第98話:理念テロ・第一波(学園)
深夜の探索者アカデミーは、冷たい静寂に支配されていた。
月光が遮光フェンスとコンクリートの校舎を白く照らし、敷地の北西角に位置する「魔素資料保管庫」だけが、頑強な防壁に囲まれて沈黙している。
その影に、数人の人影が溶け込んでいた。
全身を夜色に染めた、特殊な魔力遮断外套を羽織った集団。彼らの目的は、学園が極秘裏に管理している「初期のダンジョンにおける結晶化魔素の抽出データ」および「変異体サンプル」の奪取、そしてそれを公表することによる社会への揺さぶり――通称、理念テロだった。
「……侵入検知、残り三秒で無効化する。急げ」
低く、機械的に加工された声。
彼らが保管庫の二重隔壁に手をかけようとしたその瞬間、背後の闇から鋭い風が吹き抜けた。
「そこまでだ、ネズミども」
コンクリートの地面を蹴る、硬いブーツの音。
現れたのは、抜剣したばかりの魔導剣を構える少年――西園寺レオだった。
その背後には、大盾を抱えるように土魔法の準備を確かめる星野雫、そして指先で静かに空気の流れを読む篠原響、後方でライト魔法の準備を整える結城瞬が控えている。
臨時防衛班として学園の夜間警戒任務を拝命していた彼らは、不自然な魔力の明滅を完璧に捉えていた。
「チッ、学園のガキどもか。いや――西園寺レオ。それに『落ちこぼれ小隊』か」
侵入者の一人が吐き捨てるように言った。
その手には、不気味な黒い雷を纏ったタクティカル・ダガーが握られている。
「学園の警備がこれだけなわけがない。だが、本隊が来る前に片付ける!」
「やらせるかよ!」
レオが鋭く息を吐き出し、地を蹴った。
瞬時に距離を詰めるその踏み込みは、以前よりもはるかに鋭く、無駄が削ぎ落とされていた。
かつて、あの「銀髪の少女」から受けた過酷極まりない模擬戦の記憶が、レオの肉体に深く刻み込まれている。
(突っ込みすぎるな。常に盾のカバー範囲を意識しろ。そして、相手の視線に惑わされるな。見るべきは重心だ――)
頭の中で、冷徹ながらもどこか温かい少女の声が蘇る。
キィィィン!
レオの剣と、テロリストのダガーが激しく火花を散らした。
ダガーから放たれる黒い雷がレオの魔力膜を抉ろうとするが、レオは力で押し返さず、わずかに刃を寝かせて衝撃を受け流す。
直後、真横から雫の土魔法が地面を急速に隆起させ、即席の防壁となって割り込んできた。
「ハァァァッ!」
土防壁による押し出し。
テロリストの一人がたまらず後退する。その足元へ、正確極まりないタイミングで、結城のライト魔法が放たれた。
「ライト!」
結城の叫びとともに、至近距離での全力発光が炸裂する。
闇に目が慣れていた男たちの視神経を焼き切る、簡易閃光弾だ。
「グギャッ!?」
地面から這い出た土の隆起が男の足を捕らえ、バランスを崩して転倒させる。
完璧な連携。かつて実戦訓練でまともに動けなかった「落ちこぼれ」たちの面影は、そこには微塵もなかった。
「おのれ……っ!」
テロリストの指導者らしき男が、懐から奇妙な結晶体を取り出し、床に叩きつけた。
乾いた破裂音とともに、保管庫の周囲に濃密な魔素の霧が立ち込める。
「雫、魔力膜を最大展開! これはノイズを誘発する!」
レオが叫ぶ。
周囲の視界が完全に遮られ、探索者用の通信デバイスからは不快な雑音しか聞こえなくなった。
外部への応援要請は完全に遮断された。
この状況下で、彼らは目の前の敵と、たった四人で戦わなければならない。
(……七瀬さんなら)
レオの脳裏に、一瞬だけ、あの無敵の背中がよぎった。
どんな絶望的な状況でも、あの少女――七瀬遙なら、一瞬でこの霧を吹き飛ばし、敵の心臓を射抜いていただろう。
彼女の連絡先は、レオの端末の短縮ダイヤルに登録されている。
