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第86話:盆栽配信、第1回(公式)

 退院から一週間後の、午前十時。


 寮の部屋に、配信機材一式が並んでいた。

 ベランダ寄りの盆栽棚の前に、三脚が二本、キャビネット型の集音マイクが一台、リングライトが一つ。配線は床の上で蛇行し、机の脚を半周して、延長コードにつながっている。

 俺は朝のうちに六鉢の水やりを終え、作業着を肩から羽織っていた。


「師匠、緊張してる?」

「分からん。どういう状態を緊張と言うのか、思い出せない」

「うん、知ってた」


 セナがタブレットを構えたまま、軽く息をついた。

 彼女自身も、たぶん緊張している。タブレットを持つ指の角度が、普段より一度ぶんだけ立っている。


 廊下から、軽い革靴の音が一度だけ聞こえた。アーサーが扉の外に立った合図だ。配信中、彼は外に控えると朝のうちに決まっていた。


 扉が、ノックなしで開いた。


     ◇


「七瀬さーん、おはようございます!」


 高い声が、廊下から先に届いた。

 続いて、ピンク色のキャリーケースが先に部屋に入ってきて、その後ろから本人が現れた。


 星川キララ。

 名前と顔と、トップアイドルという肩書きは、セナから事前に聞いていた。

 ただ、本人を目の前で見るのは、俺の記憶上は今日が初めてだ。


「七瀬さん、お久しぶりですー」

「……はじめまして」

「あ、ですよね。聞いてました聞いてました、セナちゃんから」


 彼女は俺の返事を、初対面として一切ためらわずに受け取った。

 肩の力が抜けるのが、自分でも分かる。

 アリスの時とは別の方向で、この女は、会話のテンポが少しずれている。ずれている、という言い方は失礼かもしれない。彼女のテンポに、こちらが合わせるべきものらしい。


「今日から私、七瀬さんの『世界観プロデューサー』って肩書きでお仕事させてもらいますね」

「世界観……?」

「七瀬さんの盆栽配信、私がぜーんぶ、世界観プロデュースしますから」

「いや、俺は鋏を動かすだけだぞ」

「そこも込みで、プロデュースなんです」


 キララが両手を腰に当て、胸を張った。

 反論する隙間が、構造的に存在しなかった。


     ◇


 配信が始まった。


「皆さんこんにちはー、星川キララです。今日からはついに、七瀬遙さんの公式盆栽配信、本格スタートでーす!」


 冒頭三十秒だけキララが画面に映り、残りはほとんど俺の手元と盆栽だけが映る、という構成らしい。

 俺はセナの合図に従って、真柏の鉢の前に座った。


 鋏を握る。

 握った瞬間、手の中で柄が一度だけ回った。

 軍人時代に教わった、と聞かされている指運びの癖だ。意識して止めるよりも、回してから握り直す方が、時間として短い。

 ……らしい。

 俺自身は、その出処を覚えていない。


 画面の端で、コメントが流れ始めていた。


『鋏くるくるしてるw』

『落ち着け、まだ枝に触れてもいない』

『キタキタキタ』

『生きてる、確かに生きてる』

『で、いつ戦うの?』


 俺はコメントの「いつ戦うの?」で、一度だけ手を止めた。


「セナ」

「うん」

「戦うって、誰と」

「……それ、コメント欄に返さなくていいから」


 セナが小声で言った。

 画面の隅で、ハートマークが急速に増えていくのが見えた。


     ◇


 剪定に集中していると、時間の感覚が消える。


 枝の選び方、鋏を入れる角度、葉の落とす量。

 これは身体に残っている。正座した瞬間、肩から先が「ここに帰ってきた」と判断する。順番だけは、迷わない。


 配信開始から二十分ほど経った頃、セナが小声で言った。


「師匠、同接、百万超えた」

「……ひゃくまん?」

「人」

「人か」


 俺は鋏を一度膝の上に下ろし、息を整えた。

 百万の人間が、見知らぬ俺の手元を、同時に見ている。

 数字としては理解できる。実感としては、何も湧かない。


「百万円、じゃないんだな」

「お金じゃない、人」

「うん」


 セナが小さく噴き出した。

 タブレットを抱えたまま、肩が震えている。


「どうした」

「師匠、さっきのリアクション、配信に乗っちゃった」

「乗ったか」

「乗った。コメント欄、お金じゃないって突っ込みで埋まってる」


 俺は短く頷いた。

