今日から
「……ごちそうさまでした。本当に、美味しかった」
シチューの皿を空にして、クレリアは店長に頭を下げる。泣き腫らした顔は幾分、こわばりが取れたように見える。「よかった」と店長は目を細めた。リリがスプーンを力強く天に掲げる。どうやらシチューはリリの合格点をもらえたらしい。アーシャが吹きだすように笑った。
「これからの当てはあるの?」
店長の言葉にクレリアは首を横に振る。
「……ヘレシアは景気がいいと聞いて、働き口もあるだろうと」
アーシャは腕を組み、思案げに視線を上げる。
「ほな、まず家やな」
「そうね。住むところがないと始まらないわね」
アーシャと店長が互いに顔を見合わせる。クレリアは小さく首を傾げた。リリがアーシャの袖を引っ張る。アーシャは「よっ」とリリを抱えて膝に乗せた。リリは満足げにうなずく。収まりがいいらしい。
「店長、ええとこ知らん?」
「若い女の子に紹介できるところはねぇ。マーガレットさんに相談してみましょうか」
「せやな。婆ちゃんやったらどうにかしてくれるやろ」
なー、と言ってアーシャはリリの顔を覗き込む。当然だ、というようにリリはうなずいた。アーシャが笑い、店長が吹きだす。クレリアは戸惑いを顔に浮かべた。
「あの……」
「あとは働くとこやな」
「そうね。家と働き口があれば当面なんとかなるわよね」
クレリアの遠慮がちな声を無視して、アーシャと店長は話を進める。
「ええとこない?」
「うーん。私の知ってるところは女の子向きじゃないのよねぇ」
「力仕事なん?」
「いいえ、血生臭いやつ」
「そらあかんわ」
アーシャは眉間にシワを寄せて小さくうなる。リリも真似をしたのか、眉を寄せて「むふー」と息を吐いた。店長は右手を頬に当てる。
「こっちもマーガレットさんかしらね」
「婆ちゃん、顔広いしな」
「あ、あの!」
クレリアが振り絞るように大きな声を上げる。アーシャと店長はきょとんとクレリアを振り返った。
「なに? 急におっきい声出して」
クレリアは大きく息を吸って吐き出し、はっきりとした口調で言った。
「お気持ちは嬉しいけれど、これ以上皆さんにご迷惑はかけられません」
胸に右手を当て、クレリアは小さく微笑む。
「……見知らぬ私たちに、こんなに親切にしてくださった。それだけで充分。これ以上を望んではいけない」
潤む目を隠すように深く頭を下げ、少しかすれた声でクレリアは言った。
「……ありがとうございました。この御恩は生涯忘れません」
「あかん」
後に続く言葉を遮るようにアーシャが声を上げる。
「ごめんけど、それ無理や」
「そうね。却下ね」
想定した反応ではなかったのだろう、クレリアは顔を上げ、不可解そうにアーシャを見る。アーシャは真顔で言葉を続けた。
「だって見てもうてんもん」
「……なにを?」
「泣いてるとこ」
クレリアが気まずそうに視線を落とす。店長はうんうんとうなずいた。
「あれ見た後に、はい、さようなら、ってわけにいかないでしょう?」
「そんなんしたら、自分が情けのうて寝れんくなるわ」
「でも――」
「『でも』はなし!」
再び顔を上げたクレリアの言葉をアーシャがピシャリと遮る。店長は諭すように言った。
「ねぇ、クレリア。あなたはね、もっと、もっと望んでいいの。リリちゃんと、あなた自身の幸せをね」
クレリアが目を見開く。店長は穏やかに言葉を続ける。
「いいじゃない、迷惑かけたって。それであなたが幸せになれるなら。あなたが不幸になるよりよほどいい。あなたに迷惑かけられたって、私たちはびくともしないわ。だからあなたは、まず自分とリリちゃんのことだけを考えなさい」
クレリアは信じられないものを見るように店長を見つめる。店長は小さく笑った。
「一人で出来ることなんてたかが知れてる。迷惑かけて、頼って、生きていきましょうよ。そしていつか、誰かの迷惑を引き受けて、頼られるようになったらいい。独りで、誰にも迷惑かけずにぽつんと生きるより、そっちのほうがきっと素敵よ」
クレリアの目から再び涙がこぼれ、彼女は慌てたように涙を拭った。アーシャは膝からリリを降ろし、クレリアに近付いて抱きしめる。
「なんや、クレリアさん、泣き虫さんやね」
「……ごめ…なさ……こん……はじめて……い……た、から……」
アーシャはぽんぽんとクレリアの背を叩く。クレリアはアーシャの肩に顔を押し付けた。
「ちゅーわけで、部屋貸してください! お願いします!」
アーシャが地面に着く勢いで頭を下げる。クレリアもそれに倣い、さらにそれを真似てリリがお辞儀する。おそらく何の説明もないまま『木登り仔猫亭』に連れてこられたであろうマーガレットは、アーシャ、クレリア、リリの順に目を遣り、最後に店長を見る。店長は拝むように手を合わせた。小さく息を吐き、マーガレットは三人に顔を上げるよう促した。
「つまり、このお嬢さんに部屋を貸してほしいのね?」
「さすが婆ちゃん! 何でもお見通し!」
