? 職種が決まれば対策も具体的に決まるでしょう」
おお、と一同が感心したような声を上げる。それほど大層なことを言っただろうか、とエルリックは戸惑いを浮かべた。アーシャは大きくうなずく。
「さすがおにーさんや。うむ。採用。運命の女問題はいったん置いとこ」
「いつの間にそんな問題が……」
疲労感漂うクレリアのつぶやきが空気に溶けて消える。マーガレットが少し表情を柔らかくして言った。
「得意なことはある? あるいは、好きで苦にならないこと、でもいいわ」
クレリアは表情を改めてマーガレットに顔を向けた。
「手仕事ならばひと通り。料理、掃除、洗濯、針仕事、機織り。何でもやります」
クレリアの声に切実な感情が混じる。それは、ここで生きる、この町でリリと生きていくという強い決意だろう。マーガレットはその声に共感を寄せない。
「この町では、『何でもできる』は『何もできない』と同義よ。ヘレシアは今、多くの人々が外から流れ込んでくる最中にある。仕事は奪い合いよ。凡庸な万能より秀でた一芸、それがなければ生き残れない。いくらでも替えの利く部品として使い潰されて終わるわ。だから、貴女の中の『一番』を教えてちょうだい」
冷徹なその声音に、クレリアは言葉に詰まった。視線を落とし、口を開きかけて閉じる。店長が「ふむ」と腕を組んだ。アーシャがおろおろと視線をさまよわせる。マーガレットはじっとクレリアを見つめた。空気が緊張の度を増す。
リリはクレリアを見上げた後、トテトテと足音を立ててアーシャに近付き、その袖を引っ張った。救い、あるいは逃げ道を見つけたように、アーシャは顔をほころばせてしゃがむと、リリの頭を撫でた。
「ん? どした、リリ? リリもとっても可愛らしいで?」
リリは身体の大きさに合わせて仕立てられた淡いピンクのチュニックを着て、髪を大きなピンクのリボンで結んでいる。
「クレリアさんは女神やけど、リリは天使やな」
まるい頬を人差し指で突っつくアーシャに、リリは首を横に振ると、その手を掴んで歩き始めた。
「お、どこいくねん」
じゃっかん戸惑いを浮かべてアーシャは立ち上がり、リリに引かれるまま後をついて行く。リリはカウンターの向こうへと回り、店長の前に立ったようだ。カウンターの影に隠れてリリの姿はこちらから見えなくなった。
「え、私?」
目を丸くする店長をよそに、リリは「ん」とうなり、アーシャの手をひっぱったらしい。アーシャはカウンターの下を覗き込むように身を屈め、
「……トランク?」
とつぶやいた。ハッとクレリアが表情を強張らせる。店長が感心したように言った。
「どうしてここにあるって分かったの?」
リリのどこか自慢げな「むふー」という吐息が聞こえる。店長は一瞬だけためらいの表情を見せると、トランクを抱えてカウンターを出て、クレリアの前に置いた。
「お仕事道具、ってことかしら?」
クレリアは目を伏せ、小さな声で答える。
「……いえ、素人の手慰みです」
リリはトランクに駆け寄って手を掛け、きらきらとした瞳でクレリアを見上げる。吹き出すように小さく笑って、クレリアはリリの頭を撫でた。
「リリは、これが好きね」
リリは大きくうなずく。仕方ない、と言うように笑って、クレリアはリリを下がらせると、トランクの留め金を外した。カシャンと硬質な音が鳴り、トランクが開く。
「――人形?」
上から中を覗き込んだ店長がつぶやく。トランクの中には、人間の半分くらいの大きさの人形が三体、収められていた。人形の一体をそっと手に取り、クレリアは嬉しそうな、痛みに耐えるような、複雑な表情を浮かべた。




