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都落ちした黒髪メガネは今日も下町娘に振り回されています  作者: 曲尾 仁庵


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15/18

素人

 キースは慣れた手つきで鹿肉の塊を切り分け、包丁の切っ先で肉に無数の切れ込みを入れると、そこにスライスしたニンニクとハーブを差し込む。卵を割って卵黄と卵白を分離させると、卵黄は店主に預け、卵白を手早く泡立てた。ツノが立つほど固く泡立てた卵白に粗塩をさっくりと混ぜ、鹿肉の表面を覆うようにまぶすと、急いで熱したオーブンに入れた。一連の作業を淀みなくこなし、キースが小さく息を吐く。


「塩釜、ですか」


 エルリックは感嘆と共に言った。キースの手際は趣味の域を超えている。迷いのない手さばきは、少なくともエルリックのような料理の素人から見る限り、本職の料理人と変わらない。キースはオーブンから目を離さないままエルリックに答えた。


「ええ。ノーザランでは祝い事がある時にヘラジカの塩釜焼を振る舞うそうです。ま、俺からの隊長殿の着任祝い、ってとこで」


 キースはエルリックにニカッと笑いかけると、再び真剣な表情に戻ってオーブンを見つめる。店主が苦笑気味に言った。


「すごいでしょ? これでどっかに修行にいってたわけでもない、独学ってんだから参っちまう」


 職業選択間違ってないかって何度も聞いてんだけどね、と店主は肩をすくめる。エルリックは大まじめにうなずいた。その真剣な表情から料理への情熱がひしひしと伝わる。キースは小さく鼻を鳴らした。


「料理はあくまで趣味だよ。商売にするつもりはない」


 オーブンから目を離さないキースの様子に、エルリックは小さく首を傾げる。趣味だと断言する口調にはためらいがない。情熱の向かう先と彼の立場の釣り合いが取れない。


「あとは待つだけ、なんだけど、緊張するねぇ」


 つぶやくように言ったキースの横顔をエルリックは見つめる。焼ける脂の匂い、薪の燃える音に集中している。


――この人はなぜ、衛士をしているのだろう


 胸に浮かんだ疑問を飲み込み、エルリックは料理の完成を待とうと軽く目を閉じた。




「行きますよ?」


 オーブンから取り出した、こんがりと小麦色に焦げた塩の塊をエルリックの前に置き、確認するようにキースが言った。彼の手には小振りな木槌が握られている。エルリックはキースを見上げ、大きくうなずいた。すでに店に入ってから一時間以上が経過し、空腹が限界を迎えつつあった。期待を煽るようにニッと笑い、キースは木槌を塩塊に叩きつける。


――コンッ


 硬質な音と共に塩塊が砕け、鹿肉の表面が姿を現す。香ばしい肉の脂、食欲を刺激するニンニクの匂い、それらを調和させるバーブの香りが広がり、エルリックは思わず唾を飲んだ。エルリックの表情に満足そうな笑みを浮かべ、キースは肉を覆う塩を丁寧に除くと、包丁の刃を肉に入れる。切れ味の良い包丁は抵抗を感じさせることなく、厚めにスライスされた肉の断面はしっとりとしてパサつきが微塵もない。中心部がやや赤いが、これは生焼けことを意味しないだろう。しっかりと火の通った赤――それはこの塩釜焼が完璧な仕上がりである証明なのだ。

 キースは白い楕円の皿を取り出し、肉を少しずらしながら重ねて並べる。肉の右上にはマッシュポテトを添え、皿の余白を常緑樹を思わせる鮮やかなバジルソースで彩る。さらには花でも描くように、バジルソースの隙間にやや黄みがかった白のもったりとしたソースを置き、


「どうぞ、ご賞味ください」


 若干芝居じみた仕草で、キースは皿を差し出した。

 エルリックはナイフとフォークを手に取り、肉をひと口大に切って口に運ぶ。まずはソースなし、塩釜の塩分だけで味わう。赤身特有の弾力が奥歯から伝わってくる。


「――うまい」


 最初のひと口を飲み込み、エルリックは皿の上の肉を見つめてつぶやくように言った。塩味は程よく、鹿肉の臭みはまったく感じられない。弾力はあるが固いわけではなく、食べ応えという満足感を演出している。

 エルリックは再び肉を切り、今度はバジルソースをつけて口に入れた。爽やかなバジルの風味が鼻を抜ける。何もつけない時の、肉そのものを味わう感覚は奥に退き、エルリックははたと気付いた。そうか、塩だけで食べていたとき、少しだけ重く感じていたんだ――そんな自分でも気づけなかったものを、バジルの緑は鮮やかにさらって行った。エルリックは感嘆のため息を吐く。

 エルリックはフォークで肉を刺し、黄白色のソースに目を向ける。少なくともエルリックの人生で出会ったことの無いソースだ。顔を上げてキースを見ると、若干気まずそうにキースは言った。


「それは、塩釜に使った卵で余った卵黄を使って作ったソースです。西のほうの小さな島で使われるソースらしいんですが、実は正確なレシピを知らなくて。もし美味しくなかったらすみません」


