第91話:剣聖、過去語り部
午前十時、寮の端末に、田中からの通達が届いた。
短い文面だった。
『アーサー・ペンドラゴン氏を、七瀬遙の正式な警護担当として登録した。本日付。
以後、寮への常駐および同行任務に関する経費は、当課で全額計上する』
画面を閉じた俺は、廊下の方へ目を向けた。
扉の向こうで、いつもより少しだけ深く、息が一度落ちる音がした。
◇
アーサーが部屋に入ってきた時、彼の立ち姿が、これまでの「壁際で控える」位置から、机の正面へと一歩前進していた。
書面で位置が変わったのではない。彼の中での「公的な証明」が、彼の歩幅を一足ぶん変えていた。
「主君」
「うん」
「お祝いを、と思ったのですが、私には言葉の選び方が分かりませんでした」
「祝うのはいい」
「では、別の形で」
アーサーが机の脇の椅子に向かう途中、彼の視線が、机の上の湯呑みで一度だけ止まった。
ほんの半秒。それから、彼は何も言わずに椅子を引き、腰を下ろした。
彼が、俺と同じ高さで腰を下ろすのは、たぶん、今日が初めてだ。
「主君のことを、私が知っている範囲で、一つずつお話ししてもよろしいでしょうか」
「俺の昔話を」
「はい」
「リハビリの一環、というやつか」
「セナ嬢と田中殿に、相談しました。返事は『主君がよろしければ』でした」
俺は端末の角を、机の縁に揃え直した。
他人の昔話を聞く、という距離感で、頷いてみた。
「頼む」
◇
「最初の作戦の朝、私は緊張で動けませんでした」
アーサーは、座った姿勢のまま、まだ若かった頃の話を始めた。
「動けなかった、というのは」
「身体が、です。新兵というのは、たいてい一度は動けなくなる時期があります」
「俺は、何をした」
「主君は、私を蹴飛ばしてくださった。私が立っていた場所を、直後に敵の銃撃が通り抜けました」
「……」
「言葉で警告するより、足の方が早かったのです。私は、その日から主君の部下になりました」
アーサーが、初めて口の端を緩めた。
その緩み方が、俺の中の何にも届かなかった。
「次の朝、私は二日酔いで作戦に出ました。前の晩、主君が酒で潰してくださっていたので」
「俺が、お前を潰したのか」
「『新兵が緊張で死ぬくらいなら、酒で気絶しろ』と」
「……」
「翌朝、起きたら、酒のほうが作戦より重かった。だから作戦は、軽く済みました」
俺は黙って聞いていた。
アーサーの語りには、迷いの隙間がなかった。
彼が語る「主君」は、新兵を蹴飛ばして生かし、酒で潰して翌朝の緊張を抜く人間らしい。
俺は、その人間に対して、特別な感情を持てない。
ただ、「いい上司だったんだな」とだけ、思った。
◇
「アーサー」
「はい」
「お前は、その『主君』を、いい人だと思っているのか」
「『いい人』ではありません」
「では、何だ」
「私を、生かしてくれた人です」
言葉の選び方に、迷いがなかった。
「いい人」と「生かしてくれた人」。その差は、まだ俺の手元にない物差しの話だった。
「もう一つ、いいでしょうか」
「頼む」
「主君は、戦闘の前と後で、必ずお茶を淹れていました」
「お茶」
「はい。煎茶、ほうじ茶、玄米茶。日によって違いました。我々部下にも、必ず一杯ずつ配ってくださった」
「それは、なぜ」
「『戦場の前後で、舌に普段の味を残しておけ。狂わずに済む』と」
俺は、視線を机の上に落とした。
端末の隣に、湯呑みが一つ置かれていた。
いつ、自分が棚から出して、いつ、煎茶を淹れたか、覚えていない。
ただ、退院してからの朝、毎日、ここに置かれている。
◇
「アーサー」
「はい」
「次の話は、いつ聞ける」
「主君がご所望の時に」
「明日、また聞かせてくれ」
「承知いたしました」
アーサーが、椅子から立ち上がる動きの途中で、一度だけ姿勢が止まった。
彼が「明日」を聞いて、何かを飲み込むように呼吸を整えたのが、視界の端に映った。
彼は何も言わずに、頭を下げ、扉を閉めた。
部屋に、湯呑みと俺だけが残った。
冷めた煎茶を、口に含む。
舌に普段の味が残るかどうかは、まだ分からなかった。




