第85話:再・初対面(アリス)
「主君、お客様です」
退院から五日目の午後二時過ぎ。盆栽棚の鉢を一つずつ拭いていたところで、アーサーが扉越しに告げた。
「誰だ」
「田中殿と、もう一人。少々事情のある方です」
事情のある、という言い方が引っかかった。
アーサーの口調は普段、無駄が少ない。「事情のある方」とわざわざ言ったということは、こちらに先入観を持たせない配慮、あるいは持たせるべきでないという判断のどちらかだ。
俺は布巾を置き、玄関側のスペースへ向かった。盆栽棚はベランダ寄り、ソファは入り口側。同じ部屋を仕切らずに使い分けているだけの、ワンルームの寮だ。
◇
ソファに座っていたのは、田中と、見知らぬ女だった。
金髪を肩のあたりで揃えた、整った顔立ち。瞳は冷えた水のような青で、左の眉の上に古い小さな傷が一筋走っている。
身長は俺より頭一つ高い。年は俺と同じくらいに見える。
ただ、座り方が変だった。
ソファの背もたれに体を預けず、骨盤の位置だけで姿勢を保っている。両手は太腿の上に重ねられているが、指先だけ机の縁の方向にわずかに傾いている。
いつでも立ち上がれる姿勢、というより、いつでも誰かを掴める姿勢だった。
俺の身体が、入室と同時に背筋を一度伸ばした。
彼女がこちらを見た瞬間、俺の右足の重心が、半歩だけ後ろに寄った。
誰かに似た姿勢の人間を、俺は知っている気がした。
誰かは、思い出せない。
俺の隣で、セナが、タブレットを胸に抱え直した。普段の姿勢から、肩が一段だけ縮んでいる。彼女の身体は、俺と違って、相手のことをよく覚えているらしい。
「七瀬さん」
田中が立ち上がった。
「貴女に紹介したい人がいます。彼女は、貴女の協力者の一人です」
女が、ゆっくり立ち上がった。
仕草が滑らかすぎる。普通の十代の女性が立ち上がる時に出るはずの、椅子から押し上げる勢いが、まったくない。
「アリス・シルバーバーグ。よろしく」
俺はその名前を、頭の中で繰り返した。
アリス。
誰のものでもない響き。だが、口に出してみると、舌が一拍だけ躊躇する感覚があった。
「……はじめまして」
俺は短く返した。
アリスの目が、ほんの一秒だけ、見開かれた。
◇
「……ねえ、田中さん」
アリスが、田中の顔を見ずに言った。
「彼女、本当に覚えてないの?」
「ええ。大扉決戦の落下以降、感情記憶のほとんどが」
「……顔も?」
「顔も、名前も、関係性も。全部です」
田中が肩をすくめる。
俺は二人の会話を聞きながら、自分の右手を見ていた。
無意識に、シャツの袖口を一度握り直していた。さっきから、彼女の前で身体が落ち着かない。
「アリス」
俺は名前を呼んでみた。
響きの感触を確かめるためだ。
「うん」
「俺、お前のこと、知ってる?」
「殺そうとした女、よ」
「は?」
「私、あなたを殺そうとした女」
ソファの脇でセナがタブレットを取り落としかけた。
俺は、しばらく黙った。
◇
「えっと」
頭の中で、いくつかの可能性を並べた。
冗談で言っている。違う、目が笑っていない。
誇張で言っている。違う、語尾の置き方が事実陳述だ。
動揺を誘っている。違う、彼女自身が動揺している。
俺は短く答えた。
「……はじめまして」
「二度目」
「うん」
「あなた、本当にそれだけなの?」
「他に何を言えばいい」
「『お前を許す』とか、『刺し殺してやる』とか」
「そんな台詞、戦場じゃないと使わん」
言ってから、自分でも引っかかった。
戦場、という単語が、考える前に口から出た。
それが正しい単語かどうか、俺自身には分からない。
ただ、舌が覚えていた。
アリスの口角が、わずかに動いた。
「……なるほど」
「何だ」
「言葉の選び方だけ、まだ昔のままなのね」
彼女が小さく笑った。
今日初めて見せた、力の抜けた笑い方だった。
◇
「で、何しに来た」
俺が聞くと、田中が手元のファイルを開いた。
「アリスさんは、現在、こちらの限定協力者として登録されています。今後、貴女の周辺で発生する案件の一部に、彼女を投入する場合があります。本日はその顔合わせです」
「拘束は」
「外しています。ただし行動範囲は制限。通信端末は貸与品のみ。単独行動禁止。一回でも裏切れば、次は会議室ではなく独房です」
田中が淡々と読み上げた。
最後の一文だけ、台本ではなく自分の言葉のように聞こえた。
俺はアリスを見た。
彼女はもう、最初の固い姿勢を崩していた。
「お前、なんで協力者になったんだ」
「組織から切り捨てられたから。死にたくないから」
「迷いがないな」
「迷う時間が、もう残ってなかったの」
アリスの口調が、少し早くなった。早口で言わないと、感情が混ざるタイプの内容らしい。
俺は頷いた。
話の中身は分からない。だが、彼女が「即答せざるを得なかった」ということだけは伝わった。
「分かった」
「……分かったって、何が」
「お前を信用するかどうかは、これから決める。今は、お前の話を聞いた。それだけだ」
アリスが目を細めた。
今度は、笑わなかった。
「……前のあなただったら、もう少し皮肉な返し方をしてた気がするわ」
「悪かったな」
「ううん。今のあなたの方が、ちょっとだけ、楽」
彼女がそう呟いた時、田中が一度だけ咳払いをした。
話を進めたい合図だった。
◇
別れ際、玄関で。
アリスが靴を履きながら、振り返らずに言った。
「ナナセ」
「うん」
「あなた、本当に覚えてないのね」
「うん」
「……それも、悪くないかも」
扉が閉まる音と、田中の革靴の足音が、廊下を遠ざかっていった。
俺は玄関に立ったまま、しばらく動かなかった。
誰かに「殺そうとした」と打ち明けられたのは、生まれて初めて、たぶん。
いや、生まれて初めてかどうかは、もう分からない。
「師匠」
セナが横から声をかけた。
「あの人、敵だったの? 味方だったの?」
「分からん」
「でも、危険じゃない感じだったね」
「俺の身体が、そう言ってる」
セナが頷いた。
俺は盆栽棚の方へ歩き出した。
拭きかけの鉢が、まだ机に出しっぱなしだった。
拭く順番だけは、覚えている。