 訂正のしようもなかった。


     ◇


 キララが画面端で軽快に喋り続けている間、俺はもう一度、別の鉢の前に座り直した。


 黒松。

 葉の密度が、先週よりも少しだけ上がっている。

 通気を確保するために、内側の枝を二本、間引く必要がある。


 手が、勝手に判断していた。

 考えている時間より早く、鋏先が次の場所を指していた。


 ……と思ったところで、コメント欄の流れに、別の文字列が混ざった。


『ガチ盆栽勢、また来たのか』

『この人、選んでる枝の順番が逆らしいぞ』

『え、逆だっけ』

『昭和期の流派は、中側から先に入れるはず』

『うちのじいさんがそう言ってた』


 俺は鋏を止めた。

 画面に背を向けて、セナの方を見た。


「セナ」

「うん」

「俺、流派、決まってたみたいだ」

「みたい、って」

「中側から先に入れる、って書いてある」

「師匠、今、外側から手を付けたよね」

「うん」


 俺は鋏を握り直した。

 外側からでも、結果として落とす枝は同じだ。

 だが、流派が決まっていたなら、決まっていた順番で入れるのが、たぶん筋というものだ。


 鉢を回し、内側の枝に向き直った。

 コメント欄が、一拍だけ、静かになった。


     ◇


 配信終了。

 最終的な同接数が、画面右下に小さく表示された。

 百三十二万。


 キララが拳を握って小さく跳ねた。

 俺の隣でセナが「やった」と短く呟き、田中が部屋の隅から控えめに拍手した。

 俺一人だけ、表情の動かし方が分からなかったらしい。


「七瀬さん、第1回、大成功ですよ!」

「百三十二万人、見てたらしいな」

「凄いんですよ、これ。トレンド一位、世界トレンドにも顔出してますから」


 キララがタブレットを差し出した。画面に、片仮名と漢字とアルファベットが入り混じった文字列が並んでいる。

 俺はそれを見て、頷くだけ頷いた。

 表示されている言葉のうち、自分が認識できるのは「七瀬遙」と「盆栽」と「中身」の三つだけだった。

 あとは、たぶん俺ではない誰かの話だ。


「キララ」

「はいっ」

「お前、大丈夫か」

「えっ? 何が」

「……俺の『世界観』をプロデュースする、という仕事、本当に成立しているのか?」

「成立してます。むしろ私の方が、お仕事もらってる側ですから」


 キララは胸を張ったまま、机に置いた付箋帳から一枚剥がして、ペンを構えた。

 俺は、しばらく、彼女の手の動きを見ていた。

 付箋にペン先を当てる前の、軽い空書きの一瞬。その所作のどこかに、見覚えがある気がした。

 形ではなく、たぶん、テンポの方だ。


     ◇


 機材撤収の時間。

 キララは三脚を畳みながら、俺の方を見ずに言った。


「七瀬さん」

「うん」

「私、この呼び方、結構気に入ってるんですよ」

「……『七瀬さん』のことか」

「そう。最初は『お師匠さま』とか『お姉ちゃん』とか、色々考えたんですけどね」

「お姉ちゃん」

「ほら、こないだ告知の時、私のチャンネルで『私のお姉ちゃん、盆栽してる』ってタイトル付けたじゃないですか」

「……すまん、覚えてない」

「あ、そっか。でも結局、長いし、それだと私が弟子か妹になっちゃうじゃないですか」

「弟子でも妹でもないのか」

「弟子でも妹でもなくて、共犯者です」


 彼女がそう言った時、俺の中で、何か小さなものが反応した。

 言葉としては、出てこなかった。

 ただ、視線だけ、自然に彼女の方を向いた。


「……分かった。『七瀬さん』でいい」

「やったー」


 キララが片手を上げ、もう一方の手で軽くハイタッチを要求してきた。

 俺は、迷ったまま、片手を出した。

 手のひらが軽く重なって、すぐ離れた。


     ◇


 全員が部屋を出ていった後。

 配線が半分だけ片付いた盆栽棚が、午前の光の中に残っていた。

 廊下のアーサーの靴音が、玄関側に一度だけ動いた。送り終えて、戻ってきた合図だ。

 俺は机の上を見た。


 『来週もお願いします!』

 キララが残していった付箋に、丸い字で、そう書いてあった。


 来週か。

 俺は付箋を、配信予定表の余白に、丁寧に貼り直した。

 次の予定が、紙の上に一行ぶん、増えた。


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