第102話:霧の向こうの固有名詞
午前中の曇り空は、薄い灰色一色に塗り潰されている。
窓の外から差し込む光は弱く、寮の自室の隅々を、ぼんやりとした影で満たしていた。
俺はベッドの縁に腰掛け、自分の呼吸の深さを確かめるように、ゆっくりと息を吐き出していた。
前日の雫たちの戦闘を見届けた後、喉の奥に残っていた熱い疼きは、一晩眠った今でも完全に消え去ってはいない。
身体が、かつて誰かに何かを教え込んだという感覚だけを、奇妙なほど鮮明に保持している。
トントン、と遠慮がちなノックの音が静かな部屋に響いた。
「師匠、入るよ?」
返事をする前に、セナが扉を少しだけ開けて顔を覗かせた。
彼女の手には、いつものタブレット端末ではなく、小さな遮光ガラスのアンプルが握られている。
中に満たされているのは、淡い琥珀色の液体だった。
「体調はどう? 右肩の痛み、まだ残ってる?」
「いや、問題ない。ただの筋肉痛のようなものだ」
俺が答えると、セナはほっとしたように息を吐き、ベッドサイドの丸椅子を引き寄せて座った。
そして、手の中のアンプルを俺の前に差し出す。
「これね、約束していた抑制薬の改良版。やっと調合が安定したの」
「改良版、か」
俺はアンプルを受け取り、指先でその冷たいガラスの感触を確かめた。
大扉決戦の最中、呪いの進行を抑えるために投与された以前の抑制薬には、手痛い副作用があった。
脳の戦術思考回路が極端に低下し、あろうことか、この若返った肉体に引きずられるようにして、奇妙な女子高生風の口調が混ざり始めるという、老兵としては致命的極まりないバグだ。
「前の薬は、魔素の暴走を抑えるために脳の活動自体を強制的にシャットダウンするようなものだったからね。でも、今回の改良版はアプローチが違うの」
セナは、タブレットを操作して複雑な術式構造のグラフを示した。
「魔素の抑制効果は最低限に留める代わりに、呪いによってロックされている脳の記憶領域――特に、言語や固有名詞を司る部分に、ピンポイントで干渉するように設計し直したの。つまり、記憶の部分回復に特化した薬」
「……なるほど。だが、タダで手に入る美味い話はない。代償は何だ?」
俺の問いに、セナは少しだけ気まずそうに視線を泳がせた。
「……やっぱり、師匠は鋭いね。うん、副作用はあるよ。これを飲むと、脳の処理能力が一時的に著しく低下するの。具体的に言うと、服用してから数時間は、泥の中にいるみたいに頭が回らなくなる。状況判断も、身体の反応速度も、通常の半分以下に落ちるはず」
セナは真剣な表情で、俺の目を真っ直ぐに見つめてきた。
「だから、実戦投入は絶対に不可。何があっても、安全なこの部屋で、安静にしていられる時しか使っちゃダメ。約束できる?」
「実戦で使えば、ただの動く標的になるということか。了解だ。そんな自殺志願者のような真似はしない」
俺はアンプルの金属キャップを親指で弾き、ためらうことなく、その琥珀色の液体を喉の奥へと流し込んだ。
味は、ひどく苦く、そして金属的な冷たさがあった。
胃に落ちた瞬間、内臓の底からじわじわと熱が立ち上り、それが血管を通じて首筋を駆け上がり、脳の奥へと達する。
「……っ」
頭蓋骨の奥を、細い針で直接突つかれているような、鋭い刺激。
俺は無意識に頭を抱え、ベッドの上に身を屈めた。
脳裏を覆っていた、あの分厚く、重苦しい灰色の霧。
その霧の向こう側で、固く閉ざされていた無数の引き出しが、見えない鍵によって次々とこじ開けられていくような、不快な音が響いていた。
「師匠! 大丈夫?」
セナの焦ったような声が、妙に遠く聞こえる。
俺は耳鳴りに耐えながら、脳裏に奔流となって流れ込んでくる「記号」を、必死に繋ぎ止めようとしていた。
それは、これまで「あの部下」や「あのエリート」と、役割のラベルだけで呼んでいた人々の、本当の名前だった。
――アーサー。
そうだ。俺を主君と呼び、あの重苦しい大剣を軽々と振り回す、忠義の塊のような旧部下。彼の名前は、アーサーだ。
――西園寺レオ。
生意気で、プライドが高く、だが誰よりも真っ直ぐに強さを求めていた、あの土魔法の少年。
――結城瞬。
臆病で、いつも震えていて、それでも最後には仲間を救うために一歩を踏み出した、あの風魔法の候補生。
――星野雫。
泥にまみれ、涙目で遺書アプリをいじっていた、あの不器用な土魔法の少女。
――篠原響。
頬の側面で風を読み、手のひらで音の反響を拾うようにして、俺の背後を偵察で支えてくれた、あの候補生。
そして――田中。
いつも増え続ける白髪を抱え、栄養ドリンクの空き缶をデスクに並べながら、国家の裏側で泥水を啜っている、あの哀れなエージェント。
――キララ。
俺の盆栽配信を「世界観プロデュース」などと称して、おもしろおかしく飾り立ててくれる、あの軽い調子のアイドル配信者。
「……あ……」
喉の奥から、乾いた声が漏れた。
名前が、顔と一致する。
彼らが自分にとってどういう存在であり、どのような言葉を交わしたのかという、人間関係の「外枠」が、急速に、そして驚くほどの明瞭さで脳裏に定着していく。
だが、まだ足りない。
名前は戻った。関係性も理解した。
けれど、彼らと共に過ごした五十二年分の「感情の色彩」や「詳細な経験の記憶」は、依然として冷たい霧の向こう側に沈んだままだ。
ただ、白黒の図面に、正確な固有名詞が書き込まれただけのような、奇妙な感覚。
それと同時に、セナが警告していた「代償」が、容赦なく俺の肉体を支配し始めた。
急速に、頭の芯が冷えていく。
思考の歯車が、泥水を流し込まれたように重くなり、一回転させるのすら億劫になっていく。
視界が、ぐにゃりと歪んだ。
目の前にいるセナの顔が、二重にも三重にもブレて見える。
「……セ、ナ……」
俺は、ろれつの回らない舌で、かろうじて彼女の名前を呼んだ。
「あ、うん。師匠、ここにいるよ。……やっぱり、副作用が来ちゃったね。すごく眠そう」
セナの細い手が、俺の肩をそっと支え、ベッドの上へと横たわらせた。
身体が、羽毛のように軽い。
いつもなら周囲の気配を警戒して張り詰めているはずの神経が、今は完全に弛緩し、ただ泥のような眠気の底へと沈んでいく。
「ゆっくり眠って。名前が戻ったなら、今日のところは、それで大成功だから」
セナの優しい声が、遠ざかっていく。
俺は重い瞼を閉じる直前、窓の外の、相変わらず灰色に閉ざされた曇り空を見つめていた。
アーサー。レオ。結城。雫。響。田中。キララ。
脳裏に刻まれたその名前たちを、俺は消えないように、何度も、何度も反芻する。
次に彼らの顔を見る時、俺はもう、彼らを「見知らぬ誰か」として見ることはない。
その確かな実感だけを胸に、俺は、深く、暗い眠りの底へと、静かに意識を沈めていった。




