第99話:怖いまま動け
「師匠、大丈夫?」
コントロールルームのパイプ椅子に腰掛けていた俺に、如月セナが心配そうに覗き込んできた。
「ああ。少し頭痛が残っているだけだ。気にするな」
俺――七瀬ハルカは、こめかみを軽く押さえながら、ずらりと並んだモニターに視線を戻した。
学園を襲った理念テロの第一波。そのメイン爆縮は防いだものの、魔素保管庫から流出した高濃度の残留魔素が、旧校舎地下の訓練用ダンジョンへと逆流。局所的な暴発を引き起こした。
その結果、一部の訓練エリアで下級生たちのグループが取り残される事態が発生している。
「師匠はここで待機。戦闘禁止、魔眼の使用も禁止だよ。アーサーさんにもきつく言われてるんだからね」
「分かっている。俺はただ、見てるだけだ」
今の俺は記憶喪失の、ただのひ弱な銀髪美少女(中身は52歳の元傭兵だが)。現場に無理に出撃すれば、足手まといになるだけだと理解している。
モニターの向こうでは、すでに学園が組織した救護班――後方搬送のチームが、地下通路へと進入していた。
その画面の中央に映る、一台のヘルメットカメラの映像。
隊列の先頭を走りながら、鋭い指示を飛ばしているのは、候補生の結城瞬だった。
「右前方、3メートル先の天井に亀裂! 落下物の恐れあり、左側に寄って駆け抜けろ!」
彼の指示は的確だった。
元々は気弱で、双眼鏡を覗く手すら震わせていたという少年。だが、今の彼の動きには、迷いがない。魔素の霧が立ち込める薄暗い地下通路で、彼はその卓越した「違和感察知力」をフルに稼働させ、トラップや二次災害の危険を次々と回避していた。
「……結城は、ずいぶんと成長したんだな」
ぽつりと呟いた俺に、隣でコンソールを叩いていたセナが、ふっと柔らかく微笑んだ。
「うん。結城くん、すごく頑張ったんだよ。師匠が、彼に戦い方を教えたから」
「俺が……か」
やはり、記憶がない。俺が彼にどんな教えを授けたのか、今の俺には思い出すことができなかった。
その時、結城のチームが地下三階の退避シェルター手前に到達した。
「救護班だ! 誰かいないか!」
結城が鉄扉を叩き、通信機を介して叫ぶ。
中から転がり出てきたのは、怯えきった様子の一年生たちだった。数名が軽い魔素中毒を起こしており、呼吸を荒くして座り込んでいる。
「大丈夫だ、もう安全なルートを確保した。すぐにここを脱出する。歩けない奴は担架へ!」
結城の指示のもと、搬送班が素早く下級生たちを担架に乗せていく。
だが、その瞬間、通路の奥から不気味な遠吠えが響き渡った。
疑似ダンジョンから溢れ出た、野良モンスターの咆哮。
「ひっ……!」
一年生の一人が悲鳴を上げ、その場にすくみ上がった。
それだけではない。担架の端を握っていた、結城のすぐ後ろの搬送班候補生――彼もまた一年生だった――が、恐怖のあまりガタガタと全身を震わせ、その場に崩れ落ちてしまったのだ。
「だ、駄目だ……動けない。こんなの、死んじゃうよ……!」
少年の瞳には涙が浮かび、担架の持ち手から手が離れてしまう。
周囲に焦燥が広がる。魔素の霧は刻一刻と濃くなり、崩落の危険も高まっている。ここで立ち止まれば、全員が巻き込まれて全滅しかねない。
ヘルメットカメラの映像が、激しく揺れた。結城がその場にしゃがみ込み、震える一年生の肩を掴む。
その結城の指先もまた、微かに震えていた。
だが、結城は、かつてないほど力強い声で、その一年生を見据えて言い放った。
「怖くなくなる必要はない。怖いまま動け。それができる奴だけが、人を運べるんだ」
――え?
コントロールルームでそれを見ていた俺の心臓が、どくりと跳ねた。
頭の奥で、カチリと何かの歯車が噛み合うような、奇妙な感覚。
「結城くん……」
モニターの向こうで、一年生の少年は目を見開いた。結城の、自分と同じように震えながらも、決して退かない瞳を見て、少年は生唾を飲み込んだ。
「怖いまま、動く……」
「そうだ。立て! 俺がお前を、全員を絶対に生きて帰す!」
結城の言葉に弾かれたように、一年生は再び担架の持ち手を力強く握りしめた。
「……はい!」
「よし、搬送再開! 急げ!」
結城の指揮のもと、チームは一丸となって通路を駆け抜けていく。モンスターの追撃を、結城の的確な進路指示と、連携による威嚇射撃で完璧にいなしながら、彼らは光の差し込む地上出口へと無事に脱出していった。
コントロールルームのモニターに、全員生存、救出完了の文字が躍る。
俺はパイプ椅子に背中を預けたまま、呆然と自分の手の平を見つめていた。
「師匠、どうしたの?」
セナが不思議そうに声をかけてくる。
「いや……」
俺は渇いた喉を鳴らし、呟いた。
「結城がさっき言った言葉……あれは、何だ。妙に、胸に引っかかる。まるで、俺自身が誰かに言ったことがあるような――」
セナはキーボードを叩く手を止め、俺の顔を、いとおしむような、それでいてどこか切ない瞳で見つめた。
「……うん。そうだよ、師匠」
セナは静かに言った。
「それはね、以前の師匠が、あの卒業試験のときに、怖がって動けなくなっていた結城くんに教えた、大切な言葉なんだよ」
「俺が……?」
「そう。あの子たちは、ちゃんと覚えているんだよ。師匠が、自分たちの心に植え付けてくれた、戦うための強さを」
セナの言葉が、じんわりと俺の胸の奥に染み込んでいく。
記憶を失った俺は、自分が過去に何をしてきたのか、どんな人間だったのか、不安に思うこともあった。
けれど、俺が残した「足跡」は、こうして彼らの中にしっかりと息づいている。
俺が彼らに与えた言葉が、今、巡り巡って彼ら自身を、そしてその下の世代を救っているのだ。
「……そうか」
俺は小さく笑った。少しだけ、視界が滲んだのは、残る頭痛のせいにしておこう。
「たいしたものだな、結城は。……今の俺より、よっぽど格好いい戦闘屋だ」
「ふふ、そうだね。でも、彼らをそうしたのは、間違いなく師匠なんだよ」
セナにそう言われ、俺は照れ隠しにふいと顔を背けた。
モニターに映る結城瞬は、泥と汗にまみれながらも、救出した後輩たちに囲まれ、少し照れくさそうに笑っていた。
失われた記憶。その全貌が戻るのがいつになるかは、今の俺には分からない。
だが、彼らの姿を見ていると、案外、悪いことばかりでもないのかもしれないな、と。
そんなことを思いながら、俺は冷めきった煎茶の最後の一口を、静かに喉の奥へと流し込んだ。




