第100話:痛みの輪郭
「――よし、配信開始したよ、師匠」
如月セナが、ノートパソコンの画面から顔を上げて小さく頷いた。
俺の部屋のローテーブルの上には、セナが持ち込んだ配信用機材と、俺が淹れたばかりの温かい煎茶が並んでいる。
今日の配信は、ここ数回続けている『七瀬遙の思い出アーカイブ同時視聴』の第三弾だ。
記憶を失った俺が、かつての自分が配信した戦闘映像を視聴者と一緒に振り返り、何かしらの「リハビリ」に役立てようという、セナの発案による企画である。
「皆さん、こんばんは。七瀬遙です。今日は、第十層でのバジリスク戦を観ていこうと思います」
俺はマイクに向かって、セナから指導された「少し高めの、愛想のいい女子高生の声」を意識して発声した。
その瞬間、画面の右端を流れるコメント欄が、ものすごい速度で動き始める。
『待ってました!』
『伝説のピクニック回キター!』
『中層階にピクニック(重武装)に行くJK』
『今日のハルカちゃんも声が尊い』
『記憶リハビリ、順調?』
「おかげさまで、体調は悪くない。……ただ、自分の動きを客観的に観るのは、少し妙な気分だな」
俺は苦笑しながら、セナが再生ボタンを押した画面に視線を向けた。
モニターの中で、銀髪の少女――かつての俺が、第十層『中層階』の重苦しい空気の中を、愛銃のHK416を抱えて進んでいく。
「この時の装備だが、銃の重量バランスが少し後ろに寄っているな。クリアリングの際、銃口の跳ね上がりを抑えるために、左手の添え方が不自然だ」
俺が冷静に分析を口にすると、コメント欄に草が生え始める。
『解説がガチすぎるんだよなぁ』
『銃口の跳ね上がりを気にするJK(16)』
『中身おっさん説が深まる解説』
『でも動きに無駄がなさすぎて美しい』
「そうでもない。……あ、ここだな」
再生された映像に、エリアボスである『バジリスク』の変異種が出現した。
全身を漆黒の鱗で覆われた巨大な蛇。その赤い瞳が、暴走状態であることを示している。
周囲には石化の邪眼にやられた冒険者たちが倒れており、生き残ったタンク職の男が一人、盾を構えて絶望的な防衛戦を行っていた。
かつての俺は、迷うことなくバジリスクの正面へと滑り込んでいく。
「スライディングの軌道は悪くないが、腰のポーチから発煙筒を抜くタイミングが、コンマ数秒遅い。手首のスナップも甘いな。これでは投擲の弾道が安定しない」
『スナップをダメ出しされる伝説のJK』
『スモークの投げ方に厳しい女子高生』
'でもこのスモークのおかげで石化防げたんだよね'
「ああ。バジリスクの石化視線を遮断するための、最低限の処置だ」
映像のなかで濃密な白煙が広がり、視界が完全に遮断される。
だが、かつての俺は、サーマルゴーグルを起動して熱源探知へと切り替えていた。
煙の向こうでのたうち回るバジリスクの口内――鱗のない、唯一の弱点に向けて、HK416のフルオート射撃が正確無比に吸い込まれていく。
「……ここまでは、マニュアル通りの対処だ。問題は、この後だな」
俺は、喉の奥がわずかに渇くのを感じた。
かつての俺が、煙を突き破って跳躍する。
空中で、背負っていた対物ライフルへと持ち替える。
銃身の長い、12.7ミリ弾を使用する対物ライフル。その銃口が、バジリスクの頭部へと向けられた。
――撃てば、どうなるか。
空中には、反動を逃がすための支えがない。
その凄まじい衝撃は、すべて、少女の華奢な肉体が受け止めることになる。
「……あばよ」
銀髪の少女が、引き金を引いた。
ドォォォォン!!
