第87話:田中の頭痛と黒幕の影
第1回公式配信から、四日が経った深夜。
学園都市の北端、地下二階。
田中の執務室には、デスクの読書灯だけが点いていた。
机の上に、五通の暗号通信書類が、重ね順に並べてある。
米、露、英、仏、中。
各国情報機関から「七瀬遙の現状判定について」の非公式照会が、配信終了から二十四時間以内に、ほぼ同時刻に届いていた。
田中は最後の一通に目を通し終え、机の上で角を揃えた。
四つの角を、順に押し直した。揃った。
机の隅、左袖の引き出しの上。
栄養ドリンクの空き缶が、横一列に七本並んでいた。今日の分だ。
田中は八本目の蓋を開け、口へ運んだ。常温の甘さが、舌の上にだけ残った。
◇
壁の薄型モニタに、配信のアーカイブを再生している。
画面の中で、銀髪の少女が小さな鋏を構えている。葉を一枚ずつ落とす手元の動き。
音声はミュート。
田中の机の上のメモには、各国の判定が一行ずつ書き写してあった。
・米:能力健在。昏睡前と同等以上。「再生兵器」として再分類。
・露:照会なし。ただし衛星撮影頻度を二倍に。
・英:「対人テロにおける単独制圧能力を保持」判定。報道支援の打診あり。
・仏:「呪い起源の魔素適応個体」として独立分類を提案。
・中:「観測対象を上位区分へ」内部通達あり。
各国は表現を変えているだけで、結論は揃っていた。
誤魔化しの効かない精度で、見抜かれている。
田中はモニタの中の少女の手元を、しばらく眺めた。
彼女自身は、自分が世界の戦略地図を一枚書き換えていることに、気づいていない。
気づかせる必要も、当面はない。
ただ、気づかせない仕事は、田中一人の机の上に乗っている。
彼は缶を一度傾け、最後の一口を流し込んだ。
◇
時刻は、午前一時を過ぎていた。
暗号回線が、机の上で一度だけ点滅した。
国内からのもの。発信元は、田中自身が組織した内部追尾班。
彼は受信を許可した。短い文字列だけが、画面に流れてくる。
『学園都市・第三北街区の観測ポイント
深夜零時四十分前後、三名合流を確認。
うち一名、大扉決戦以前に確保済の照会対象(残党側)。
残り二名、未確定。
集合理由:未特定。
継続監視へ移行』
田中は短くキーを叩き、了解の信号だけを返した。
第三北街区。学園都市の外縁、再開発から取り残されたビルの間。
ハルトの身体が散歩中に反応した、あの商店街の北側のさらに先だった。
黒幕残党が、新しい打ち手を組み上げ始めている。
その兆候としては、まだ最も小さなノイズに過ぎない。
だが、田中はその種類のノイズを、過去の三つの事件で同じ手順で見てきた。
次は、必ず動く。
彼はメモ帳の新しいページに、見出しだけ書いた。
『次の駒、組成中』
ペン先を一度だけ強く押した。紙が、わずかに凹んだ。
◇
地下の換気音が、低く響いている。
田中は椅子の背に、ゆっくりと体を預けた。
目を閉じる前に、消えたモニタの黒い画面に、自分の輪郭が映っているのを見た。
側頭部の白いものが、また一筋増えていた。
数ヶ月前には、まだ一本しか見えなかった場所だ。
彼はメガネを外し、レンズを布で拭いた。視界の輪郭が、一度だけ滲んで戻った。
◇
受話器に、手をかけた。
番号は、寮の四〇二号室のものだ。
ただし、彼女は今、寝ている時間帯のはずだった。
知らせるべきことは、まだ何もない。
知らせる必要が出た時には、すでに事態は手遅れになっている可能性が高い。
その間隙のどこに、知らせる「ちょうどいい瞬間」があるのか、二十年の現場経験でも、田中はまだ正解を見つけていなかった。
受話器を、静かに戻した。
◇
学園都市から私鉄で四駅離れた、再開発残骸地区の旧倉庫。
窓のないコンクリートの一室で、別の人間がモニタを見ていた。
部屋には電灯が点いていない。机の上のモニタの光だけが、男の顔を下から照らしている。
モニタには、田中と同じ配信のアーカイブが映っていた。
ただし、こちらの画面には、ハルトの手元に、細かい解析グリッドが重ねられている。
関節角度、筋肉の使い方、視線の動き、呼吸の深さ。
すべてに数値が割り振られ、過去の戦闘配信と照合された結果が、右側のサイドバーに並んでいた。
男はキーボードを一度だけ叩いた。
画面の右上に、短い一行が表示された。
『標本A、適応値継続。次段階準備に支障なし』
男はそれを確認すると、解析データを別経路の暗号化サーバーへ送信した。
送信先のドメインは、田中の追尾班がまだ把握していない。
彼が画面を閉じる前、サイドバーの一番下に、別の文字列が一瞬だけ表示された。
『設計者の予測値を超過』
男はその表示を見て、初めて短く息を吐いた。
ただ、その吐息には、感情のような色は混ざっていなかった。
◇
時刻は、午前二時。
田中の執務室の壁時計が、秒針の音だけを刻んでいた。
田中は、メモに書いた『次の駒、組成中』の隣に、もう一行を書き足した。
『観測継続。第二フェーズ、準備期へ』
ペン先を、紙からゆっくり離した。
その動作だけが、地下の換気音より、少しだけ静かだった。




