第101話:土と風の不協和音
制御室のパイプ椅子は、今の俺の軽い体重ではきしむ音すら立てない。
右肩の奥が、じんじんと鈍い熱を帯びて疼いていた。
前日の夜、セナと一緒にバジリスク戦のアーカイブを観た際の反動だ。空中で12.7ミリ弾を使用する対物ライフルをぶっ放したときの、骨がきしむような衝撃。あの日、華奢な少女の肉体に刻まれたはずの痛みが、記憶の空白を埋めるようにして右肩の奥で燻っている。
頭は覚えていなくとも、この身体だけは、かつて受けた「痛みの輪郭」を克明に記憶しているらしい。
「師匠、湿布貼り直そうか? それとも、冷たいお茶淹れる?」
隣で複数のモニターを監視していたセナが、心配そうに俺の顔を覗き込んできた。
「いや、いい。冷たい茶なら、さっき飲んだ。……それより、映したままでくれ。そろそろ始まるだろ」
俺は視線をモニター群へと戻した。
画面に映し出されているのは、学園都市の外縁に位置する、廃工場の内部だ。
先日の理念テロの余波。残留魔素の逆流によって発生した局地的な共鳴獣の侵入が、そこでも確認されていた。
現在、その廃工場の防衛エリアを担当しているのは、候補生の星野雫と、クラス委員長の須藤の二人だった。
「……雫ちゃんと委員長、相性は悪くないはずなんだけど。やっぱり、実戦となると緊張してるみたい」
セナがタブレットを抱え込み、画面の端に表示された二人の心拍数グラフを指差した。
数値は通常時の倍近くまで跳ね上がっている。
薄暗い廃工場のシャッターを破り、二頭の三つ首猟犬と、岩のような皮膚を持つ重装甲・オークが侵入してきた。
ガタガタと、コンクリートの床が怪物の足音で揺れる。
「雫、来るよ!」
須藤の声が、ヘルメットのマイクを通じて制御室のスピーカーから微かに響いた。
彼女は風魔法を指先に集め、いつでも迎撃できるように身構えている。
対する星野雫は、泥だらけの戦闘服のまま、床に膝をついていた。
(……何をしている)
俺は、無意識のうちに身を乗り出していた。
まともに撃ち合えば、あのオークの突進力には敵わない。雫が使うのは土魔法だが、彼女は西園寺レオのような、巨大な岩石を降らせるような高火力の魔法は使えないはずだ。
突進してくるオークが、丸太のような腕を持ち上げた、その瞬間。
「……泥濘になれ」
雫が、両手をコンクリートの床へ突き立てた。
直後、乾いていたはずの床が、泥水を含んだ底なしの泥沼へと急激に軟化する。
オークの巨体が、自重の重さでずぶりと足元を沈ませ、前のめりにつんのめった。
「グオオオッ!?」
「須藤さん、今!」
「ウィンド・エコー!」
須藤の放った風魔法が、オークの顔面を砂塵ごと覆い、その視界を完璧に塞ぐ。
目も見えず、足も取られ、泥の中でもがくオーク。
だが、雫はそこで立ち止まらなかった。
彼女は綺麗に避けるのではなく、自らも泥の中に滑り込むようにして、オークの死角へと回り込んだ。
美少女らしからぬ、泥まみれの匍匐前進。
手にしたコンバットナイフの刃先を、オークの脇の下――魔素の鎧が最も薄くなる、関節の継ぎ目へと、躊躇なく突き立てた。
ズチュッ。
嫌な生々しい音が、マイクを通して聞こえてくる。
オークが悲鳴を上げて崩れ落ち、光の粒子となって消滅していく。
「……すごい」
セナが、驚愕に目を見開いて呟いた。
「雫ちゃん、魔法の出力は全然上がってないのに。……床の硬度を局所的に変えて、敵の自重を利用してハメるなんて。あんなの、教科書には載ってない」