スピーカーから、鼓膜を震わせるような凄まじい発砲音が響く。
次の瞬間、俺の右肩の奥が、カッと熱くなった。
「――っ」
あの日、空中で引き金を引いた瞬間の、骨がきしむような衝撃。
肺からすべての空気が一瞬で搾り出されるような、強烈な窒息感。
そして、右肩の関節が、メキリと嫌な音を立てて外れかけたときの、脳を直接焼くような生々しい感覚。
それらは単なる過去の映像ではなかった。
俺の右肩が、その瞬間の衝撃波をなぞるように、内側からカッと熱くなる。
口の中に広がる、鉄錆に似た血の味。
荒くなる呼吸。
俺は無意識のうちに、右手の指先で、自分の右肩の鎖骨のあたりを強く、強くさすっていた。
皮膚の上からでも、あの日刻まれた傷の痕跡が、熱を持って疼いているのがはっきりと分かった。
「……痛かったな、これ」
ぽつりと、掠れた声が漏れた。
その瞬間、隣でキーボードを叩いていたセナの指先が、ピタリと止まった。
セナは目を見開き、信じられないものを見るような目で俺の横顔を見つめている。
俺自身、自分の喉の奥から出たその響きに、奇妙な違和感を覚えていた。
いつもの「七瀬ハルカ」の、少し高くて愛想のいい声ではない。
もっと低く、砂を噛んだように掠れていて、まるで――。
マイクは、その異質な響きを完璧に拾っていた。
一瞬、コメント欄の流れが、ぴたりと止まった。
底知れぬ沈黙。
そして、次の瞬間、爆発的な勢いでログが跳ね上がった。
『え?』
『今、誰の声……?』
『めちゃくちゃ低い声聞こえたんだけど』
『「痛かったな、これ」って言った?』
『ハルカちゃんの声じゃない……!?』
『おっさん!? 今、ガチのおっさんの声したぞ!?』
『中の人、戻ってきてる……?』
「あ、え、ええと!」
隣にいたセナが、血相を変えてキーボードを叩き始めた。
「み、皆さん! 今のは、その、ハルカちゃんがちょっと喉を痛めてて! 風邪気味で、咳払いをしたのが変な風にマイクに響いちゃっただけで! ほら、ハルカちゃん、ね!?」
セナが必死の形相で、俺に視線で合図を送ってくる。
俺は、右肩に残る微かな熱い疼きを感じながら、深く息を吸い込み、乱れた呼吸を整えた。
あるいはいつもの「七瀬ハルカ」の声に戻すため、喉の奥の感覚を慎重に手繰り寄せる。
「……ああ、すまない。少し喉の調子が悪くてな。お見苦しいところを見せた」
俺がそう言うと、コメント欄は「なんだ、びっくりした」「風邪お大事に」「一瞬、ガチの特殊部隊のオヤジが背後にいるのかと思ったわ」と、セナの必死のフォローもあって、徐々に落ち着きを取り戻していった。
だが、右肩の疼きは、しばらく消えなかった。
「……さて、バジリスクも倒したことだし、今日の同時視聴はここまでにしよう。皆、遅くまで付き合ってくれてありがとう」
俺はカメラに向かって短く告げ、配信を切った。
画面が暗転し、静寂が部屋を支配する。
暗くなったモニターには、銀髪の少女の姿がぼんやりと映り込んでいた。
その華奢な輪郭の右肩を、俺は無意識のうちに右手でさすり続けている。
皮膚の奥で、あの日受けた衝撃の熱が、まだ微かに燻っているような感覚。
「師匠……」
隣で、セナが何かを言いかけて、口を噤んだ。
その瞳には、いつものマッドサイエンティストのような悪戯っぽさはなく、ただ、俺の右肩を見つめる静かな憂いだけが揺れている。
「……煎茶、冷めちまったな」
俺はローテーブルの上の湯呑みに視線を落とした。
わずかに残った冷たい茶を、一気に喉の奥へ流し込む。
喉を通り抜ける冷気だけが、右肩の熱を少しだけ冷ましてくれるような気がした。




