第89話:記憶の断片
九月終わりの朝の光は、寮のベランダの内側まで深く射し込む角度だった。
午前のうちに水やりを終える。それが、寮に戻ってからの順番になっていた。
六鉢のうち、まだ手をつけていない鉢が一つある。棚の左端、一番奥。枝肌は黒く、節が深い。鉢の縁の苔の入り方からも、何十年という単位で同じ場所に置かれていた樹だと分かる。
俺は鉢の前に座り、葉先に視線を走らせた。
節と節のあいだの緑の濃さ、針の長さ、内側の枝の重なり。
他の鉢のときは、視線が樹形を一度撫でて、すぐ鋏に手が伸びていた。
だが、この左端の鉢の前では、視線が、なぜか同じ場所を二度通り過ぎる。
扉のほうから、控えめなノックが二回。
「師匠、入っていい?」
「うん」
セナが、肩からバッグを下げた格好で入ってきた。今日は配信日ではない。それでもタブレットだけは手放さない。
学園敷地内の寮から研究室は、歩いてすぐの距離だ。彼女が朝のうちに立ち寄るのは、退院から数日でもう習慣になっていた。
俺はそのまま黒松に向き直った。
◇
古い土の表面に、苔がうっすらと生えていた。
濃さの加減を、親指の腹で軽く撫でて測る。
「黒松」
声に出してから、自分の喉が動いたことに気づいた。
誰に向けたものでもない。鉢を見て、葉の形を見て、その数秒後に勝手に口から落ちた音だ。
「……え」
セナが、後ろで一度立ち止まった。
タブレットを閉じ、棚の前に膝をついてくる。
「師匠、いま」
「黒松、と言った」
「……うん」
セナの言葉の選び方が、急にゆっくりになった。
「その黒松、前の家の庭にあったやつだよ」
俺は鉢を見直した。
葉の形が特別に見えるか、と問われると、よく分からない。
ただ、鉢を回そうとした手が、途中で止まっていた。
「前の家、というのは」
「師匠が前に住んでた家。皇ハルトが住んでたほうの家」
セナがその名前を口にするのを、聞いたのは初めてだった。
声の置き方が、いつもの「師匠」のときと、少し違う。
その違いの意味は、まだ完全には掴めていない。
「……そうか」
俺はそれだけ返した。
止まっていた手は、次にどこへ動かせばいいか、分からなくなっていた。
◇
扉の外で、布が擦れる音がした。
次の瞬間、廊下の側からアーサーの声が、低く届いた。
「……主君」
声に、湿った重みがあった。
息の置き方で、もう察した。
たぶん彼は、扉に身を寄せて中の声を拾っていたのだろう。普段の彼なら、寮の廊下で気配を消しているくらいは造作もない。
「アーサー、入れ」
「失礼します」
扉が開いた。
アーサーが、両手を後ろに組んだまま、一歩だけ部屋に入ってきた。
よく訓練された立ち姿だ。だがその目元が、わずかに赤い。
「俺、何か言ったか」
「いえ。主君は何も。ただ、黒松、と。それだけで十分でした」
「お前、泣いてるのか」
「泣いておりません」
アーサーが、間を置かずに否定した。
その否定の仕方が、肯定の仕方より、よほど湿っていた。
「……そうか」
俺は、彼の濡れた瞼を視界の端に置いたまま、左端の鉢に向き直った。
黒松、という単語が出たことに、彼は意味を見出している。
俺自身は、その意味をまだ共有できていない。
うん、と返事をしようとして、その「うん」の宛先が分からなくなる。届いた言葉と、届かなかった意味が、机の同じ高さに並んだまま動かない。
彼が泣いていることと、俺が泣いていないことが、同じ部屋の同じ高さで並んでいるだけだった。
◇
「セナ」
「うん」
「前の家、というのは、どんな家だった」
「私、行ったことない。でも師匠、よく庭の話をしてた」
「庭、か」
「うん。黒松が一番大きくて、真柏が二鉢、五葉松が……」
セナがそこで一度、言葉を切った。
覚えていることを順番に並べていて、その並びの中に俺がいないと気づいた、という顔だった。
「ごめん。私、もっと詳しく聞いておけばよかった」
「お前のせいじゃない」
「うん。でも、もう聞ける師匠が、ここにいないから」
俺はその言葉を、自分の中で何度か裏返してみた。
「ここにいない師匠」というのは、今この鉢の前にいる俺ではない、別の俺のことだ。
その別の俺は、黒松を選んで植え、庭に並べ、毎週どの曜日に水をやるかを決めた人間らしい。
その人間が、今日は、ここにいない。
「セナ」
「うん」
「その『いない人』が、ここにいた頃の話を、いつか聞かせてくれ」
「今すぐじゃなくていいの?」
「今聞いても、たぶん、自分の話とは思えん。それは、失礼な気がする」
「失礼って、誰に」
「その『いない人』に」
セナが、口元を押さえた。
タブレットを置く位置を、何度か直していた。
◇
アーサーは、扉の脇に立ったまま動かなかった。
目元の赤さは、消えていない。
俺は、その赤さを視界に入れたまま、鋏のケースを膝の脇まで引き寄せた。
「主君」
「うん」
「主君が黒松、と仰ったとき、私は嬉しかったのです」
「……そうか」
「いいえ、たぶん、まだお分かりいただけません。ただ、それで構いません」
アーサーはそれだけ言って、深く頭を下げた。
扉が閉まる前、彼が指の腹で目元を一度押さえたのが、視界の端に映った。
彼が嬉しかった理由は、いつかちゃんと聞けばいい。
今すぐ理解できなくても、彼は責めない人間だ。
◇
「師匠」
「うん」
「水、やる?」
「やる。順番、ノートに書いてあるんだろ」
「うん。今日は、左端からだよ」
俺は鉢を回し直し、呼吸を一つ整えてから、葉の表面へ視線を戻した。
さっき確かめた樹形と、葉の形は、変わっていないはずだった。




