月桂樹
荷物を持ちましょうか、というエルリックの提案を断り、女性はトランクを引きずるように歩く。時折よろける足取りに落ち着かない様子でエルリックは女性の少し後ろをついて行く。個人がこれほど大きなトランクを引きずっていればいやがおうにも目立つ。中身が何かは分からないが、高価なものだと思われれば奪おうとする輩も出てくるかもしれない。
アーシャはリリと手を繋ぎ、大きく腕を振って女性の隣を歩いている。子供好きなのだろうか、その顔は純粋に嬉しそうだ。リリは変わらず泰然として、自分の行き先を見据えている。
太陽が朝の手加減を脱ぎ捨て、夏の本性を現し始める。陽光がじりじりと肌を焼く。遮る雲もない青い空をエルリックは幾分恨めしげに見上げた。
「店長、ただいまー」
アーシャは木登り仔猫亭の扉を開け、気の抜けた声で言った。トランクが入り口の段差に引っかかり、女性が足を止める。手伝おうと手を伸ばしかけたエルリックを「大丈夫です」の言葉で制し、息を止めてトランクを持ち上げると、女性は店内に入る。エルリックは後に続いた。
「アーシャ。いったいどこまで――」
カウンターで仕込みをしていた店長が手を止め、咎めるような口調でそう言いかけ、顔を上げて目を瞬かせる。
「――出前用のバスケットが女の子に化けちゃったの?」
店長の言葉がピンとこなかったのか、アーシャは自分の右手に目を落とした。右手はリリと繋がっている。左手を見る。何も持ってはいない。
「……あぁ!? バスケット置いてきてもうた!」
現状に気付き、アーシャはがっくりと膝を突く。「アホや……」とうちひしがれるアーシャに店長は尋ねた。
「どこに置いてきたの?」
「たぶん、串焼きのおっちゃんとこ」
「ああ」
『串焼きのおっちゃん』が誰か分かっているのだろう、店長は小さくうなずく。
「だったらきっと取っておいてくれるわ。後でお礼持って取りに行ってちょうだい。どうせもう使うのは明日だから」
「はぁい」
じゃっかん気落ちした様子のまま返事をして、アーシャは立ち上がった。リリが離れた手を再び握る。「あっ」と声を上げ、アーシャは慌てて女性を振り返った。
「ごめんなさい、立ちっぱなしにさせてもうて! ささ、座って! 小汚いとこやけども!」
「失礼ね。小汚くないわよ」
店長が眉をひそめてアーシャを軽くにらむ。スッと顔を背け、アーシャは女性にカウンター席を勧めた。戸惑うような、気圧されるような様子で、女性はトランクを椅子の横に置くと、リリを抱えて隣に座らせ、自分も席に着いた。アーシャがリリの左隣に座る。エルリックは最後に、アーシャの左隣に座った。エルリックが女性の右隣りに座ると、アーシャと二人で彼女を挟み込んでしまう。
「店長、何か作って食べさせて。タダで」
「えっ?」
あまりにも自然なアーシャの図々しい物言いに、女性は思わすといった様子で声を上げた。
「あの、お金はちゃんと」
「いらんいらん。うちが誘うてんから」
アーシャはひらひらと手を振る。店長は半眼でアーシャを見つめた。
「『あなたが誘った』んだから、『あなたが払う』んじゃないの?」
「うち、店長のかっこええとこ見たいなぁ」
わざとらしい期待にふんっ、と鼻を鳴らし、店長は女性に目を向ける。
「あなた、お名前は?」
名乗っていなかったことに気付いたのだろう、女性は背を伸ばし、
「クレリア、と申します」
と頭を下げた。店長は厳つい顔に柔らかな笑みを浮かべる。
「私はグレゴリ。『木登り仔猫亭』の店長よ。よろしくね」
「店長、グレゴリいう名前なん? 初めて知ったわ」
アーシャが頓狂な声を上げ、目を丸くする。店長が呆れたような咎めるような視線をアーシャに向けた。
「どういうことよ?」
「だってみんな『店長』呼びやし」
悪びれもしないアーシャの態度に何かを諦めたように息を吐き、店長は再びクレリアを見る。
「ごめんなさいね、騒がしくて。少し時間が掛かるけど、いい?」
「待ちます待ちます、タダならば!」
店長はぎろりとアーシャをにらむ。アーシャはさりげなく顔を背けて天井を見つめた。クレリアが店長に頭を下げ、かすれた声で言った。
「……ごめんなさい」
店長はジャガイモを手に取り、慣れた手つきで皮を剥き始める。
「新しいお友達に手料理を振る舞うだけよ。謝られたら、寂しいわ」
クレリアはハッと顔を上げる。鼻歌を歌いながら賽の目にジャガイモを切る店長に、クレリアは無言で再び頭を下げた。
「差し支えなければ」
エルリックは慎重に言葉を選びながら、ゆっくりとした口調で言った。
