役割
太陽の下に去っていった三人の背を見送り、アーシャは大きく息を吐いた。
「なんや婆ちゃん、いつにも増してパワフルやったな」
そうね、と苦笑いを返し、店長はカウンターを出て床に置かれたトランクをひょいと抱えた。中身がカチャンと硬質な音を立てる。
「重いわね。あの細腕でよく運んだものだわ」
古く、角ばって、表面が擦れてほつれた、飾り気のないトランクだった。汚れも目立ち、金具が歪んでいる。
「何が入ってんねやろ」
さあ、とアーシャの好奇心をいなして店長はカウンターの下にトランクを仕舞う。全力で死守するという言葉の通り、常に手の届く場所に置いておくつもりのようだ。トランクから手を離し、店長はじっと手を見つめた。
「……トランクと、離れさせたかったのかもね」
アーシャは小さく首を傾げる。店長は顔を上げた。
「マーガレットさんが相手の話を遮って一方的にしゃべるなんて珍しいでしょう? 勢いで圧倒して、考える暇を無くして、外に引っ張り出した。今のあの子にはそれが必要だと考えたのだと思うわ」
ふぅむ、とアーシャは納得のいかない顔で腕を組む。
「美人さんに会うてテンション上がってもうてるだけちゃう?」
「そうかもしれないわね」
アーシャの感想に小さく笑って、店長はわずかの間再びトランクを見ると、切り替えるようにぱちんと手を叩いた。
「さて、そろそろ午後の仕込みをしなきゃ。アーシャも働いてよ?」
「了解。ほんならまずは机でも拭きましょか――って、うぉう!?」
カウンターに目を遣り、アーシャは思わずといった様子で一歩下がった。カウンターに両肘をつき、どんよりとした空気をまとったエルリックが背を丸めて座っている。じゃっかんためらいを含んだ声でアーシャは声を掛けた。
「お、おにーさん? どしたん?」
「……いえ、役に立たなかったな、と」
うつむいたままエルリックは答える。「あらー」とアーシャは困ったような声を上げた。
「途中から全然しゃべらへんな思たら、端っこで落ち込んどったんかいな」
「……申し訳ありません」
エルリックの周囲だけ空気が重く薄暗い。「真面目やな」と小さく吹き出し、アーシャは慌てて表情と取り繕った。
「そない気ぃ落とさんと。誰が死んだわけでもなし」
「……申し訳、ありません――」
「あかん。なに言うても謝罪しか返ってこん」
大きく息を吸い、真剣な表情を作って、まっすぐにアーシャは言った。
「役に立たんとか、そんなことないで? ほら、なんちゅーか、空回りしとっただけで」
「フォローになってないわよ」
シャッと包丁を研ぎながら店長が突っ込む。エルリックがますます身を縮めた。まとう空気の薄暗さが増す。アーシャはせわしなく視線をさまよわせ、わたわたと無意味に手を動かした。
「ちゃうねん! おにーさんが悪いとか、間違っとるとかやのうて――」
アーシャが言葉を切り、視線が定まる。何かを見つけたようにうなずき、アーシャは少し抑えた声で言った。
「――役割が、ちゃうんやと思う」
「役割?」
エルリックが顔を上げる。自分中に言葉を捜すように、アーシャはゆっくりと話を続けた。
「事情を聞かな助けられへんいうんは、まっとうな話やねん。事情を聞いたらしょーもない話やった、ちゅうこともぎょうさんあるしな」
「博打でスッて家賃が払えない、とかね」
玉ねぎの皮を剥きながら店長が言った。アーシャは「そうそう」とうなずき、さらに言葉を続ける。
「そうでのうても、事情聞いて、一番ええ方法を考えるんは大事や。無駄も、失敗も、ないほうがええに決まってる」
でも、とアーシャは小さく首を振った。
「たぶん、おにーさんが思うよりずっと、『助けて』言うんはむつかしいねん。優しいひとらはな、『迷惑かけたらあかん』『自分が耐えればええ』て、苦しぃても悲しぃても、笑いはんねん。笑って、おらんようなってまうねん」
エルリックはハッと目を見開く。アーシャの瞳に複雑な色が揺れる。
