第92話:盆栽の中の暗号
雨の音が、寮のベランダの庇を細く叩いていた。
午後の窓の外は、十月の冷たい灰色だった。
セナが、盆栽棚の前で携帯端末を構えている。
手のひらサイズの計測器が、棚の前にかざされたまま、低く唸り続けていた。
「セナ、それ何の機械だ」
「魔素濃度計。先週、新しいバージョンができたから、寮にも一台、って田中さんが」
「家電か」
「家電じゃないけど、まあ、家電寄り」
俺は鋏のケースを膝の上に置き、彼女の手元を見ていた。
計測器の画面に、グラフが滝のように流れている。
俺には数字の意味は分からない。ただ、セナの肩の角度が、この一分で二度ほど変わっていた。
「どうした」
「……たぶん、機械の不具合じゃない」
「不具合じゃない、というのは」
「ここ、反応が出てる」
セナが指差した先は、棚の右端。
樹齢の若い、小さな真柏の鉢だった。
◇
「真柏の鉢に、反応?」
「鉢じゃなくて、土。鉢を持ち上げて、底の近くで測ったら、ピークが出た」
「魔素なら、自然なものでもないか」
「自然なものなら、こんな波形にならない。これは『調整された』反応」
セナが画面を俺の方へ向けた。
波形が、規則的なリズムで脈打っている。
「これ、第零共鳴炉の触媒の波形と、同じ。私が湾岸の作戦で取ったサンプルの中にあった、第七種」
俺は、その単語を口の中で繰り返した。
第零共鳴炉。
単語自体は、退院後に何度か聞いている。ただ、その内容を、俺は具体的に思い出せない。
セナの声の置き方で、今すぐ無視できない種類の事象だ、ということだけは分かる。
「この鉢、どこから来た」
「アーサーさんが、病室の窓辺から、退院当日に運んできた一鉢」
「病院、か」
俺は鉢を見直した。
葉の形は整っている。退院から一ヶ月、毎日水をやっている。
その内側の土に、知らない誰かの仕掛けが、入っている。
◇
「土を、採取できるか」
「もう一握り、持ち帰る。でも、ここで動かすと、もし監視がついていた場合、こっちが気づいたって相手に伝わる」
「分かった」
俺は鋏のケースを置いたまま、立ち上がった。
動作は、少し遅かった。
ベランダの空気の温度が、一段だけ下がった気がした。
◇
「……田中です」
セナが端末をスピーカーモードに切り換えた。
「セナです。寮の盆栽棚で第七種の反応を検出しました。鉢の土に、微粒子レベルで」
『……場所は、はっきり盆栽棚ですか』
「真柏の鉢。退院時に運ばれてきた一鉢です」
『病室の窓辺にあった、あれですね』
「はい」
田中の声に、一瞬の間が落ちた。
『……侵入経路が、絞れます。あの病院の警備記録と、彼女が病室にいた期間の出入り記録、全部突き合わせる』
「お願い」
『そちらは、その鉢に近づきすぎないでください。観察と、監視カメラの追加だけ。動かしたら、相手に気づかれる』
「了解」
◇
通話が終わって、雨の音が部屋に戻ってきた。
俺は、真柏の鉢を見ていた。
葉の形は、いつも通りだった。
初めて目を覚ました病室で、最後に視線が止まったのが、この鉢だった。
あの時の土に、俺以外の誰かの意図が、すでに沈んでいたらしい。
「セナ」
「うん」
「この鉢、しばらく動かさなくていいんだな」
「うん。観察優先」
「水やりは」
「いつも通り。普段と違う動作をすると、向こうに伝わる」
「分かった」
俺は、棚の前から一歩だけ下がって、椅子に座り直した。
雨の音は、続いている。
真柏の葉先が、ベランダの風で一度だけ揺れた。
風と雨。それだけは、土の中の異物とは関係なく、いつもの順番で動いている。