今、ボタンを一つ押すだけで、あの圧倒的な「力」を呼ぶことができる。
だが、レオは端末に手を伸ばしかけた指を、強く握りしめて剣の柄に戻した。
(ダメだ。呼んじゃいけない)
彼女は今、自分自身の戦いをしている。記憶を失い、それでも何かと戦い、前を向いている。
俺たちがいつまでも、あの人の背中に甘えて、窮地のたびに呼び出しているようでは――俺たちは一生、あの人の「荷物」のままだ。
「雫! 結城! 響! 俺たちだけでこいつらを叩き出すぞ!」
「おうよ! 私の土壁は、そう簡単に破らせない!」
「了解。魔素の乱れから敵の位置を逆算します。……右、三十度、距離五!」
響の風による音響定位の指示に、レオが迷わず突っ込む。
霧を切り裂き、レオの剣がテロリストの肩口を浅く切り裂いた。
しかし、テロリストたちもプロだった。彼らの目的は、あくまで「保管庫のデータ」の奪取だ。
「これ以上の交戦は無意味だ。目標は確保した、爆破して離脱する!」
霧の奥から、くぐもった声が聞こえた。
保管庫の扉がすでにこじ開けられ、内部に仕掛けられた特殊な爆破術式が急速に光を放ち始めている。
その術式の規模は、この校舎だけでなく、周囲の敷地ごと吹き飛ばしかねないほどの高出力だった。
「しまっ――」
レオが保管庫へ走ろうとするが、二人のテロリストが命がけの足止めに肉薄してくる。
黒い雷の刃が、レオの脇腹をかすめて赤い血を散らせた。
「レオ君!」
雫が身を挺してレオの前に割り込み、テロリストの追撃を土の防壁で強引に防ぐ。
その衝撃で、防壁の表面に細かな亀裂が走り、雫が衝撃で膝を折った。
「結城、響、爆破術式の解除は!?」
「……無理です! 防壁が多重化されていて、僕たちの解析速度では、爆発までに三分足りません!」
結城の額に、大粒の汗が滲む。
テロリストたちはすでに、背後の窓を突き破って夜の闇へと逃亡を開始していた。
その手には、厳重に保管されていたはずの「魔素抽出データ」の記憶媒体が握られている。
(追うべきか、それとも爆破を止めるべきか――)
もし、ここで追跡を選べば、学園の建物が吹き飛び、多くのデータが失われる。
だが、もし爆破を止めようとすれば、敵の逃亡を許し、最も重要なデータ片が彼らの手に渡ってしまう。
追うべきか、防ぐべきか。
判断を迷う一瞬が、そのまま致命的な遅れになる。
ドクドクと耳の奥で早鐘を打つ鼓動。首筋を冷たい汗が伝い、顎の先から床へと滴り落ちた。
(落ち着け。あの人なら、どうする?)
ハルトなら。七瀬遙なら、どう判断する?
レオは目を閉じ、一瞬だけ、少女の「戦う姿勢」を心に思い描いた。
彼女は、決して命を天秤にかけない。
目の前にある「守るべきもの」を、絶対に諦めない。
「……爆破を止める!」
レオは叫んだ。
「響、風の振動で術式内部の物理的な『配線』を透視しろ! 結城、ライトを絞って回路の魔力流を浮き上がらせて可視化するんだ! 雫、起爆に繋がる物理衝撃をアースして時間を稼げ!」
「了解!」
「やってみる!」
ハルトに叩き込まれた、マニュアルを無視した泥臭い応用戦術。
魔法を単なる火力としてではなく、実戦を生き延びるための道具として使う――あの容赦ない教練が、今、この瞬間のためにあった。
響の風が、術式の亀裂を抜けて内部の構造を反響音でレオの耳に届ける。
結城の極細の光が、複雑に絡み合う魔力の流動を透かして浮かび上がらせる。
雫が床に両手を突き、起爆魔力の熱を土の中へ逃がし続ける。
「そこだ、レオ! 魔力を纏わない『純粋な物理刃』で、右から二番目の接続コアを叩き斬れ!」
「はぁぁぁっ!」
レオの魔導剣が、魔力を完全に切った鉄塊として、光り輝くコアへと振り下ろされた。
魔力吸収を無効化する、純粋物理による破壊。
バシィィィン!