 これも前から作って見たかったのだと、言い訳のようにつぶやくキースに、エルリックはフォークで黄白色のソースを肉につけ、


――おそらく美味しくないということはない


 その確信と共にためらいなく口に放り込んだ。口の中に濃厚なコクと酸味が広がる。


「これは――」


 漏れ出たエルリックのつぶやきにキースが不安そうな表情に変わる。無言で咀嚼し、飲み下して、エルリックはキースを見上げた。


「うまいです。なんというか、また食べたくなる」


 キースの表情がほころぶ。エルリックは皿に視線を落とした。


「この酸味が、とてもいい。肉の塊を食べたときの後半、どれだけ美味しくても少し飽きたあの感覚を打ち消してくれる。もっと食べたいと思わせる、素晴らしいソースです」


 エルリックの静かな、しかし熱のある言葉に、


「ありがとうございます」


 キースは胸に手を当て、笑って一礼した。




「うまかった。ありがとうございました」


 皿の上に何も残さず、エルリックはナイフとオークを置いてキースに軽く頭を下げた。


「喜んでいただけてよかった」


 キースは誇らしげに笑う。料理が好きで、料理を振る舞うことが好きで、料理で喜ばせることが好きな男の顔がそこにあった。エルリックは口を開きかけ、すぐに口を閉じると、懐から金入れを取り出して言った。


「お代を払わせてください。おいくらですか?」


 えっ、と目を見開き、キースは慌てて手を振る。


「要りませんよ。着任祝いだと言ったでしょう?」

「料理人に料理を作らせて代金を払わないなど、そんな失礼なことはできません」


 エルリックは極めて真面目な顔で言った。実際、これほどの料理を作れる人間は王都にもそうはいない。それどころか、王都の宮廷料理人や貴族のお抱え料理人たちは、見た目の派手さや奇抜さを競い、『味』そのものを軽視する風潮があった。クジャクの羽根で飾られたパサついた肉料理を何度食べたことかしれない。それに比べれば、見た目も、味も、料理体験としても、この鹿肉の塩釜焼はエルリックの人生の中での衝撃だった。


「俺は本職の料理人じゃないから代金はいただけません。趣味の料理を上司に振る舞って金を取るバカがどこにいますか」


 思ってもみないことを言われた、というようにキースの口調が戸惑いを帯びる。エルリックもまた、声の真剣さを増した。


「技術には敬意を払うべきです」

「敬意の払い方は金だけじゃありませんよ」


 キースは助けを求めるように店主に顔を向けた。店主は苦笑いを浮かべる。


「タダでいいって言ってんのに、奇特な人だねぇ」

「少なくとも、材料費は必ずかかっている。代金を受け取ってもらわなければ、店に損害を与えることになります。それはいけません」


 生真面目なエルリックの視線を避けるように目を天井に向け、キースは頬を掻いた。


「あー、それは、まあ……でもね」


 ふっと短く息を吐き、キースはエルリックの目を見据えた。


「金を受け取れば、俺はあなたに仕事として料理を作ったことになる。でもそれじゃ、気持ちが消えるんですよ。料理と金が等価になったら、料理に乗せた気持ちはどこにいきゃいい? 喜んでもらいたくて料理を作った。隊長殿は喜んでくれた。それが大事なんだ。それこそが大事なんだ。金をもらったらね、隊長殿――」


 キースの瞳に、『素人』という矜持が滲む。


「――この料理は死ぬんですよ」


 キースの言葉にエルリックの目が揺らぐ。キースはじっとエルリックの目を覗き込んでいた。しばし無言の時間が過ぎ、エルリックは視線を落として息を吐いた。


「……分かりました。では、この礼は別の形で」

「そうしてください。おごってくれるなら大歓迎ですよ」


 キースがホッとしたように笑い、緊張していた空気が和らぐ。店主はニヤッと含みのある表情で言った。


「材料のことは気にしないでください。キースの旦那をこき使う理由が増えて、こっちとしてもありがたいんで」


 えっ? とキースの顔が引きつる。店主がヒヒヒと笑い、エルリックは力が抜けたような笑みを浮かべた。


「さて、そろそろ」


 エルリックは立ち上がり、店の入り口を振り返る。エルリック達が店を訪れてから二時間近くが経過して客は全て入れ替わっており、巡礼者の三人の姿もすでにない。思いがけず長居をしてしまった。詰め所に帰って書類を確認しなければ、今日も日付が変わるまで帰れなくなる。


「皿洗ってから戻るんで、先に戻っておいてください」


 キースの言葉に思わず振り返る。衛士の仕事は、と問おうとして、エルリックは口を閉じた。自分のために料理を作ったキースに言うべきことではない。この件に関して、エルリックは共犯なのだ。ほどほどに、と中途半端な声掛けをして、エルリックは店主に一礼すると、店の入り口へと向かう。引き戸に手を掛けようとしたその時、


「おっちゃん、おにーさんおる!?」


 目の前で勢いよく引き戸が引かれ、ガラガラと大きな音を立てる。見知った少女の姿を認め、エルリックは目を見開いた。


「アーシャさん?」

「おにーさん! よかった、やっぱここやってんな」


 一瞬安堵を浮かべ、アーシャはすぐに表情を改めると、ガシッとエルリックの手首を掴んだ。


「キンキュージタイや! すぐ来てんか!」


 エルリックの返答を待たず、アーシャは手を掴んだまま振り向いて走り始める。何も分からぬまま、エルリックは引きずられるようにアーシャの後を追った。


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