「あなたの抱えていらっしゃる事情を、お話しいただけませんか?」
クレリアが小さく息を飲む。早口にならぬよう気を付けながらエルリックは言葉を続けた。
「この町に知り合いはいないと、おっしゃっていましたね。これからどうされるおつもりですか? 頼れる知人もなく、母娘二人で暮らしていくのは大変なことです。事情をお話しいただければ、支援を検討することも――」
「おにーさん」
わずかに身を乗り出したエルリックをアーシャの呼びかけが遮る。アーシャはにやにやと笑って言った。
「なんや、クレリアさん口説こういうてる?」
「な、違います!」
エルリックは目を丸くしてアーシャを見る。アーシャは腕を組み、うんうんと深くうなずいてみせた。
「クレリアさんは美人さんやさかいなぁ。気持ちは分かるで」
納得してしまった様子のアーシャにエルリックは慌てて腰を浮かせる。
「だから違うと――」
「せやったら」
アーシャの顔から笑顔が消え、彼女は人差し指を立てて唇に当てる。クレリアの肩がかすかに震えていた。エルリックはハッと息を飲み、椅子に腰を落とす。己の浅慮への後悔を滲ませ、呻くようにエルリックは言った。
「……申し訳ありません」
アーシャが表情を緩める。店長の包丁がまな板を叩く音が聞こえ、くつくつと煮込まれる野菜の良い香りがした。
「リリは食べられへんもんある?」
気まずい沈黙を破るようにアーシャがリリの頭を撫でる。リリは首を横に振り、凄いだろうと言わんばかりにアーシャを見上げた。
「そうか。偉いなぁ。大人やな」
アーシャは大げさに驚いてみせる。リリが大きくうなずいた。クレリアがリリを見つめ、小さく微笑んだ。
「できた!」
ぱちんと手を叩き、店長は高らかに料理の完成を告げる。「おお」とアーシャが椅子から立ち上がり、カウンター越しに覗き込んだ。店長が鍋のフタを開ける。湯気と共にふわりと香りが広がる。リリの目が輝く。
「……この、香り――」
何かに気付いたようにクレリアがつぶやく。店長は自信ありげな表情で鍋から深皿にそれをよそった。アーシャが驚いたような声を上げる。
「……シチュー?」
「そうよ」
店長はクレリアの前に皿を置いた。ホワイトソースの中に透き通った玉ねぎと人参の赤、ジャガイモの黄が浮かんでいる。ひと口大に切られた鶏肉がわずかに顔を出す横には、鮮やかな緑があった。
「……このくっそ暑いのに?」
「嫌なら食べなくていいわよ」
「滅相もございません」
店長はリリ、アーシャ、エルリックの順に皿を並べていく。リリが木のスプーンを右手に握りしめた。クレリアは皿の中の緑を凝視している。
「――月桂樹」
「そう」
クレリアのつぶやきを店長が肯定する。クレリアは顔を上げて店長を見た。
「どうして?」
店長は少しバツの悪そうな顔をする。
「間違っていたらごめんなさいね。あなた、ノーザランの出身じゃない?」
クレリアはわずかに身を固くする。店長は慌てたように言った。
「昔の同僚にノーザラン出身の奴がいてね。そいつから教わったの、っていうか作らされたの。『教えるから作れ』って」
ノーザランはオルディアのはるか北にある、一年の半分以上が雪に覆われた過酷な地だ。そこに住まう人々の肌は雪を映したように白く、寡黙で、芯が強く決して諦めることがないという。エルリック自身はノーザランに行ったことはなく、そこに住まう人々に会ったこともないが、『ノーザランの兵は手強い』という話は王都で幾度も耳にしたことがあった。
「食べてみて。故郷の味には及ばないけれど」
店長に促され、クレリアはシチューに目を落とした。木のスプーンですくい、口に運ぶ。アーシャが緊張の面持ちでクレリアの横顔を見る。咀嚼して飲み込み、クレリアはぽつりとつぶやく。
「おい、しい――」
アーシャがホッと息を吐く。クレリアの目から涙の粒がこぼれた。「えっ!?」と声を上げ、アーシャがクレリアに手を伸ばす。店長の視線がアーシャを制した。
「ふっ、……くっ――」
クレリアの目から涙が溢れる。迷うように店長を見つめ、アーシャは手を引いた。店長は穏やかに話しかける。
「長かったわね。よく、頑張った」
クレリアは両手で顔を覆い、肩を震わせる。リリが席を降り、クレリアの足に抱き着いた。アーシャが涙ぐみ、鼻をすする。クレリアの音のない嗚咽が響く。
――このひとは、声を上げて泣くことができないのだ
顔を覆った両手の間からこぼれる涙を見つめ、エルリックは口を真横に引き結んだ。