「うちは、そういうひとらがおらんようなるの、嫌やねん」
店長は無言で玉ねぎを刻んでいる。エルリックはアーシャを見つめる。どこか後ろめたそうにアーシャは視線を落とす。
「でも結局、うちのは『たまたま』やねん。たまたまリリに会うて、クレリアさんに会うて、アホに絡まれとって、助けた。けど、リリに会うてなかったら? たぶん、気付きもせんやろ。アホどもに絡まれとらんかったら? おかんと会えてよかったないうて、それで終わりや」
アーシャは再び顔を上げ、今度はエルリックの視線を受け止めた。
「そんなん、ほんとはあかんねん。うちに会おうが会うまいが、クレリアさんはおらんようなったらあかんねん。いつでもどこでも誰であっても、助けられへんかったら噓やねん。たぶん――」
預言者のような神聖な空気をまとって、アーシャは告げる。
「――おにーさんは、そっち側やねん」
エルリックは息を飲む。アーシャはかすかに微笑んだ。
「おにーさんが、うちらにできひんことをやろう思うてくれたら、うれしい」
エルリックは魅入られたようにアーシャを見つめる。アーシャもエルリックを見つめ返した。包丁がまな板を叩く音が聞こえる。町の喧騒が遠く聞こえる。互いに見つめ合い、しばし――不意にアーシャの顔に朱が上った。
「え?」
急な変化にエルリックが戸惑いの声を上げる。アーシャはその場にしゃがみ込み、顔を手で覆った。
「……真面目な話したら、なんや急に恥ずかしくなってきてしもた。全部忘れてな? みーんな嘘やさかい」
エルリックは呆けたような顔になり、すぐに気が抜けたように吹き出した。店長が声を上げて笑う。しゃがんで顔を覆ったままアーシャは「うぅ」とうなり、しばらく動くことができなかった。
『木登り仔猫亭』を辞し、エルリックは詰め所へと続く道を歩いていた。日差しはさらに強さを増し、ただ歩くだけで汗が滲む。露天商の客引きの口上が聞こえる。真贋の怪しい宝飾品にまつわる悲恋の物語に興味を惹かれた様子の幾人かが足を止め、口上に聞き入っていた。
エルリックはふと足を止める。建物と建物の間にある、人がやっとすれ違うことができるほどの狭い路地。陽の光から拒まれた路地の奥に目を向ける。気配だけがあり、姿はない。
大きな宿題をもらったものだ、とエルリックは苦笑いを浮かべる。アーシャは個人の善意の限界をよく知っているようだった。目の前にいれば助けられる。でもそれは、目の前にいない人を助けられない、ということでもある。そしてアーシャは、目の前にいる誰かを助けられればそれでよい、などとは考えていない。だから彼女は『私にできないことをあなたがせよ』とエルリックに言ったのだ。
「いつでもどこでも誰であっても、か」
それは、救済の物語性を剥ぎ取ること。かわいそうだから、苦労してきたから、傷付いているから。そんな物語に左右されることなく、一切を同じ基準で救済すること。それはすなわち、『救済の制度化』に他ならない。これ以上は転落させない、という一線を制度が保証する。それは社会の基盤となり、人々を支える。困窮した者を救うのではない。人が困窮しえない町を作るのだ。
「……つい予算と人員のことを考えるのは、悪い癖かな」
衛士隊の人数は八名。予算は通常業務をこなすことさえ覚束ない。人も金も、まるで足りない。そんな状況で何を語ろうと夢想に過ぎない。だが――
「――やらない理由には、ならない」
エルリックは再び歩き始める。やらねばならないことも、できることも、いくらでもある。まずは衛士隊を組織として機能させなければ。そのためには領主ナセルから適正な予算を勝ち取る必要がある。
駆け回る子供らの歓声が聞こえる。赤子を背に負う母親とすれ違う。道端で老人が駒遊びの盤面をにらんで唸る。酒瓶を持った中年の男が玄関から蹴り出されていた。エルリックは足を止める。隣家の影に埋もれる衛士隊詰め所が目の前にある。
ふっと強く短い息を吐き、エルリックは詰め所の扉に手を掛けた。




