第88話:レオ班、初の単独実戦
第三北街区。十月初旬の午後三時。
学園都市の北側、再開発から取り残されたビル街。
午後の光は鈍く、低層ビルの隙間に細く差し込んでいる。
西園寺レオは、路地の入り口で一度だけ立ち止まった。
左手に結城瞬、右手に雫、後方に響。
四人で動くのは、訓練を除けば、初めてだった。
「動線の確認、最後にもう一度」
レオが短く言った。
声に力を入れなくても、三人とも顔を上げた。
「結城は北側、ビル裏の階段口で見張り。雫は中央倉庫前、土魔法で退路の壁を一枚だけ準備。響は風で広域感知。俺は中心点で観測と撤収判断」
「了解」
三人がほぼ同時に返した。
午前中に田中から来た指令書の中身は、単純だった。
第三北街区の旧倉庫から、低出力の共鳴反応が断続的に検出されている。
誰かが共鳴炉触媒を持ち込んでいるか、別目的で稼働させている可能性がある。
任務、接敵せず、観測と離脱のみ。
失敗時の応援要請は、田中本人へ直結。
……ただし、いつも呼んでいた名前は、指令書のどこにも書かれていなかった。
レオは、その一行の不在を、装備のベルトを締め直す動作で受け止めた。
◇
倉庫地帯の入り口に、人気はなかった。
古い金属製のシャッター、剥がれかけたペンキ、踏まれて潰れた段ボール。
風は、僅かに化学的な匂いを運んでいた。
響が、頬の側面を風上へ向け、手のひらを軽く開いた。空気の流れと、その奥で揺れる音の反響を、同時に読む構えだ。
「レオ、半径七十メートル、心拍三つ」
「位置」
「奥の倉庫、二階。三人」
「動きは」
「定位置。会話してる。緊張はしてない」
響の声が、訓練の時より一段だけ低い。
集中の証だ、とレオは判断した。
雫は、中央倉庫の壁の前で、土を一握り掴んで指の間で擦っていた。
水分含有率と粒度を確かめている。
彼女の手癖だ。本人は無意識でやっている。
結城は、ビル裏の階段口に既に位置取っていた。
双眼鏡を構える手が、わずかに震えている。
レオはそれを見て、何も言わなかった。
震えは、たぶん、そのまま動ければそれで充分だ。
◇
観測位置に着いた。
レオは小型のスペクトル分析器を地面に置き、二十秒だけ起動を待った。
数値が、画面に出てくる。
共鳴炉触媒、第零型の派生。出力は本格起動の十分の一程度。
持ち込み量は、判断できない。
レオは胸ポケットの記録用紙に、最低限の数値だけ書き写した。
ペンを止めた瞬間、響の声が無線越しに飛んできた。
『レオ、四つ目』
「位置」
『南、五十メートル、こっちに歩いてる。ビル裏の通路。結城の位置と、近い』
レオは、空気を一度吸った。
四人目の存在は、指令書になかった。
◇
『結城』
レオは無線で短く呼んだ。
『はい。……レオ、すみません、先に動いてもいいですか』
返ってくる声は、心拍が高い。
『理由』
『階段口の上、空気の落ち方が、さっきまでと違います。風じゃない、人の重みの方』
『……どこへ動くつもりだ』
『左、三メートルくらい、物陰の方へ』
『行け、五秒以内に』
『はい』
布が擦れる音、足音、そしてまた静寂。
その三秒後、結城が再び短く言った。
『移動完了。今、男が、俺の元の位置の真上を通りました』
『顔は』
『見えました。以前すれ違った調査員の中にいた人と、たぶん、同じ』
『分かった。退避を最優先、正面切って行くな』
レオは無線を切り、雫の方を向いた。
雫は既に手を地面に下ろしていた。説明される前に、退路の壁の準備を始めている。
◇
残党の四人目は、結城が元の位置にいたら、たぶん、彼の真横に来た。
双眼鏡を構えた候補生を、観測対象として認識した時点で、状況は変わっていた。
結城は、レオの指示を待たずに「先に動いてもいいか」と切り出していた。
その自発の一拍が、結城がまだ気づかないところで、四人の隊形を救っていた。
レオの指示は、結城の判断を「許可」する一秒に過ぎなかった。
……レオはその一連の判断を、撤収中の歩きながら、頭の中で再構成していた。
退路の路地。
雫が地面から引き上げた土の壁が、追跡側の視線を一本切っている。
響が広域感知で、追跡が来ていないことを確認している。
結城は、まだ少し蒼い顔のまま、隊列の真ん中を歩いていた。
誰も、無駄口を叩かなかった。
ただ、隊列の足音が、少しずつ揃ってきていた。
◇
学園都市・候補生宿舎。
夕方の食堂は、いつも通り混んでいた。
四人は、隅のテーブルにトレーを置いた。
誰も、まだ事件のことを口にしなかった。
無事に帰ってきた、と体が認識する時間が、たぶん必要だった。
雫が、味噌汁の椀を両手で包んで、ふっと小さく息を吐いた。
「私、土の壁、用意してた時、全然手が震えなかった」
「珍しいな」
「レオが何も言わなかったから」
レオは、味噌汁の湯気越しに、雫を見た。
言わなかったのは、言う必要を感じなかったからだ。
三人が動く順番を、彼女たちは既に、自分たちで持っていた。
「結城」
「はい」
「『先に動いてもいいですか』、あれが今日の答えだった」
「……」
「指示を待つより、先に違和感を口に出した。あれで、隊形が一つ救われた」
「……うん」
結城は短く頷き、箸を取った。
味噌汁の湯気の向こうで、彼の目が、ほんの少しだけ赤かった。
◇
響が、横から箸を一度止めた。
「ねえ、レオ」
「何だ」
「あの人、呼ばなくて、よかったの?」
「呼ばなかった」
「ううん、よかったの、って聞いてる」
レオは、味噌汁を一口飲んだ。
湯気の温度が、ちょうどよかった。
「いい。今日のは、俺たちで返せる仕事だった」
「……うん」
「そう書いて、田中さんに報告する」
響は短く頷いて、箸を戻した。
結城は、自分の茶碗の縁を一度撫で、雫は壁時計を見上げて、まだ午後六時の少し前であることを確かめていた。
◇
夕食を終えて、宿舎の廊下。
四人で並んで歩いていた。
窓の外、空はまだ橙色だった。
学園都市の塔の輪郭が、その色の中に立っていた。
レオは、廊下の中ほどで一度だけ立ち止まり、窓の外を見た。
以前は、この廊下を、誰かの背中を見ながら歩いていた気がする。
その背中の人物が、今日の指令書には、名前として書かれていなかった。
今日、誰も呼ばずに済んだ。
それだけは、自分一人の判断ではなかった。
「レオ、行こ」
雫が後ろから声をかけた。
レオは頷き、再び歩き出した。
窓の外の橙が、廊下の先で、もう一段だけ濃くなった。