「……ああ。載っていないな」
俺は、自分の右手が、膝の上でかすかに震えていることに気づいた。
記憶の空白のどこかで、何かが激しく主張している。
綺麗に勝つ必要はない。
泥にまみれ、泥水を啜ってでも、最後に立っていた奴が勝者だ。
それは、俺の言葉だ。
かつて、あの過酷極まりない模擬教練の最中、泣きべそをかいていた少女に、俺が叩き込んだはずの、泥臭い生存者の流儀。
雫は、その不器用な手で、俺の教えを最も忠実に体現していた。
彼女の泥だらけの顔。
綺麗な魔法を誇るエリートたちとは違う、泥を這いずり回ってでも怪物を仕留めるその執念。
そのすべてが、俺の胸の奥の、とうに冷めきっていたはずの火種を揺さぶる。
「雫、右から猟犬が来る!」
「分かってる……っ!」
雫は、泥に塗れた手で、床に転がっていた鉄筋コンクリートの破片を拾い上げた。
魔法に頼るのではない。
手元にある「使えるものは何でも使う」という、徹底した実戦思考。
飛びかかってきた猟犬の開いた顎に向けて、彼女はその鉄筋を迷わず突き刺した。
肉を貫く鈍い音。
崩れ落ちた猟犬の首筋を、今度は須藤の鋭い風の刃が正確に切り裂く。
二人の連携には、華麗な美しさこそない。
だが、そこには戦場を泥臭く生き延びるための、圧倒的な「強さ」があった。
五分後。
廃工場のなかに、静寂が戻った。
倒れた共鳴獣たちはすべて消滅し、床には、泥まみれになりながら息を荒くしている二人の候補生の姿だけが残されていた。
『ハァ……ハァ……。し、雫、怪我はない?』
『うん……。泥が目に入って、ちょっと痛いだけ』
雫は泥だらけの手で顔を拭い、それから、ふっと小さく苦笑した。
『……私、もう涙目で遺書アプリ開かないよ』
『え?』
『ううん、なんでもない。……ただ、少しだけ、あの人の言っていたことが分かった気がして』
スピーカーから聞こえる、彼女たちの安堵した声。
俺は、コンソールの上に置かれていたマイクを、ゆっくりと手に取った。
喉の奥が、妙に熱くて、言葉がうまく出てこない。
だが、マイクのスイッチを入れ、喉の筋肉を慎重に手繰り寄せる。
「……星野、須藤」
マイクを介して、俺の声が廃工場の二人に届く。
『あ、七瀬さん……!』
「泥まみれの戦闘服は、後でちゃんと洗っておけよ。……だが、動きは悪くなかった。合格だ」
俺がそう告げると、モニターの中の雫が、泥だらけの顔をくしゃりと歪めて、本当に嬉しそうに笑った。
須藤も、安堵したように胸を撫で下ろしている。
マイクを置き、俺は再び自分の右手を見つめた。
記憶を失い、俺は自分が誰なのか、何を遺してきたのか分からずにいた。
けれど、俺が彼らに遺した「足跡」は、彼らの泥だらけの戦闘服の中に、確かに、そして熱く、息づいていた。
「……師匠、ちょっとだけ、嬉しそうだね」
セナが、隣でくすくすと笑った。
「そうか。……自分では、よく分からん」
俺はふいと顔を背け、冷めきった煎茶の湯呑みを見つめた。
「あ、師匠。お茶、冷めちゃったね。温かいの、淹れ直すよ」
セナが立ち上がり、急須を手にする。
トクトクと、新しく淹れられた温かいお茶の香りが、制御室の無機質な空気をわずかに和らげていく。
俺は自分の右手の指先を、そっと見つめた。
記憶はなくとも、俺が遺したものは、確かに彼女たちの中に受け継がれている。
新しく差し出された湯呑みから立ち上る湯気を、俺は静かに見つめ続けていた。