よくこの少ない情報から理解に辿り着いたものだ、とエルリックは感嘆の眼差しをマーガレットに向ける。マーガレットはアーシャを軽くにらんだ。
「あなたはもう少し言葉で説明なさい」
「ええやん。伝わってんから」
へらっと笑うアーシャにマーガレットは無言で近付き、額を手のひらでパシッと叩いた。
「あたっ!」
「反省なさい!」
額を押さえ、アーシャは不満げに口を尖らせる。「まったく」と息を吐き、マーガレットはクレリアに向き直った。見透かせるようなマーガレットの目に、クレリアはわずかに身を固くする。マーガレットは無言のまま、じっとクレリアを見つめ――不意に視線を下げ、膝を突いてリリを抱きしめる。リリは特に動じることもなく、マーガレットの背に手を回した。マーガレットはうなずき、立ち上がる。
「合格」
リリはマーガレットを見上げ、大きくうなずいた。何かが通じ合ったのだろう。クレリアは戸惑った様子で二人を見る。マーガレットは今度はクレリアの前に立ち、大きく手を広げて抱きしめた。クレリアの戸惑いが深さを増す。
「あ、あの……」
硬直するクレリアから手を離し、マーガレットは険しい表情で言った。
「あなたは痩せすぎ。もっとお食べなさい。グレゴリ!」
「は、はい!?」
急に名を呼ばれ、店長の声が裏返る。マーガレットは鋭い視線で店長を射抜いた。
「一か月でこのお嬢さんを健康的に太らせなさい。できなければ罰金」
「私が!? どうし…て……はい」
抗議めいた店長の声は、マーガレットの圧力に屈して霧散する。クレリアが慌てたように声を上げた。
「待ってください! 店長さんは――」
「あなたがしっかり食べないと店長が破産するわよ。頑張って」
クレリアの言葉を一顧だにせず、マーガレットは言い放つ。言葉の続きを失い、クレリアは目を瞬かせた。『破産』の言葉に怯えたのか、店長がぽつりとつぶやく。
「……罰金って、いくらなのかしら」
「一発ハコテンちゃう?」
アーシャの無責任な発言に店長は「ひっ」と悲鳴を上げた。蒼白な顔の店長を放置し、アーシャはおそるおそる尋ねる。
「……ほんで、部屋はお貸しいただけるんでしょうか? ちゅーか、婆ちゃんのアパート、空きあったっけ?」
マーガレットはこの町に三棟ほどのアパートメントを所有する大家だと、エルリックは以前彼女を送り届けたときに聞いていた。マーガレットは表情を変えることなくさらりと答える。
「空きがなければ作ればいいのよ。ちょうど家賃を滞納している若いのがいるから、今日にでも叩き出すわ」
「おお、婆ちゃん、過激」
怯えたようなアーシャの小声にマーガレットは鼻を鳴らす。
「博打に手を出して身ぐるみ剝がされたから家賃は払えない、なんて平気で言う男よ。一度本気で痛い目を見ないと変わらないわ」
罪悪感を覚えたようにクレリアは口を開く。
「それは、少し――」
「あなた、荷物は? あのトランクかしら? 中身はなに?」
マーガレットはクレリアの足元に置かれたトランクに目を向ける。「それは――」とクレリアは言いよどんだ。続きを待たずマーガレットは問いを変える。
「着替えは? あの中にある?」
「いいえ、そういうものは、何も――」
「そう、では買いに行きましょう」
マーガレットはぱちんと胸の前で手を叩いた。
「靴も新しくしたいわね。髪も整えたほうがいいわ。あなた、美人だから何でも似合いそう。ふふ、楽しみね」
マーガレットは視線を上げ、楽しそうな笑顔を浮かべる。展開の速さについて行けないというように、クレリアは言葉にならない戸惑いを口にした。
「あの、でも……」
「今日から、変わるの」
マーガレットはクレリアの目を見つめる。
「だから、今日、変えるのよ。服も、靴も、髪型も、全部。昨日までがなんだって、今日からは全部新しくなる。新しいあなたになるの」
マーガレットは笑って片目を瞑った。
「とっても、ワクワクするでしょ?」
クレリアは大きく目を見開く。そして、力を抜くように息を吐き、
「……はい」
微笑んでうなずいた。
「うん。よいお顔ね。とてもきれいよ」
マーガレットはクレリアの手を取る。
「それじゃ、行きましょう。年寄りは気が短いのよ。そちらの小さなレディにも、可愛い服を着せたくて仕方がないの」
右手でクレリアの、左手でリリの手を掴み、マーガレットは二人を引っ張る。力強さに目を白黒させながら、クレリアは一歩前に踏み出し――ハッとしたように声を上げる。
「あの、トランク――」
「グレゴリ! そのトランクを預かっておきなさい! 無くしたりしたら――」
「全力を以て死守いたします!」
背筋を伸ばし、店長が最敬礼する。
「さ、はやくはやく」
子供のようにはしゃいでマーガレットは二人を急かす。勢いに押され、戸惑いながらクレリアは小さく笑って、
――カラン
『木登り仔猫亭』の扉を開け、まぶしい日差しの空の下に、三人は出ていった。