激しいスパークとともに、爆破術式の多重防壁が完全に沈黙した。
しんと静まり返る保管庫。
四人は、その場に崩れ落ちるようにして座り込んだ。
雫の腕は痙攣し、レオの脇腹からは血が流れ、結城と響は魔力枯渇で指一本動かせない状態だった。
「……爆破は、止めたな」
レオが掠れた声で言うと、結城が力なく笑った。
「はい。止めました。……けど、データは持って行かれちゃいましたね」
レオは、悔しさに奥歯を噛み締めた。
防衛には成功した。しかし、データ片の流出は許してしまった。
自分たちの力不足が、痛いほど身に染みる。
その時、保管庫の入り口から、静かな足音が近づいてきた。
現れたのは、黒いスーツを端正に着こなした男――田中だった。
その手には、すでに状況を把握しているであろう端末が握られている。
「よくやった、と言いたいところだが。手痛い失点だな、レオ班」
田中の声は冷淡だったが、その瞳には奇妙な色が宿っていた。
「申し訳ありません、田中さん。俺たちの実力不足です。……敵のデータ強奪と逃亡を許しました」
レオが頭を下げると、田中は静かに眼鏡のブリッジを押し上げた。
「なぜ、七瀬さんに緊急要請を出さなかった? 彼女を呼んでいれば、霧の展開も防げたし、データの流出も阻止できただろう。お前の端末のログを見たが、送信直前で止めているな」
その問いに、レオは顔を上げた。
レオは悔しさに歪みかけた表情を強引に引き締め、真っ直ぐに田中を見据えた。
「……七瀬さんは、俺たちの保護者じゃないからです」
「ほう?」
「俺たちは、あの人に憧れて、あの人に追いつきたくて戦っています。でも、何かあるたびにあの人に泣きついていたら、俺たちはいつまで経っても守られるだけのガキのままだ。あの人は今、何か大きなものと戦っている……そんな気がするんです。だから、俺たちは自分たちの足で立たなきゃいけない。……そうじゃなきゃ、あの人の隣に立つ資格なんて、一生得られない」
レオの言葉は、熱を帯びていた。
その横で、結城も、雫も、響も、静かに頷いていた。
彼らの覚悟は、一つだった。
田中は、しばらく無言でレオを見つめていた。
そして、ふっと、誰にも気づかれないほどの小さな笑みを漏らした。
(……やれやれ。あのお節介な元傭兵が聞いたら、泣いて喜ぶか、あるいは生意気言うなと拳骨を落とすか、どちらでしょうね)
田中だけが、知っていた。
レオたちが憧れ、追いつこうとしている「七瀬遙」の正体が、彼らの恩師であるハルト本人であることを。
そしてハルトが今、呪いの副作用と記憶喪失という、あまりにも過酷な現実と戦いながら、それでも彼らの成長を心から願っていることを。
「……合格だ」
田中は、静かに言った。
「え?」
「任務としては、データの流出を許したため減点。しかし、探索者としての自立という意味においては、これ以上ない成果です。今回のデータ流出に関する後始末は、我々が引き受けます。お前たちは、治療院へ行きなさい」
「田中さん……」
「余計な心配は無用です。それよりも速やかに治療を受けなさい。その傷のせいで次の教練に支障が出れば、七瀬さんが何と言うか分かったものではありませんからね」
田中の言葉に、レオは少しだけ照れくさそうに笑い、脇腹を押さえながら立ち上がった。
結城と響がそれを支える。
「ありがとうございます。……次は、絶対に仕留めます」
肩を貸し合い、足を引きずりながらも、少年たちの歩みに迷いはなかった。
その背中を見送りながら、田中は静かに端末を取り出し、ある「銀髪の少女」への報告書を作成し始めた。
その報告書の最後には、こう書き添えられていた。
『雛たちは、あなたが思っている以上に、力強く羽ばたこうとしていますよ、大尉』




